来年も作りたい!ふきのとう料理を満喫した 2024年春の記録 春は自炊が楽しい季節 1年の中で最も自炊が楽しい季節は春だと思う。スーパーの棚にやわらかな色合いの野菜が並ぶと自然とこころが弾む。 中でもときめくのは山菜だ。早いと2月下旬ごろから並び始めるそれは、タラの芽、ふきのとうと続き、桜の頃にはうるい、ウド、こ…
来年も作りたい!ふきのとう料理を満喫した 2024年春の記録 春は自炊が楽しい季節 1年の中で最も自炊が楽しい季節は春だと思う。スーパーの棚にやわらかな色合いの野菜が並ぶと自然とこころが弾む。 中でもときめくのは山菜だ。早いと2月下旬ごろから並び始めるそれは、タラの芽、ふきのとうと続き、桜の頃にはうるい、ウド、こ…
卒業していく君へ。 卒業おめでとう。本当は面と向かって言ったほうが良いのだけど先生という立場だと私の発言が思った以上に重くなってしまうので直接君にはいえない。でも、君への言葉を一度形にしておかないと私の頭に一生こびりつきそうなのでここに書かせてもらうよ。 今年、君は卒論に苦しんだね。君が卒論に苦しんだ理由は自分でも分かっていると思うけど、常に外部に正解を求めたことにあるんだ。私が「どうして、それが正しいと思うの?その理由を教えて。」と聞くと、いつも君は表情を凍らせて黙ってしまったね。何度も何度も「研究には正解とか不正解とかない。誰も答えを知らないから研究になっているんだ。だから、自分の主張をとりあえず述べて、相手の反論が正しいと思えてから自分は間違っていたと考えれば良いんだよ。」と伝えたのだけど、最期最後まで君は自分の主張の正しさを自分の言葉で言えず、常に私の保証を求めたね。はっきり言って
大変ばかげた議論なので、きちんと封じ込めておく必要があると思い、書く。 とくに金美齢氏は、己の自己責任を恥じ入るべく、100回は読み直すように。 すこし迂回するが、「悪」の問題からはじめる。 「悪」の矛盾 「悪人」には矛盾がある。 1)彼は生まれながらにして、その性質、その気質が「悪人」であるから、彼は悪人である、と言える。 2)しかし、彼が行った行為は、彼の「自由意志」で行われた−「善」なる行動も選択できた−ものでなくては、「悪」とは言えない。 かれが自分の「自由意志」とは別に行動したのだとすると、彼に責任は問えないのだ−つまり「心神耗弱」状態と同じだということだ。 だから、 1)悪人は元々「悪い」ことしかできない 2)にもかかわらず、彼は「善行をなす」可能性を持っているから、その行為に責任を持たなければならない ということになる。 必然的に悪事をはたらく悪人が、善行をなす可能性を持って
娘。いじめられているというほどではないが、みんなに嫌われて除け者にされていると言う。 直接悪口を言われたり危害を加えられたりとかはないそうだけど、 避けられたり無視されたり、一緒のグループになったり修学旅行で部屋が同じになったりすると愚痴を言われたりするそうだ。 娘が誰かと一緒に歩いていたりすると、その子が他の子から嘲笑されるそうだ。 娘のことを別に嫌いではないのに、他の子から嘲笑されるのが嫌で避ける子もいるという。 いつも単独行動。 本人は毎日学校に行っている。 もう嫌だ、学校を代わりたい。と。 これから先、また同じ問題に直面しないだろうか。 今ある環境に満足いかないからやめて次の環境に移る、この繰り返しにならないか。
楽しく拝見させていただき、非常に勉強となっています。 本日ははてサの皆様に質問がございます。 よく、ネット右翼の皆様は弱者救済を自己責任論で完結させようとしていらっしゃいます。 この辺の理屈は非常に単純明快でわかりやすいものがございます。 おそらく、私が愚考いたしますに、「俺ら頑張ってきたんだから楽するなんて許さないよ」という心境がございますのでしょう。 皆様は大変努力なされてきたのでしょう。一学生の私はただただ敬服するばかりです。 私にはその考えはとても理解しやすいものです。 対するはてサの皆様は弱者救済を声高に叫んでいらっしゃいます。 慈愛の心に満ち溢れる、自然と出てきた主張でありましょう。 人なのですから、助け合いの心は大切ですよね。 しかし、どのような行動にも「理由」はあるものだと私は考えております。 皆様なりの思うところがあり、弱者保護の拡充、体制の変革を求めていらっしゃるのでし
トラックバックを頂いた記事――ぼくも始終ネガティブコメントをもらっているよ、と彼は言った - 未来私考のブックマークページに、はてなブックマーク - ぼくも始終ネガティブコメントをもらっているよ、と彼は言った - 未来私考こんなコメントがありました。kaien どうでもいいけれど、「始終」とは「いつも」の意味なわけで、いつもネガティブコメントもらっているならそれは本人の責任としかいいようがないと思う。もしくは集団でいじめられているか。http://b.hatena.ne.jp/kaien/20081211#bookmark-11241772 これは、「いじめられるのはいじめられる側にも責任がある」という意味なのでしょうか? いや、むしろ「いつも」いじめられているならば、それは「本人の責任としかいいようがない」と言ってるようにさえ見えます。 だとしたら、なんと無神経な言葉なのでしょうか。ここ
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