タグ

関連タグで絞り込む (164)

タグの絞り込みを解除

*_R:倫理に関するo_keke_nigelのブックマーク (135)

  • 尊厳死を考えなおすためのまとめリンク - モジモジ君のブログ。みたいな。

    はてな内の記事を集めたモノ。思いついたら追記します。 基的な問題点整理 射水市民病院でのことから とりあえず言っておきたいこと@Demilogはてな 読みやすく網羅的、末尾のリンクもオススメ。 研究集会<死の法>―尊厳死法案の検証― 参加(2006年3月研究集会のレポート) 死体に麻酔は必要か?@「で、みちアキはどうするの?」(脳死臓器移植の問題点) What’s ALS for me ?(日記内検索「尊厳死」で拾い読み。) 自分の書いたエントリ 尊厳死言説を懐疑する(1)──リビング・ウィルにインフォームド・コンセントはない 尊厳死言説を懐疑する(2)──医療経済的観点の欠如 尊厳死言説を懐疑する(3)──尊厳死を選ぶ人は当に選べているのか 天国へのビザはいらない──尊厳ある生こそを求める ロックトインを「地獄」と呼ぶことについて Locked-inの二つのイメージ 匿名の「ウォッ

    尊厳死を考えなおすためのまとめリンク - モジモジ君のブログ。みたいな。
    o_keke_nigel
    o_keke_nigel 2009/02/12
    トンコさん(http://blogs.yahoo.co.jp/tonko_hard/)の問題意識に向けて(5)。
  • Locked-inの二つのイメージ - モジモジ君のブログ。みたいな。

    TLSについては、まだまだわからないことだらけで・・@What’s ALS for me ? ajisunさんのこのメッセージも「それは特殊なケース」と切り捨てる医療者は多いんじゃないかと思う。なので、僕の思うところを一つ、付け加えておきたい。問題は、医療と経済に関わること。 Locked-inしたその後のイメージについて、おおまかに二通りあると思われる。 第一。不潔で不快なベッドに放置され、誰が訪れるでもなく、誰が声をかけるでもなく、来たところで「あんなになって却って死なせた方がいいんじゃない?」などと哀れまれ、という状態を一言も発することもできずに耐え忍ぶだけの生。 第二。物を言えないがゆえに不自由ではあるけれど、清潔にしてくれて、寝返りを打たせてくれて、聞かなくても誰でも思いつきそうなことはちゃんとやってできるだけ快適に保ち、沢山の人が訪れて「生きている人」として扱ってくれて、呼びか

    Locked-inの二つのイメージ - モジモジ君のブログ。みたいな。
    o_keke_nigel
    o_keke_nigel 2009/02/12
    トンコさん(http://blogs.yahoo.co.jp/tonko_hard/)の問題意識に向けて(4)。「死にたい」は本当に死にたい、なのか。それはむしろ生への渇望とも言えるのでは、ということ。
  • 尊厳死言説を懐疑する(3)──尊厳死を選ぶ人は本当に選べているのか - モジモジ君のブログ。みたいな。

    前回は「経済的理由によって死に追い込まれる人がいる」という話をした。これは比較的分かりやすい。しかし、人工呼吸器や人工透析を導入するのを嫌がる理由は、「医療や介護に金がかかるから(=家族の負担になるから)」というだけではない。実際、そうした医療を使いながらの生活を、「私自身が嫌なのだ」と思うような、そういうところからの拒否感が、また別にある。こうした理由なら尊厳死オッケイと朗らかに言いきれるのか。とてもそうは言えない。そのことを述べる。 「あんな風になるくらいなら、いっそ死んだ方がマシだ」ということが、実際に病や障害を得ている人から言われる場合、それは聞いてやってもいいんじゃないか、と思ってしまう(滑り落ちてしまう)ような場面がある。 まず第一に確認しておくべきことは、どれほど困難な状況に生きていて、「もう死んだ方がマシだ」と心底から思うような人であったとしても、技術的に命を継続させること

    尊厳死言説を懐疑する(3)──尊厳死を選ぶ人は本当に選べているのか - モジモジ君のブログ。みたいな。
    o_keke_nigel
    o_keke_nigel 2009/02/12
    トンコさん(http://blogs.yahoo.co.jp/tonko_hard/)の問題意識に向けて(3)。「そんな状態になるくらいなら死んだ方がいい」のは本当にそうか、生き延びればまた違う考え方も出てくるのではないか、と。
  • 尊厳死言説を懐疑する(2)──医療経済的観点の欠如 - モジモジ君のブログ。みたいな。

    「死にたいと思う人が死を選ぶ、それのどこが悪いのか」。尊厳死に賛成する人たちの多くが口にすることは、だいたいこんなところだ。しかし、これほど簡単明瞭な話だとも思えないので、賛成の人たちにいつもいろんな質問をするのだが、そうやって聞いて回って感じたことは、賛成派はむしろ考えるべき論点を(知ってか知らずか)*1スキップしているということだ。先日のシンポジウムでも、「なるほど、それなら納得できるね」なんて話にはならなかった。この人たち(=尊厳死協会の人たち)の言うことは(やっぱり)危うく、とてもじゃないが乗れない。 「死にたいと思う人が死を選ぶ」、この物語に付随するのは次のような実感だ。──「あんな風になるくらいなら、いっそ死んだ方がマシだ」。こういうことが、割と簡単に口にされてしまうような世界に僕らは生きている。「あんな風」には、いろんな状況が代入されるだろう。たとえば、人工透析を導入するかど

    尊厳死言説を懐疑する(2)──医療経済的観点の欠如 - モジモジ君のブログ。みたいな。
    o_keke_nigel
    o_keke_nigel 2009/02/12
    トンコさん(http://blogs.yahoo.co.jp/tonko_hard/)の問題意識に向けて(2)。現状の医療支援体制は、「本人が生きるか死ぬか」ではなく「本人か家族か」の選択を強いるものである(「捏造された救命ボート」)、という指摘。
  • 尊厳死言説を懐疑する(1)──リビング・ウィルにインフォームド・コンセントはない - モジモジ君のブログ。みたいな。

    昨日(3月3日)、尊厳死と医療を考える集会「尊厳死ってなに?」@大宮に参加してきた。シンポジストのajisunさんからもレポートが出ている。>大宮@尊厳死ってなに? この問題については(も)論点が多岐にわたるので、一つずつ取り上げていきたい。今回は表題の点について。まずは、日尊厳死協会の会員がサインするリビング・ウィルの内容から。 リビング・ウイルとは、自然な死を求めるために自発的意思で明示した「生前発効 の遺言書」です。その主な内容は ○ 不治かつ末期になった場合、無意味な延命措置を拒否する ○ 苦痛を最大限に和らげる治療をしてほしい ○ 植物状態に陥った場合、生命維持措置をとりやめてください というものです。 http://www.songenshi-kyokai.com/dwd02.htm 「まぁ、妥当な内容じゃない?」と思うかもしれない。しかし、一度立ち止まって考えて欲しいのだが

    尊厳死言説を懐疑する(1)──リビング・ウィルにインフォームド・コンセントはない - モジモジ君のブログ。みたいな。
    o_keke_nigel
    o_keke_nigel 2009/02/12
    トンコさん(http://blogs.yahoo.co.jp/tonko_hard/)の問題意識に向けて(1)。まずは「植物状態/ロックトイン」とはどういう状態なのか知るところから。
  • 2009-01-31 - 弯曲していく日常 -われらが心の内なるイスラエル

    ある目的を果たすための道は、必ずしもひとつではないし、人にはそれぞれ、自分のやりかたがあるのです。 それが他者に致命的なほどの痛みをもたらすものでないかぎり、誰かの「抗議」のやりかたが自分の意にそまないものだからという理由で、「人として批判されてるのです」なんて言うのこそ、「イスラエル的」じゃないの? 「正義」とか「大義」って怖いよ。 イスラエル的なものは、世界のあの場所にだけあるんじゃなくて、僕たちの心のなかにいまも息づいているのです。 http://d.hatena.ne.jp/fujipon/20090127/p1 「イスラエル的なものは、世界のあの場所にだけあるんじゃなくて、僕たちの心のなかにいまも息づいているのです。」というのは、この間引用しているバタイユの「一般に、人間であるという事実のなかには、克服されるべき重苦しく胸をむかつかせる要素がある。」とおなじこと言っている。*1 

    2009-01-31 - 弯曲していく日常 -われらが心の内なるイスラエル
    o_keke_nigel
    o_keke_nigel 2009/02/06
    「自分の中の”悪”をも直視できるオレ」と「自分の中の”悪”を正面から直視すること」との距離について。
  • 日本ペンクラブ:電子文藝館

    E会員 あきとし じゅん あきとし じゅん 評論家 大学教授 1940年9月 京都生まれ。掲載作は『関西文学』(関西書院)昭和五十八年十一月号、初出。同年の第十八回関西文学賞(評論部門)受賞。 高橋和巳における狼疾 かなり以前から高橋和巳の文学の特質において、心のなかに蟠(わだかま)っていることがある。いったいかれは、だれの影響をもっとも受けていたのであろうか。いうまでもなく、これまでの高橋和巳論は、その多くが性急に埴谷雄高を結論的に導きだしているが、かれの憂なる作品を前にしたとき、はたしてそう結論づけていいものかどうか、はなはだ疑問である。 高橋和巳自身、比較的早く「近代文学」の読者として、第一次戦後派作家に親近感を覚えたといっていることからわかるように、かれの文学的出発にあたっては、たしかに埴谷雄高の存在は無視できなかったであろう。しかし、かれの文学の質は、かならずしも当初から埴谷

    o_keke_nigel
    o_keke_nigel 2009/02/05
    「『悲の器』なくしてかれを語ることはできない。ここには、かれの自負と矜持が、近代の憂愁に揺れる自己否定の世界と深くむすびついて、<知の哀しみ>が刻印されている。」
  • 政治的直接性からの逃走 - モジモジ君のブログ。みたいな。

    font-daさんの記事後半で紹介されている、ピンターについての書評記事より。 決して感情的にならず、あくまで劇の対話のように、ユーモアとアイロニーを手放さない。それがために、かえってBBCの愚挙が鮮明になってくるのだ。あくまで「表現」を通しているから、その研ぎ澄まされた言葉は読者のなかに通り一遍でない感情を巻きおこす。 劇作家らしく、ピンターの言葉は直接的でない。必ずユーモアとシニカルな目をたたえて、事態を見据えている。彼は政治的問題を「政治」で解決できないことを知っている。そこで前述した「知性」や「言葉」の問題が出てくるのだ。 一読して違和感を持つのは、ここではピンターの主張に対してではなく、ピンターが「劇作家らしく」「直接的でない」表現を使っていることに対して共感が寄せられている点です。もちろん、ピンターの主張にも賛成なのでしょうけれど、その手つきは、どこかピントがずれている。たとえ

    政治的直接性からの逃走 - モジモジ君のブログ。みたいな。
    o_keke_nigel
    o_keke_nigel 2009/01/30
    ある種の「洗練さ」が認識の「鋭さ」を装いつつ、自らの不快感を正当化するためのリソースとして消費されてしまうトリッキーさについて>例:「シニシズムの中でもふもふしている」一群のブクマカ。
  • 村上春樹を読まずに批判してるって? - モジモジ君のブログ。みたいな。

    なにやら「村上春樹の作品を読まずに批判している」みたいなことを書く人があちこちにいますね。一例をあげれば、「非読検閲官」などとおっしゃってるid:mnemoさんとか。というわけで、言うべきことをハッキリいっておきたいと思います。 わたしは、村上春樹の作品への評価を、一切行っていません。*1 エルサレム賞の受賞のしかたによっては、村上春樹その人がこういう批判/賞賛を受けることになるだろう、ということを述べているだけです。村上春樹その人がこういう批判/賞賛を受けることになるだろう、ということを述べているだけです。村上春樹の作品への評価とはまったく独立のことしか述べられていない、ということは、まったく明瞭なことだと思います。 村上春樹の作品と関連付ける形で、別様にも言っておきましょう。エルサレム賞の受賞の仕方によっては、村上春樹は「村上春樹の作品の立場から批判される」か、「村上春樹の作品とともに

    村上春樹を読まずに批判してるって? - モジモジ君のブログ。みたいな。
    o_keke_nigel
    o_keke_nigel 2009/01/30
    mojimojiさんに、ではなく-fujiponさんの「政治観」に向けて。
  • 私は鈍感さを肯定しない - キリンが逆立ちしたピアス(ブログ版)

    id:mojimojiさんが、私が先に引用した西堂行人のピンター評を批判している。 mojimoji「政治的直接性からの逃走」 http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20090130/p1 西堂さんは、ピンターの直接的でない政治的意見の表明を評価する。 ここでも「何も起こりはしなかった」が繰り返されている。ピンターの対応は絶妙である。決して感情的にならず、あくまで劇の対話のように、ユーモアとアイロニーを手放さない。それがために、かえってBBCの愚挙が鮮明になってくるのだ。あくまで「表現」を通しているから、その研ぎ澄まされた言葉は読者のなかに通り一遍でない感情を巻きおこす。 (http://booklog.kinokuniya.co.jp/nisidou/archives/2007/05/post_22.html) しかし、これは(良く読んでみればわかるが)西堂さんは

    私は鈍感さを肯定しない - キリンが逆立ちしたピアス(ブログ版)
    o_keke_nigel
    o_keke_nigel 2009/01/30
    なるほど、でも制度設計を変えていこうとするのであれば、最終的には「政治的な選択」の場に持ち込まれることによってしか果たされないとも思う。「政治とは未分化の何か」の両義性-変革/シニシズムへの起動力。
  • 派遣村に流れ着いた人が最初に考えるべきだった、たったひとつのこと。 - 「で、みちアキはどうするの?」

    「自分はなんのために生きているのか?」 いやまぁ、「そんな哲学で腹はふくらまねーよ」と仰りたい気持ちは重々承知ですが、ちゃんと説明しますよ。ふたたび、こちらのエントリからコピらせていただきますね。 すくらむ : 派遣村バッシングの背景にある根強い自己責任論 - 人の生存より市場原理優先の新自由主義は退場を 雨宮 しかし、「自己責任」論で、社会より自分に怒りが向くように刷り込まれてしまっているといえます。「社会のせいにするのは弱い人だ」とか、「問題をすりかえる人だ」というような言説がまかり通っている。 小森 メンヘラー(心を病み、壊れることによってやっと生きのびる人※雨宮さんによる定義)の若者や貧困にさいなまれている人たちが、「自分は生きていていい」と思えない社会になっている。 そして、どんなに理不尽な要求であっても、企業が要求してくることを、とにかくこなしていかないと、生きていくための最低

    派遣村に流れ着いた人が最初に考えるべきだった、たったひとつのこと。 - 「で、みちアキはどうするの?」
    o_keke_nigel
    o_keke_nigel 2009/01/09
    その意気やよし。が、事ここに至った様々な状況や事情を漂白して「奴隷の内面化」とはぞっとしない。彼の人々は単なる集合名詞ではなく、それぞれの生活史を持つ個々の人間であると、もそもそと申しておきたい。
  • はてなハイク サービス終了のお知らせ

    平素より「はてなハイク」をご利用いただき、ありがとうございます。 「お題でつながるミニブログ」としてご利用いただいていた「はてなハイク」は、2019年3月27日をもちまして、サービスの提供を終了させていただきました。 これまでご利用いただきましたユーザーの皆さまに深く感謝いたします。 誠にありがとうございました。 詳しくは下記をご覧ください。 http://labo.hatenastaff.com/entry/2018/11/19/113653 株式会社はてな

    o_keke_nigel
    o_keke_nigel 2009/01/09
    の格好のサンプルがこのエントリのそこかしこに見られることにも要注目。c.f→http://www.mojimoji.org/blog/0112http://www.mojimoji.org/blog/forgaza25 <追記>改めて貴兄の言われていた「可能性」の意味が分かりました>id:mojimojiさん
  • 倫理の根拠とお水のセカイ(本編) - 赤の女王とお茶を

    こちらの編。 まだまとまりきっていない話ですし、分かりやすくかけるか怪しいところですが。 「水伝」など多くのニセ科学批判の文脈で基となる考え方の一つに、「科学は倫理を与えない」というものがあります。あるいは、「である」は「べき」を導かない。ヒュームの法則、または自然主義の誤謬、とも表現します。 科学はセカイが”How”「どのように」「ある」かを明らかにするものであって、どのようにある「べき」か、つまり倫理や規範を定めるものではない、ということです。もちろん、ゴーヤの佃煮を作るときは五倍酢をつかう「べき」だ、コーヒー豆は封を開けたら冷蔵庫にいれる「べき」ではない、というように、ある状態を達成するための手順について科学が「べき」を与えることはあります。 しかし、どう生きるか、のような根源的なレベルにおける、向かうべき「目的」を科学知識そのものが規定することはないよ、というのが科学的思考にお

    倫理の根拠とお水のセカイ(本編) - 赤の女王とお茶を
    o_keke_nigel
    o_keke_nigel 2008/11/19
    1)「~べき、と考えられるのは何故か」は事実認識の領域2)で、その1)に/「~べき」にどう向き合うのかという選択に係る領域が「倫理」→1)は2)直接の根拠にはならず、独立で各々存在するもの、ということか。
  • 勝ち組のお作法は無視することであり(アンチ)ヒューマニズムを標榜することではないという話

    では、僕ならどう答えるだろうか。黙って死んでくれ、と頼む以外のことは言えないだろう。彼がそれは飲めない、と考え、僕のもとへ奪いにやってくるとしても、それを不正だと言える根拠は、僕の生きているこの世界にはない。僕らは、否応なしに、奪い奪われる関係の中に生きさせられている。奪いに来る者に対しては、それが正しいとか正しくないとかを言うことなく、ただ、全力で迎え撃つ。それだけだ。彼が、奪いに来るのではなく、ただ黙って「死に行く」のであれば、僕はそれを感謝し、ただ、弔う。 「勝ち組」の席にいて、赤木さんの言葉を受け止めるとき、述べられることはこの程度のことだ。僕は僕が引き受けると決めた範囲のことでだけ、戦う。それをどう評価し、どう迎えるのかは、赤木さんが委ねるしかない。ただ、その上で、僕は赤木さんに対して呼びかけよう。あなた自身がどれほどみじめに感じる生であっても、可能な限り生き延びて欲しい。 こう

    o_keke_nigel
    o_keke_nigel 2008/10/05
    それなりの水準の大学に進んだ日本の学生は、80年代まではこの部分を何らかの形で通ってきた。故に「幸せなアイヒマン」だらけだったとしても、ごく局地的には「風穴」も空いている…というのは楽観的に過ぎるか。
  • はてなブログ | 無料ブログを作成しよう

    27年ぶりのYUKIライブ 2024/8/11。僕は埼玉の戸田市文化会館で行われた”YUKI concert tour “SUPER SLITS” 2024”に参加した。前にYUKIの歌声を聴いたのは1997/05/27の代々木第一体育館。実に27年の歳月が経ってしまった。 なぜそんなに間が空いたのか。なぜ、それでも参加しようと思ったのか…

    はてなブログ | 無料ブログを作成しよう
    o_keke_nigel
    o_keke_nigel 2008/09/24
    1)事実認定の領域で筆者の視点は重要と思う。ならば2)行動原理の領域では「他ならぬ私にとっては」どう向き合うか?-1)は2)の十全な根拠にはならず、2)の領域は1)とは関わりなく存在する……かどうかの見極め。
  • はてなグループの終了日を2020年1月31日(金)に決定しました - はてなの告知

    はてなグループの終了日を2020年1月31日(金)に決定しました 以下のエントリの通り、今年末を目処にはてなグループを終了予定である旨をお知らせしておりました。 2019年末を目処に、はてなグループの提供を終了する予定です - はてなグループ日記 このたび、正式に終了日を決定いたしましたので、以下の通りご確認ください。 終了日: 2020年1月31日(金) エクスポート希望申請期限:2020年1月31日(金) 終了日以降は、はてなグループの閲覧および投稿は行えません。日記のエクスポートが必要な方は以下の記事にしたがって手続きをしてください。 はてなグループに投稿された日記データのエクスポートについて - はてなグループ日記 ご利用のみなさまにはご迷惑をおかけいたしますが、どうぞよろしくお願いいたします。 2020-06-25 追記 はてなグループ日記のエクスポートデータは2020年2月28

    はてなグループの終了日を2020年1月31日(金)に決定しました - はてなの告知
  • はてなハイク サービス終了のお知らせ

    平素より「はてなハイク」をご利用いただき、ありがとうございます。 「お題でつながるミニブログ」としてご利用いただいていた「はてなハイク」は、2019年3月27日をもちまして、サービスの提供を終了させていただきました。 これまでご利用いただきましたユーザーの皆さまに深く感謝いたします。 誠にありがとうございました。 詳しくは下記をご覧ください。 http://labo.hatenastaff.com/entry/2018/11/19/113653 株式会社はてな

    o_keke_nigel
    o_keke_nigel 2008/09/18
    「人権」ってもしかして「何らかの義務を果たした」ことによって与えられる特典、のようなものと考えられているんだろうか…?/ある種「フィクショナル」な産物だが、だから「虚妄」ということにはならない。
  • YouTube - 小学校の異常な性教育授業風景

    ニュース映像より NTV20040116

    YouTube - 小学校の異常な性教育授業風景
    o_keke_nigel
    o_keke_nigel 2008/05/23
    これは「ひどくない」。イシハラ軍団のトリミングも酷いが、YouTubeにupした投稿者のトリミングもトリッキーだ。ただこの件が「問題」とされたのはどういうプロセスを経てなのかが気になる。
  • 寛容は不寛容を寛容しない - 過ぎ去ろうとしない過去

    http://macska.org/article/225 講演中、かれは「原理主義的無神論者」を批判するクリス・ヘッジズ『I Don’t Believe in Atheists』に言及しながら、「無神論の原理主義なんて誰も怖がりはしないだろう、『もっと理性的に話をしよう』と言うだけなんだから」と嘲笑した。しかし現実に「新しい無神論」の代表的論客の何人かが、機会があるごとに米国のイラク侵攻を熱烈に支持する発言を続けている(ばかりか、イランが核兵器を持つ前に核で先制攻撃をしろとまで言っている人もいる)ことや、西欧におけるイスラム系移民排斥の口実がもはや「キリスト教文明を守るためにイスラム教徒を追い出せ」ではなく「女性や同性愛者の権利、言論の自由など近代リベラリズムの原則を理解しようとしないやつらを追い出せ、入れるな」となっているーーそれは要するに、近代リベラリズムの原則がイスラム系移民ら「市

    寛容は不寛容を寛容しない - 過ぎ去ろうとしない過去
    o_keke_nigel
    o_keke_nigel 2008/05/21
    「寛容」…H-M.エンツェンスベルガーが語る「シシュポスの石」(http://journal.mycom.co.jp/column/bytes/069/index.html)のようなものか。その「偽善性」のみを指摘するシニシズムではなく「石」に含意されている意味の重さを感じる。
  • Amazon.co.jp: 株式会社に社会的責任はあるか: 奥村宏: 本

    Amazon.co.jp: 株式会社に社会的責任はあるか: 奥村宏: 本