ブックマーク / blog.tatsuru.com (13)

  • 「腹の読めないおじさん」から「のっぺりしたリーダー」へ - 内田樹の研究室

    毎日新聞の取材で「リーダー論」について訊かれる。 どういうリーダーがこれから求められるのか、というお話である。 大阪のダブル選挙に見られたように、時代は「あるタイプのリーダー」をつよく求めている。 そのトレンドは仮に「反・父権制」(anti-paternalism)的と呼ぶことができるのではないかと思う。 このトレンドは個別大阪の現象ではなく、日社会全体を覆っており、それどころか国際社会全体を覆い尽くしているように見える。 かつて国際政治の立役者たちは「父」たちであった。 ヤルタ会談に集ったルーズベルト、チャーチル、スターリンの三人が図像的に表象していたのは「あらゆることを知っており、水面下でタフな交渉をし、合意形成に至れば笑顔を見せるのだが、そこに至る過程での熾烈な戦いと、そこで飛び交った『カード』についてはついに何も語らない父たち」である。 「父」たちの特徴は「抑制」と「寡黙」である

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    mori99 2011/12/31
    腹の読めないおじさんが廻せるのは同じクラブ内だけっぽいので、ヨーロッパの上流階級だけで世界を回していた特殊で短い時代以外では世界を相手の交渉は無理な気がします。
  • 感情表現について - 内田樹の研究室

    海江田経産相が国会で落涙したことについて、週刊現代から電話取材を受けた。 「どう思いますか?」と訊かれたので、こんなふうに答えた。 どうして「そういうこと」が起きるのか。 理由は二つ考えられる。 一つは「感情表現が抑制できない人が増えている」という解釈。 一つは「感情表現について抑制的である必要はない」という考え方が広く定着したという解釈。 たぶん、その両方の理由によるものだと思う。 感情は自分の内面に根拠をもっていると私たちは思いがちだが、ほんとうはそうではない。 脳科学が教えるところによれば、私たちは感情を外部にあるものの模倣を通じて学習するのである。 ミラーニューロンの働きについてはこれまでも何度も書いてきた。 他人がある動作をしているときに、それを見ているものの脳内ではそれと同じ動作を指示するニューロンが発動する。 ミラーニューロンは、行為をするときにも、知覚するときにも動くのであ

    mori99
    mori99 2011/08/10
    私の実感では、昔に比べると泣く人は増えたが怒る人はかなり減っている。昭和の成年男性ははばかる事なく怒りちらかしているイメージが強い。
  • 原発供養 - 内田樹の研究室

    昨日の話の続き。 それぞれの社会集団は、「恐るべきもの」と折り合うために、それぞれ固有の「霊的作法」を持っているという話だった。 日人は外来のものを排除せず、それを受け容れ、「アマルガム」を作る。 ユーラシア大陸の東端にあり、これから先はない、という辺境民が採用したのは、いわば、「ピジン型」の文明摂取方法だった。 これはヨーロッパの辺境、アイルランドの文明史的地位と構造的に似ている。 聖パトリキウスはケルトやドルイドの土着の神々たちとのまじわりの中でキリスト教を布教した。 そのときに土着の神々を「根絶」するというユダヤの神の苛烈さを避け、地祇たちを生き残らせた。 それがアイルランドに今も生き残る「妖精たち」である。 前に中沢新一さんとおしゃべりしたときに、『伊勢物語』に出てくる「在原業平」というのは固有名詞ではなく、ある種の「集団」ではなかったのか、という話になったことがある。 彼らは「

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    mori99 2011/04/08
    心情的にはわかるが反対。その流れは極限時に無意味な贄を生みかねない。特攻隊のような。今でさえ、作業員の苦行を称える論調にその気配があるのに。
  • 荒ぶる神の鎮め方 - 内田樹の研究室

    秋葉原のリナックス・カフェで、ラジオカフェの収録。今回はustで画像放映。 平川くん、中沢新一さんと、「カタストロフの後、日をどう復興するか」について、語り合う。 その中で、中沢さんが「第七次エネルギー革命」で人類ははじめて、生態系に存在しないエネルギーを、いわば「神の火」を扱うようになった、という話を切り出した。 そのときmonotheisticとい単語が出て来た。 原子力テクノロジーというのは、いわば「荒ぶる神」をどう祀るかという問題である。 そうである以上、それぞれの社会の「神霊的」なもののとらえ方をストレートに繋がるのではないか。 という話を中沢さんから聞いているうちに、いろいろなことが「がちゃがちゃ」っとつながった。 数千年前、中東の荒野に起きた「一神教革命」というのは、人知を超え、人力によっては制することのできない、理解も共感も絶した巨大な力と人間はどう「折り合って」いけるか

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    mori99 2011/04/07
    日本人にとって放射能は未知の恐怖ではなく既知の危険だからでは?例えば広島では被爆者であること被爆者の子供であることは日常でありスティグマを意味しない。恐怖は過大に扱われるが危険は軽んじられやすいとか。
  • 才能の枯渇について - 内田樹の研究室

    クリエイティヴ・ライティングの今年最後の授業で、「才能」について考える。 天賦の才能というものがある。 自己努力の成果として獲得した知識や技術とは違う、「なんだか知らないけれど、できちゃうこと」が人間にはある。 「天賦」という言葉が示すように、それは天から与えられたものである。 外部からの贈り物である。 私たちは才能を「自分の中深くにあったものが発現した」というふうな言い方でとらえるけれど、それは正確ではない。 才能は「贈り物」である。 外来のもので、たまたま今は私の手元に預けられているだけである。 それは一時的に私に負託され、それを「うまく」使うことが私に委ねられている。 どう使うのが「うまく使う」ことであるかを私は自分で考えなければならない。 私はそのように考えている。 才能を「うまく使う」というのは、それから最大の利益を引き出すということではない。 私がこれまで見聞きしてきた限りのこ

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    mori99 2010/12/26
    自分の才能に振り回されないための処世術?
  • 暑いよお (内田樹の研究室)

    猛暑日が続くが、大学はまだ一週間授業がある。ほかの大学の中には8月中旬まで授業をするところがある。 なぜ、このような劣悪な気象状況の下で授業をしなければいけないのかというと、文科省が「半期15週必ず授業をやること」と厳命してきたからである。 従わなかった場合には助成金削減などのペナルティをちらつかせているので、どこも仕方なく国民の休日を開校日にしたり、入学式の週から授業を始めたり、夏休みを短くしたりして対応している。 なぜ、授業時間が増えたかというと、理由は簡単で、「日人の学力が低下したから」である。 それに対して政治家と財界から文科省にうるさく「いったい教育行政はどうなっているのか」と譴責がなされる。 文科省としても、何かをしないと恰好がつかないので、とりあえず「授業時間を増やせ」というきわめて頭の悪いソリューションを(「頭悪いなあ」とたぶん人たちも思いながら)大学に通達したのである

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    mori99 2010/07/20
    大多数の社会人に恨みを買うエントリーかと。
  • 論争について - 内田樹の研究室

    ある月刊誌から上野千鶴子と対談して、「おひとりさま」問題について議論してくださいというご依頼があった。 上野さんと対談してくれという依頼はこれまでも何度もあった。 どれもお断りした。 繰り返し書いているように、私は論争というものを好まないからである。 論争というのはそこに加わる人に論敵を「最低の鞍部」で超えることを戦術上要求する。 それは「脊髄反射的」な攻撃性を備えた人間にとってはそれほどむずかしいことではない。 あらゆる論件についてほれぼれするほどスマートに論敵を「超えて」しまう種類の知的能力というものを備えている人は現にいる(村上春樹は『ねじまき鳥クロニクル』でそのような人物の容貌を活写したことがある)。 それは速く走れるとか高く飛び上がれるとかいうのと同じように、例外的な才能である。 でも、そのような才能を評価する習慣を私はずいぶん前に捨てた。 そのような能力はその素質に恵まれた人自

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    mori99 2010/06/05
    「名誉殺人」のように国家権力によって守られなければ血縁共同体から殺される場合もありうる女性の現実。母権社会であれば上野さんの選択も違うかもね。
  • リンガ・フランカのすすめ - 内田樹の研究室

    大学院のゼミで、シェークスピアの受容史について論じているときに(いったい何のゼミなんだろう)通訳翻訳コースの院生から、私の論の中にあった「言語戦略」という概念についての質問を受ける。 言語は政治的につよい意味を持っている。 母語が国際共通語である話者は、マイナー語話者(たとえば日語話者)に対してグローバルな競争において圧倒的なアドバンテージを享受できる。 なにしろ世界中どこでも母語でビジネスができ、母語で国際学会で発表ができ、母語で書かれたテクストは(潜在的には)十億を超える読者を擁しているのである。 自国のローカルルールを「これがグローバル・スタンダードだ」と強弁しても、有効な反論に出会わない(反論された場合でも、相手の英語の発音を訂正して話の腰を折る権利を留保できる)。 だから、自国語を国際共通語に登録することは、国家にとって死活的な戦略的課題である。 ご案内のとおり、20世紀末に、

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    mori99 2010/05/12
    既に英語は英語ネィティブ以外との会話に使用されることがメインでしょうし、もしアラブ人と中国人と米人の英語での商談の途中で米人が英語に難癖を入れたら米人が放り出されるのが現実かと。
  • 「大反論」に反論(じゃないけど)(内田樹の研究室)

    週刊ポストの中吊り広告を見て、びっくりした話は昨日ツイッターに書いた。 「上野千鶴子に内田樹が大反論!」というアオリの効いたタイトルがつけてあるけれども、もちろんこれはポスト編集部の客寄せ「羊頭狗肉」タイトルであって、中身は「大反論」などいうほど気合いの入っていない「いつもの話」である。 その中の上野「おひとりさま」論に直接言及した箇所は以下の通り。 『おひとりさまの老後』には強い違和感を持ちました。あのの核心は「家族が嫌い」ということをカミングアウトした部分でしょう。「家族に何の愛情も感じてないから、世話になる気もないし、世話をする気もない」と考えている人が現に大量に存在している。でも、その心情は抑圧されていた。上野さんがそれを代弁したことがひろく共感を呼んだのだと思います。でも、ぼくはそれは「それを言っちゃあ、おしまいだよ」という言葉だったと思います。 「ひとりで生きる」ことが可能だ

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    mori99 2010/04/29
    私は結果と原因が逆だと感じていたな。科学と技術が社会を変えたが故に、それを信奉することで生きやすくなる人が増えたからフェミニズムが起こったのだと。豊かさよりもシステムの問題だと思う。
  • 彼は牡蠣のように寡黙な人だ - 内田樹の研究室

    Amazon に出ていたので、思い立って山崎貞『新々英文解釈研究』(研究社)と佐々木高政『和文英訳の修業』(文建書房)の復刻版を購入。 高校一年生のとき、1967年の四月に買ったのだが、引越を繰り返しているうちになくしてしまった。 『新々』の最初の文例を私は長いこと He is an oyster of a man. だと思い込んでいたが、これは三つめの文例で、最初は A man of learning is not always a man of wisdom.でした。 それにしても an oyster of a man というのはインパクトのある文である。 意味は「彼は牡蠣のように寡黙な人だ」。 この文例については二つ思い出がある。 一つは大学生の頃、自由が丘のシグナルヒルのカウンターでお酒をのみながら知り合いとおしゃべりをしているときに、『新々英文解釈』の話になったことがあった。 そ

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    mori99 2010/02/28
    ごめんなさい。いや、さすがに当人ではありませんが、なんとゆーか、まあ、もごもご。その人、きっと何年か後に指摘されるか自分で気が付いて「うがー!」となったはず。そっちの方がきついです。はい。
  • こびとさんをたいせつに - 内田樹の研究室

    金曜日はゼミが一つと会議が三つと杖道の稽古。 1年生の基礎ゼミの第一回目。 この何年か、1年生のゼミが面白い。 大学のゼミってどういうものだろう。なんだか知らないけれど、いつこうという「前のめり感」があって、こちらもそういうのには弱いので、つられて前のめりになってしまう。 最初は「ゼミとは何か」ということについてお話しする。 でも、実は私にも「ゼミとは何か」ということがよくわかっているわけではない。 だから、毎年言うことが変わる。 今回はふと口を衝いて「ゼミの目的は自分の知性に対して敬意をもつ仕方を学ぶことです」と申し上げてしまう。 言ってみてから、そういえばそうだなと思う。 ポランニーの「暗黙知」(Tacit Knowing) も、カントの「先験的統覚」も、フッサールの「超越論的直観」も要するに、「私は自分の知らないことを知っている」という事態を説明するためにつくられた言葉である。 古

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    mori99 2009/10/03
    この境地が素直にうらやましい
  • 英語で合気道 - 内田樹の研究室

    今学期から始まった科目で Introduction to Japanese Culture というのがあって、その1回分を担当することになった。 海外からの留学生に日文化を紹介する「日文化早わかりコース」のようなものである。 私が担当するのは合気道のワークショップ。 フランス語で合気道を教えたことは何度かあるけれど、英語でやるのははじめて。 私は英語を話すのが苦手なので、ずっと気が重かったのであるが、終わってほっとした。 むかし合気道部にいた国際交流センターの北川くん(おいちゃんとは別人)がめんどくさいところは通訳してくれたので、助かりました(ありがとね)。 英語教育については少し前にブログに書いたことをめぐって鹿児島の梁川君と意見の交換をした。 話してみると、けっこうむずかしい問題なのである。 なかなか「これ」という結論には落ち着かない。 その話を少し続けたい。 すでに理系の世界では

  • 握らない一教 - 内田樹の研究室

    死のロードの最終日一日前。 楽しい合気道のお稽古。 なんだかやたらたくさん人が来ていて、40 人近くいる。 このところ、みんな上り調子なのである。 合気道がおもしろくてしょうがないという顔をしている。 たぶん、きっかけの一つは「握らない一教」からである。 正面打ち一教、とくに裏のとき、腕の力を使いがちになる。 これがどうもよくないのだけれど、なかなか修正が効かない。 がばっと相手の肘を握って、引き倒すようなかたちになると、「斬り」にならない。 原理的にいうと、ものを「斬る」ためには刃筋がつねに体の正中線上になければならない。 しかし、徒手の武術しか経験のない人たちに「刃筋」という概念を理解してもらうのはなかなかむずかしい。 ふと思いついて、取りは肘を握らない、手首も握らない、掌を当てるだけの稽古をすることにした。 発想の転換である。 「受けの身体運用」を中心に稽古するのである。 手首、肘に

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    mori99 2008/11/30
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