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議論とニセ科学に関するnavecinのブックマーク (2)

  • 中立の恥ずかしさ - pokoponにっき

    東京と大阪の中間はどこか、地図を見ればわかる。ラダトームとメルキドの中間はどこか、ゲーム上のマップを見ればわかる。では、大阪とラダトームの中間はどこか。 このblogでは、これまでしばしば「位相の違い」というか、枠組みが違うということを理解できないような話を、例えば「物心がつかない」とか、そういう表現で嘆いていたわけである。世にトンデモさんと言われるケースはその典型なんだろうと思う。 東京も大阪も現実の地名である。ゲーム上の地名とは違う枠組みにあるわけである。その中間というのはないのだ。 ところがである。世に位相が違うのに、その中間であると称する人が少なからず存在する。違った枠組みの中の「論」の中立という形だ。 科学というのは万能ではない。というか、科学というのは発展すればするほど謎が増えてくるようである。昔の人は4つの力はどのように統一的に考えられるかなんて悩まなかったのだ。でも、4つの

    中立の恥ずかしさ - pokoponにっき
  • 「すべてを知っているのでなければ何も理解していないと同じだ」論法 - Apeman’s diary

    館の方で扱ってもよいテーマなのだが、あえてこちらで。 『日経サイエンス』、「英語で読む日経サイエンス — "Should Science Speak to Faith?"「科学と宗教は対立するのか」より抜粋」 ローレンス・クラウス(物理学者)とリチャード・ドーキンスの討論の一部。 クラウス (…) 一例を挙げましょう。私は折に触れ,創造主義者や宇宙人誘拐者説の狂信者と議論してきました。両者とも解釈の質について同様の考え違いをしていて、「すべてを知っているのでなければ何も理解していないと同じだ」と思っているのですね。 議論のなかで、彼らは解しがたい主張,例えば1962年にモンゴルの人たちが教会の上に空飛ぶ円盤が舞っているのを目撃した、という話を取り上げます。そして私にこの話を知っているかと尋ね、私が知らないと答えると、決まってこう言う。「この種の事例を調べ尽くしていないのなら、『宇宙人に

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