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学問に関するnavecinのブックマーク (8)

  • 自然数はどうして0から始まるか?

    私が小学生のころ、自然数は1から始まると教えられました。ところが、現在では、0から始まると教えられています。この変更にはどんな意味があるのでしょうか。0から始まることによって自然数にどんな意味が見出されたというのでしょうか。 自然数を公理として初めて明確に表したのがペアノでした。ペアノの公理は、まず最初の数があり、その後に次々と数が出来ていくように造られています。したがって、ペアノの公理の場合、最初が1でも0でも問題ありません。とにかく自然数の最初の数があるということさえ明確になっていればいいのです。 ところが、現代集合論の公理としてのZF公理はそうではありません。ZF公理はどうしても0を自然数のはじめにしなくてはならなかったのでした。どうしてそのようなことが言えるのでしょうか。この点について考えてみたいと思います。 ZF公理は集合論の公理ですので、私たちが一般に自然数と呼んでいるものも各

  • 続・「なにが歴史修正主義の問題なのか」についての私見 - Close To The Wall

    (承前) 相対化という問題 もちろん、歴史修正主義の議論がすべて差別主義とイコールで結ばれるという訳ではない。否定論を少しでも認めることが、ただちに差別主義に加担することだなどと言われれば強く反発を覚える人も多いだろう。私もちょっと決めつけすぎだなとは思う。右派言論の多くが、そうした差別主義と親和的だからと言って、個々の修正主義的議論が必ずしも差別的認識を前提にしているわけではない。歴史的な問題についての議論に的を絞った洗練された南京事件否定論そのものは、必ずしも差別主義とはいえない。 だから、そうした差別主義的言動を脇におくとして、純粋に歴史的問題として考えようとすれば、素人目には一見判断が付かない厄介な問題なように見える。ただ、こと南京事件否定論にかんして大きな問題になるのは、ネットで蓄積されている議論というのが、否定論と反否定論だという事実に一因がある。 南京事件否定論はネットで非常

    続・「なにが歴史修正主義の問題なのか」についての私見 - Close To The Wall
  • http://twitter.com/anisopter/statuses/894302805

  • re: 中立 ≠ 無知 - ls@usada’s Backyard

    「その分野について全然勉強してないので、何も分からない」状態と、「その分野について十分に知識があって、その上で何か目的があって両極から距離を置いている」状態を、両方とも「中立」と呼称するせいでカオス化する問題。他の定義ずれ系と異なり、「中立」という概念は特定の話題に拘束されないので、どんな話にでも登場し得る。問題は前者の「何も分からない〜」の方に集中しており、かなり厄介な挙動を取る。代表的な例を挙げる。 基的な知識がなくても、相手が抽象化やたとえ話を駆使してうまく説明すれば、どんな事でも十分理解できると思っている。 基的な知識がなくても、抽象化やたとえ話を駆使すれば、どんな事にも十分言及できると思っている。 「勉強してから喋った方が…」的な事を言われると「素人は黙っていろということか」。 「無知な一般人からの意見こそ、非常に貴重である」と自分で言う。 揉めてるところに割って入って「内容

    re: 中立 ≠ 無知 - ls@usada’s Backyard
  • 朴斎雑志: どちらが不寛容か

    自称「研究家」や、その説を支持する人がよく言うセリフに、「学者は新説に対して不寛容だ」 というのがある。自分の「既得権益」を侵されたくないから、スクラムを組んで「新規参入」を妨げているのだと、最近はやりの「規制緩和」派の言い分をそのまま学界にも適用しようとするわけである。 研究者の書く論文を全く読んだことがない人なら、こう言われるときっと納得して同情を感じることであろう。「そうだ、ちょっとくらい話を聞いてあげてもいいじゃないか、新しい試みを認めてあげてもいいじゃないか」と。 そう思っている人がもし 研究者の行う研究は、他者に対しても寛容である。 と聞いたら、「え? 何かの間違いじゃないの?」と声を上げるに違いない。 文学研究の場合を中心に話を進めるが、学術論文では通常、最初にそれまでの先行研究を挙げて、その問題点を指摘してから、自分の考えへと移るスタイルを採る。しかしそこをよく読むと、問題

    朴斎雑志: どちらが不寛容か
  • 管賀江留郎について、あるいは私は考えない。 : 少年犯罪データベースドア

    2070年01月01日00:00 管賀江留郎について、あるいは私は考えない。 少年犯罪データベースの主宰をやっている者が、kangaeru2001だの管賀江留郎(かんが えるろう)だの、恥ずかしくもいかがわしくちょっぴりおセンチな名前を名乗っているのは、わたくしは考えているぞとか、あるいはみなさん考えましょうとか云いたいわけではないのです。その逆です。 そもそものはじまりは<少年犯罪を考える>というすばらしいサイトがある日突然なくなってしまって、どうしたのだろうと思っていたら、データをまるまる違う場所にアップしたミラーサイトをはじめた方がいまして、サイト閉鎖の経緯などを訊こうとメールを出したのですが、その方もたまたまデータを保存していただけで理由は知らず、やりとりをしているうちになんでかなりゆきで私がそのミラーサイトを引き継ぐことになってしまったのでした。 つまり、ひとさまのサイトを無断で

    管賀江留郎について、あるいは私は考えない。 : 少年犯罪データベースドア
  • 「ありえない」論法と否定論存続の背景 - Apeman’s diary

    (1) 最初に、なにをもって「南京事件否定論」と呼んでいるのか、「歴史修正主義」と呼んでいるのかを再確認しておきましょう。南京事件否定論を巡る議論に馴染みのない方がこの数日おいでになっている可能性が高いので。 「否定論」「修正主義」と私が呼ぶ第一の基準は、犠牲者数推定の数ではありません(結果的には数がメルクマールになりますが)。犠牲者数推定を行なう手法、そしてなによりその目的が基準です。例えば秦郁彦の『南京事件』(中公新書)では、当時(1986年刊行)入手可能だった「日軍の公的記録を個別に割引せず、そのまま積みあげてみた」結果として、「捕らわれて殺害された中国兵の推計」を3万人としています。笠原説との違いは「捕われて殺害された」ケースに限定するかどうかによるところが大きく、捕虜の殺害についてあれこれ正当化し割り引くことはしていません*1。また民間人の犠牲についての中国側の主張に対しても次

    「ありえない」論法と否定論存続の背景 - Apeman’s diary
  • これ入ってるよね絶対、図書館に。

    図書館情報学(Library and Information Science)という学問があるんだけどね、図書館・情報学派と図書館情報学派があるんだ。 図書館・情報学派にいわせると「・」に結構なこだわりがあるらしいんだけどね、図書館・情報学派の大学から図書館情報学派の大学に移った先生がいったんだ。 「・」はandの訳語だって説。 で思ったわけ。 だったら図書館×情報学でもいいじゃんて。 でもさ、図書館て誘い受けだよね。情報は年下攻めだよね。 だったら情報×図書館学じゃないの? ある大学は最初から情報×図書館学派だったけど、わかってるよね。 図書館×情報学派の雄も情報×図書館学派になったし、このカプは国家公認だよね。 とか考えて眠れなかったからメモして寝たんだけど、朝起きたらホワイトボードに「図書館誘い受け→総受け」って書いてあった。 姉は一昨日、28になった。

    これ入ってるよね絶対、図書館に。
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