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ブックマーク / aizilo.hatenablog.com (15)

  • 「意図を明確化するとはどういうことか:作者の意図の現象学」あとがき - #EBF6F7

    応用哲学会誌(Contemporary and Applied Philosophy)に論文「意図を明確化するとはどういうことか:作者の意図の現象学」が掲載されました。 芸術制作を行為論の枠組みに位置づけ、現象学的アプローチから、芸術制作にともなうコントロールと自己知(意図知)のあり方を探究する内容です。 この記事では、あとがきとして、論文の舞台裏などの与太話を書いていきます。 内容はこんな感じです。 元となった発表との違い エピグラフについて 三つの問題系とのつながり 行為論 現代現象学 メタ哲学 以下、書きやすいように〈だ・である〉体で書きます。 元となった発表との違い 今回の論文は、昨年開催のワークショップ「作者の意図、再訪」の発表「創造的行為における意図とその明確化」に基づいている。 以上が発表資料だが、発表と論文はいろいろな点で異なっている。 一番大きな変化はパッケージングだろう

    「意図を明確化するとはどういうことか:作者の意図の現象学」あとがき - #EBF6F7
    o_secchan
    o_secchan 2023/06/29
  • 音楽は何をもって模倣芸術と見なされたか:古代と十八世紀 - #EBF6F7

    美術作家である菊池遼さんが以下のようなツイートをしていた。 近代美学、絵画や彫刻や舞踏や詩が模倣を質とするというのはまあとりあえずは分かるのだが、音楽における模倣ってどういうことなんだろう。なんかピンとこないな。 — KIKUCHI Ryo 菊池 遼 (@harukaka_) 2023年3月2日 僕も芸術の模倣説、つまり、諸芸術を束ねるものとして模倣をもちだす理論にはじめて触れたとき、同じような疑問を抱いた。 芸術の模倣説は音楽をどう説明するのか。 幸いにも、どこかで関連する記述に出会ったことがあり、菊池さんに以下のリプライを送った。 古代ギリシアでは感情を模倣すると考えられていたそうです。プラトンは音楽が何らかの感情の只中にある人間の声音を模倣していると考えたとどこかで読んだ記憶があります。近代でもこの方向性で音楽が捉えられていたのかはよくわかりませんが、参考になれば幸いです — Ma

    音楽は何をもって模倣芸術と見なされたか:古代と十八世紀 - #EBF6F7
  • 「些細な自己知と実質的な自己知:自己知の哲学入門①」(カシーム・カサーム) - #EBF6F7

    自己知(self-knowledge)の哲学という分野がある。 自己知とは、典型的には、自分の心的状態(信念や欲求など)についての知識のことだ。 今回は、自己知の哲学に従事しているカシーム・カサーム(Quassim Casssam)が執筆した「自己知へのビギナーズガイド」を訳出した。 カサームには『人間のための自己知』という著作があり、ビギナーズガイドの背景をなしている。 Self-Knowledge for Humans 作者:Cassam, Quassim Oxford University Press, USA Amazon 書の序文は、「自己知について書くことの不都合な点の一つは、哲学に馴染みのない者に自分のことを説明しなければならないことである」という一文で始まる。 どういうことだろうか。 カサームは以下のように言う。 実際、それはまさしく、哲学者が関心をもつだろうと非哲学者

    「些細な自己知と実質的な自己知:自己知の哲学入門①」(カシーム・カサーム) - #EBF6F7
  • 幸福の手段にすぎない:美的価値の規範的源泉について - #EBF6F7

    ワークショップ「作者の意図、再訪」が無事閉幕しました。 上記リンク先の記事の一番下に、僕の発表「創造的行為における意図とその明確化」の発表資料を置いているので、気になる方は確認してみてください。 ようやく多少余裕ができたので、先日応用哲学会で行われた銭清弘さんの発表「美的に良いものはなにゆえ良いのか:モンロー・ビアズリー再読」に触発されて考えたことを書いてみます。 美的価値の規範的源泉の問い:三つの立場 私の目的は、美的価値の規範的源泉の問いと幸福論の接点を明らかにすることで、この問いの意義を明らかにすることである。 まず、美的価値の規範的源泉をめぐる議論について、私なりの素描を与えてみよう。 エーデルワイスは可憐だ。このとき、私はエーデルワイスを眺める理由をもつ。 可憐さは美的価値であり、美的価値は眺める、飾る、愛でる等々の理由を与える。 では、なぜ美的価値は理由を与えるか、これが美的価

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    o_secchan
    o_secchan 2022/06/08
  • 芸術作品を作りそこねるとはどういうことか:一つの理解 - #EBF6F7

    芸術作品を作りそこねることについて二人の美学者が議論している。 二つの記事で第一に問題となっているのは、「failed-art」なるクラスが実際に存在することを認めるかどうかである。 「failed-art」とはクリスティ・マグワイアが提唱した概念で、銭清弘さんの表現では、「芸術なりそこない」とでも呼べるようなものを指す。 銭さんはこのクラスの実在に懐疑的だが、難波優輝さんは鴻浩介さんの議論を参考に、このクラスの実在を認めている。 私は下記ツイートが示唆するように、「failed-art」が実際に存在してもおかしくないと考えているが、難波さんとは大きく異なる理路に基づいている。 (フィクションで表現されるような)文筆家の部屋にいくつも転がっている紙くずがそうではないかと読んでいて思ったけど、どうだろう。 「芸術」はともかく、作品を作ろうとして失敗する経験はたくさんあって、そうした場合の産物

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    o_secchan 2021/12/28
  • ティ・グエン「芸術はゲームだ」 - #EBF6F7

    松永伸司『ビデオゲームの美学』の帯には「ビデオゲームは芸術だ!」というキャッチフレーズが用いられている(松永さんではなく編集者の言葉らしい)。 今回訳出して紹介するのは、これとは対照的に、「芸術はゲームだ」と題されたティ・グエンの記事である(なお、ビデオゲームではなく広義のゲームが扱われている)。 グエンの問いは簡単かつ素朴だ。 芸術鑑賞において、なぜ私たちは正しさ(正しい理解や判断)に関心をもつのか。 なぜ正しさを気にせず、自由に、好きなように楽しまないのか。 この問いに対して、グエンはゲームにおけるモチベーション構造を分析し、それを芸術鑑賞に応用することで応答を試みている。 議論を通して浮かび上がるのは、芸術鑑賞とゲームプレイとの共通点、また芸術鑑賞と正しさに関心をもつ他の多くの領域(科学や倫理など)との相違点である。 議論の過程でなされる、「バカゲーム」と呼ばれる種のゲームやロックク

    ティ・グエン「芸術はゲームだ」 - #EBF6F7
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    o_secchan 2021/11/07
  • 分析哲学批判の一つのパターンについて - #EBF6F7

    分析哲学批判の一つのパターン 分析哲学批判には一つのパターンがある。 いくつか例を挙げてこれを示そう。 山口尚による分析哲学批判は、一言で言えば分析哲学のスポーツ性を問題にしている。 この「スポーツ性」なる性質は「「手を変え、品を変え」という迂遠なやり方で何とかアプローチしてみたい」という彼の言葉どおり、記事では定式化されていない。 気になる方はぜひ直接読んでいただきたいが、この記事でもいずれスポーツ性の内実に関する記述に触れることになる――思わぬかたちで。 「スポーツ」という表現の参照元はジョン・マーティン・フィッシャーの言葉である。 私はかつてハリー・フランクファートが述べた次の不満がよく分かる。それは、彼の事例をめぐる文献はいまや「若者のスポーツ」だ、という不満である。 分析哲学のスポーツ性に対する不満はフランクファート、フィッシャー、山口に共通のもののようだ。 さらに、山口の記事に

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  • 『現代写真――行為・イメージ・態度――』に写真のニュー・セオリーの解説記事を寄稿しました - #EBF6F7

    今年二月発売の写真の教科書『現代写真――行為・イメージ・態度――』(勝又公仁彦編)に寄稿しました。 写真2 現代写真: 行為・イメージ・態度 (はじめて学ぶ芸術の教科書) 発売日: 2021/02/15 メディア: オンデマンド (ペーパーバック) このは二巻のうちの下巻に当たるもので、上巻はこちら。 写真1 写真概論 (はじめて学ぶ芸術の教科書) 発売日: 2021/02/15 メディア: オンデマンド (ペーパーバック) 僕は「写真のニュー・セオリー――写真の性に関する急進的理解」というタイトルの記事を寄稿しています。 写真のニュー・セオリーに関してはこのブログでもエイベルの論考を紹介するかたちでロペスのバージョンを二回に分けて紹介したことがあります。 じつは、寄稿記事はブログ記事を大幅に改稿したものとなっています。 ブログ記事との大きな違いは二点。 わかりにくい部分をより丁寧に

    『現代写真――行為・イメージ・態度――』に写真のニュー・セオリーの解説記事を寄稿しました - #EBF6F7
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    o_secchan 2021/04/29
  • ティ・グエン「エコーチェンバーと認識論的バブル」 - #EBF6F7

    Nguyen, C. T. (2020).   Echo Chambers and Epistemic Bubbles Episteme, 17(2), 141-161. 近年、ポストトゥルースの時代が到来したとか、社会の分断が進んでいるとか、SNSが分断を促進しているといったことがよく言われる。 そこで見かけるのが「エコーチェンバー(原義:反響室)」や「フィルターバブル」のような言葉だ。 今回取り上げるティ・グエンの論文「エコーチェンバーと認識論的バブル」はこうした現象/概念を哲学的に考察するものである。 これは社会認識論という分野に位置づけられる研究であり、私の専門ではないのだが、ポストトゥルースや陰謀論に対する見通しをとても良くしてくれるので、議論の一部を紹介したい。 (なお、グエンは美学と社会認識論の両方の分野で活躍する哲学者である。) はじめに 近年、二つの異なるが相互に関連しあ

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    o_secchan 2021/02/25
  • 「視覚的修辞:エル・グレコからアボガド6まで」あとがき - #EBF6F7

    『フィルカル』最新号、描写の哲学特集に寄稿した表題の論文のあとがきです。 描写の哲学における分離をめぐる議論を手がかりに、「視覚的修辞」と名づけた技法の存在、構造、意義を浮かび上がらせる内容となっています。 以前「描写の哲学研究会」で行った発表が元になっていて、その発表のスライド資料はこのブログでも掲載しました。 また、はじめの数ページはAmazonのプレビューで立ち読みできます。 内容が気になる方はぜひ覗いてみてください。 フィルカル Vol. 5, No. 2―分析哲学と文化をつなぐ― 作者:山田圭一,池田喬,佐藤暁,松永伸司,銭清弘,難波優輝,村山正碩,朱喜哲,加藤隆文,大厩諒,岸智典,入江哲朗,仲宗根勝仁,濵鴻志,中川裕志,稲岡大志,玉田龍太郎,和泉悠,矢田部俊介,ロデリック・ファース,岡慎平,青田麻未,中山弘太郎,杉英太,八重樫徹,飯塚舜 発売日: 2020/08/31

    「視覚的修辞:エル・グレコからアボガド6まで」あとがき - #EBF6F7
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    o_secchan 2020/09/25
  • 情動表出に関するコリングウッド『芸術の原理』の有名な一節 - #EBF6F7

    Collingwood, R. G. 1938. The Principles of Art. Oxford University Press. 哲学若手の発表で使う予定が、時間に余裕がなく、結局使わなかった一節。 せっかくなので訳出したものをここに載せておきます。 コリングウッドの情動表出の理論の要点が詰まった一節で、情動表出に関する文献でもそのまま引用されているのをわりと見かけます。 ある人が情動を表出していると言われるとき、彼について言われているのは以下のようなことだ。まず、彼は一つの情動をもっていることを意識しているが、その情動が何であるかは意識していない。彼が意識するすべては動揺や興奮であり、そうしたものが彼の中で進行していることを彼は感じるものの、その性について無知である。この状態では、彼が己の情動について言えるのは、「私は感じている……私は自分が何を感じているかわからない」

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  • 「画像における情動表出」解題+あとがき - #EBF6F7

    今年の一月に修士論文を提出したので、それについて書きます。 (どこで読めるかは下の方に書いてあります。) 主題はタイトルにあるとおり、「画像における情動表出」です。 画像は目に見える事物、富士山やアスパラガスなどを描写(depict)できるほか、目には見えない心的状態、とりわけ喜怒哀楽に代表される情動(emotion)を表出(express)できる(よりなじみ深い言葉遣いでは、感情を表現できる)と言われます。 たとえば、エドヴァルド・ムンクの『叫び』が不安を表出しているとか、しかめっ面の絵文字が怒りや不満を表出しているとか、灰色の風景画が悲しみを表出しているとか、キャラクターの頭上の光る豆電球がひらめきを表出しているとか。 拙論では、情動表出の観点から画像作品の異同を記述するための理論的枠組みの構築の作業を行いました。 以上に挙げた四つの例だけでも、なんだか共通点もあれば、相違点もあるとい

    「画像における情動表出」解題+あとがき - #EBF6F7
  • 写真のニュー・セオリー:批判的吟味と応答(その2) - #EBF6F7

    C. Abell, P. Atencia-Linares, D. Lopes, D. Costello. 2018. “The New Theory of Photography: Critical Examination and Responses.” Aisthesis 11(2): 207-234. 前回:写真のニュー・セオリー:批判的吟味と応答(その1) - #EBF6F7 『ベティ』のような叙情写真は純粋な写真か。 この問いに応じるには〈写真とは何か〉という根的な問いに立ち返る必要がある。 そこでロペスは写真のニュー・セオリーを導入する。 ニュー・セオリーは写真のプロセスに注目し、写真に特有なのは写真的出来事であると考える。 写真的出来事(photographic event):光の像(light image)によって伝達された情報が記録、保存される出来事。 この写真的出来事を

    写真のニュー・セオリー:批判的吟味と応答(その2) - #EBF6F7
  • 写真のニュー・セオリー:批判的吟味と応答(その1) - #EBF6F7

    C. Abell, P. Atencia-Linares, D. Lopes, D. Costello. 2018. “The New Theory of Photography: Critical Examination and Responses.” Aisthesis 11(2): 207-234. 近年、写真の哲学では大変動が起きているらしい。 写真の性に関する従来の見解を覆す「ニュー・セオリー(New Theory)」が一部の論者から提案され、注目を集めているのだ。 この大変動を象徴するのはニュー・セオリーを導入する二冊の、ドミニク・ロペス『Four Arts of Photography』とディルムッド・コステロ『On Photography』である。 Four Arts of Photography: An Essay in Philosophy (New Directi

    写真のニュー・セオリー:批判的吟味と応答(その1) - #EBF6F7
  • キャサリン・アベル「写真の認識的価値」 - #EBF6F7

    Abell, C. 2010. “The Epistemic Value of Photographs.” In Philosophical Perspectives on Depiction, eds. C. Abell and K. Bantinaki, 81-103. Oxford University Press. 写真は非写真的画像(絵画や素描など)と比べて特別な認識的価値をもつように思われる*1。では、その認識的価値は具体的にどんなものか、また、写真のどんな特徴に由来するのか。 これを考察する論文として、今回はキャサリン・アベルの「写真の認識的価値」を紹介したい*2。 写真の性は描写の哲学においてホットなトピックの一つであり、この論文はその入門的テキストとして読める。 Philosophical Perspectives on Depiction (Mind Associat

    キャサリン・アベル「写真の認識的価値」 - #EBF6F7
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