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百合とマリア様がみてるに関するmosshmのブックマーク (2)

  • ■ - Something Orange

    色々考えたのだけれども、そういうものの中において、もはや男性の欲望は少女の主体の側に同化してるんじゃないかと。少女を殺してべたMとか、そもそも殺したいとかべたいとかいうことの中には同化の願望があるんじゃないか。 田透氏なんかの著作を読んでいても、現実の女はイラン、2次元だけでいいと書いてあるけれども、じゃあどうしてそうやって必死で作り上げるイメージが少女なのか。女でなければならんのか。ということが気になるのですよ。なんで少年同士で、とかいうことには間違ってもならんのか。だって持ってるカラダが違うじゃないですか。なぜ大塚英志氏は少女に異常な執着を持って研究なさるのですか。 ――「少女になりたい人たち」 2ヶ月も前の記事だが、最近見つけたので言及しておく。 さて、どうだろう。ぼく個人にかんしていうなら、少女になりたいという願望はないと思う。 潜在意識の底までさらってみればどうかはわからな

    ■ - Something Orange
  • 「マリみて」から、百合をもう一度考える。 - たまごまごごはん

    マリみてって、実際「百合」なの? マリみてはいわゆる百合じゃない!(かーずSPより) 百合とはなにかを考え直させてくれるしっかりしたエントリ。 もし百合を「AからBへの恋愛」と定義した場合、百合なシーンはあまりないですネ。マリみて。 このへん、それぞれの定義感で違うと思うので、人によってはあってもいるしちょっと違っているとも思います。 以前も書いたような自分の中での定義は「女性としての存在Aさんから女性としての存在Bさんへの、親愛や恋愛の感情や関係性を描いた作品」と、わりと広めにとっているので、「マリみて」は「百合」です。自分内で。 たまごまごなりの、マリみて観 一応説明も書いてみます。 聖と栞の関係や、志摩子と乃梨子の関係などは友情だけならぬさらに深い親愛の情を、普通の作品以上に中心の主題にしています。それを繊細に描いていると思うので、他の友情作品とは違う特別なものとして扱われます。マリ

    「マリみて」から、百合をもう一度考える。 - たまごまごごはん
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