元禄15年の12月14日(旧暦)は、赤穂浪士四十七士が吉良邸へ討ち入りをした日です。事件の後、赤穂浪士の処分について幕府内では相当な議論があったようです。彼らの行動を武士の鑑と見ての「助命論」や、幕府の威令や法秩序を守る立場からの「切腹論」などです。しかし庶民は圧倒的に浪士支持でした。 ▲12月14日は忠臣蔵・討ち入りの日(Wikipediaより、アゴラ編集部) 時の将軍は五代綱吉で、老中は柳沢吉保でした。彼らの処分に関して、幕府の実質的な最終判断は誰が下したのかよく知りませんが、その判断如何によっては、庶民だけでなく、武士階級にまで及ぶ共感的な浪士支持の世論を敵に回しかねなかっただろうと想像できます。 最終判断は「斬首」ではなく、「義士として切腹」としたあたりに幕府の配慮が見られるとはいえ、太平の世に47名もの武士の命を一度に奪うのですから、幕府としては相当な決断が必要だっただろうと想像