一般的に「キリストの墓」と呼ばれるのはエルサレムの聖墳墓教会である。戸来村の「キリストの墓」は、1935年(昭和10年)、皇祖皇太神宮天津教の教主である竹内巨麿らによって「発見」された。 その契機となったのは、当時の戸来村村長である佐々木伝次郎が、観光振興の一環として、日本画家の鳥谷幡山を招いたことである。竹内の信奉者であった鳥谷は、日本における超古代文明の存在を信じており、戸来村を視察したのちここが古代の神都であったと結論づけた。彼の「発見」をうけた竹内ら天津教の関係者は戸来村を訪れ、同地に古くから存在した塚がキリストの墓であると主張した。彼らの論じるところによれば、ゴルゴタの丘で処刑されたのはキリスト本人ではなく、実際にはその弟であるイスキリであり、キリストは実際には日本まで逃れ、当時神都として栄えていた戸来で余生を過ごした。同説は、昭和期に突然現れた、歴史的な文脈を有さない湧説(よう