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2012年5月1日のブックマーク (17件)

  • 深井一族

    参考系図: 大河内秀綱━━久綱 ‖ ‖━━(松平)信綱 小宮山弾正某女   ‖ (白井長尾氏)              ‖━━┳━龍泉院 景春━┳━景秀            ‖  ┣━女子 ┃     (深井)        ‖  ┣━女子 ┗━景行━━景孝━━景吉━┳━好秀  ┣━重勝━━━重成──(藤堂家家臣) ┃     ┣━吉親━┳━吉広──(藤堂家家老) ┃     ┣━女子┓┣━吉成──(松平家家老) ┣━資元  ┗━尊海┃┣━吉正──(藤堂家家臣) ┣━資勝      ┃┣━吉政──(藤堂家家臣) ┣━淳海      ┃┗━長寛──(僧侶) ┗━正家──(宗家) ┃ ┗━━資成 深井氏は姓を長尾といい、越後の長尾氏と同族である。 六郎次郎景孝が武蔵国深井で生まれたことから"深井"を称した。現在、埼玉県北市内に"深井"の地名が残る。 (総社長尾氏の分派にも同名の"景孝"

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    pirachan 2012/05/01
    松平信綱の母は龍泉院という。谷崎が『武州公秘話』を発表する直前に住んでいたところと同じ名前だ。さらにこの時期、幼少時の川田順の面倒を見ていた人と同じ名前の女中が岡本から一緒に来ていた。
  • 大河内松平氏の研究

    大河内松平氏の研究 もくじ 大河内氏のルーツ 大河内氏の概観 大河内氏の先祖達・銘々伝 深井一族(信綱の母方の先祖) 松平正綱 略年譜 松平信綱 年譜 慶長元年~慶長九年 誕生~叔父・正綱の養子となる 慶長九年~元和六年 家光に出仕~婚姻~改名 元和七年~寛永五年 小姓組番頭~伊豆守叙任~大名に列す 寛永六年~寛永九年 実母死去~秀忠大御所時代~宿老並 寛永十年~寛永十三年 六人衆~老中~忍城主時代 寛永十四年 島原の乱勃発~有馬に赴く 寛永十五年 島原の乱~有馬着陣 寛永十五年 島原の乱~江戸に帰還 寛永十六年~寛永十八年 川越入封~日光造営 寛永十九年~寛永二十一年 京都出張~侍従昇任 正保元年~正保五年 安松金右衛門が仕える~実父死去~加増 慶安元年~慶安三年 川越藩領総検地~養父正綱死去~湯治 慶安四年~慶安五年 家光死去~慶安の変 承応年間 玉川上水~野火止用水 明暦年間 明暦の

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    pirachan 2012/05/01
    谷崎潤一郎著『夢の浮橋』資料としてブックマーク。昼間にブックマークしたサイトの目次。信綱という名前を持つ人物、川田順およびその父とのつながり、春琴の姉が上杉謙信に思えた理由がわかった。
  • AdobeCSの複数バージョン共存で注意すべき事 - ちくちく日記

    先日受けたセミナーで、Adobeの人から聞いた話。 AdobeCSの複数バージョンを同一マシンにインストールする事に問題はあるか?という質問に対して 「Suite製品に関しては、複数バージョンを同一マシンにインストールしてもかまわない。それぞれのバージョンで設定ファイルなどは上書きされず、独立することを前提として開発しているので、複数バージョンが入っていても問題ない」 と回答していた。 ただし「Acrobatについては、基的に単独(バージョン)動作を前提に開発されているので、複数バージョンが入っていると問題があるかもしれない」とのこと。 複数バージョンの共存については、Adobeのサポートページなどでは「推奨しない」となっている Adobe TechNote:227221 InDesign CS2 をインストールすると InDesign 2.0 または CS でいくつかの小塚フォントが認

    AdobeCSの複数バージョン共存で注意すべき事 - ちくちく日記
  • 大河内氏の先祖たち

    ■源頼政(長治元[1104]-治承4[1180].5.26) 鵺退治で知られる。鵺を射た鏃を洗ったという伝承のある池が京都所司代の役宅敷地内にあった。 大河内氏は源三位頼政の子孫を称している。 この手の系図のご多分に漏れず、人物の実在がはっきりしてくる16世紀頃に至るまでの正確なところは不明である。 ■大河内信政(?-永正17[1520].8.22) このあたりから活動を確認できる文書が出現。 寺津城を築く。 寺津八幡宮の棟札には"信綱"とある。子孫の"信綱"との混同を避けるために系図上は"信政"と表記するようになったらしい。 ■大河内信貞(?-永禄元[1558].9.8) ■寿参尼(?-文禄4[1595].8.14) 武田信玄に仕え、のち保科家に仕える。 さらに大河内信貞のもとに嫁いだ。 平林寺史には大河内秀綱の祖母とあるが、『大河内家譜』によると彼女は秀綱の母・小見頓斎女である。 大河

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    pirachan 2012/05/01
    谷崎作品の周辺情報としてブックマーク。
  • 防空法制下の庶民生活7

    永井荷風の怒り 1945年5月5日(土曜)曇り。作家・永井荷風はこの日午前、麻布区役所に向かう。「途すがら市兵衛町舊宅の焼跡を過るに一隊の兵卒處々に大なる穴を掘りつゝあり。士官らしく見ゆる男を捉へて問ふに、市民所有地の焼跡は軍隊にて随意に使用することになれり。委細は麻布区役所防衛課に就いて問はるべしと答ふ。軍部の横暴なるや今更憤慨するも愚の至りなれば、そのまゝ捨置くより外に道なし。吾等は唯この報復として国家に対して冷淡無関心なる態度を取らんことのみ」(永井荷風『罹災日録』扶桑社〔1947年〕53頁)。 1937年制定の防空法(法律第47号)は、行政が土地・家屋を使用できるのは、防空上「緊急ノ必要」がある場合であって、かつ「一時使用」であると定めていた(九条)。だが、一九四三年改正防空法(法律第104号)は五条ノ八を追加し、防空上必要な場合、市民の土地や工作物等を収用・使用できるとしたのであ

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    pirachan 2012/05/01
    谷崎作品周辺の資料としてブックマーク。永井荷風『罹災日録』の引用から始まる。質問をしている大河内輝耕議員は、川田順の葵の女性の夫。
  • 大河内正敏 - Wikipedia

    大河内 正敏(おおこうち まさとし、1878年(明治11年)12月6日 - 1952年(昭和27年)8月29日)は、日の物理学者、実業家。 東京府出身。子爵。理化学研究所(理研)の3代目所長、貴族院議員。身長は180cmと長身だった。は大河内信古の娘で、婿養子となった。息子は大河内信定、大河内信敬。孫の一人に女優の河内桃子がいる。無名時代の田中角栄を引き立てたことでも知られる。 来歴・人物[編集] 旧上総大多喜藩主で、子爵大河内正質の長男として東京浜松町に生まれた。のち旧三河吉田藩の子爵大河内家(江戸時代前期に活躍し、「知恵伊豆」と呼ばれた老中松平伊豆守信綱の子孫の家系で、大多喜藩主家の遠縁)の養子となり、最後の藩主・大河内信古の娘をに迎える。 学習院初等科時代は、後の大正天皇の御学友であった。同中等科、第一高等中学校を経て、東京帝国大学工科大学造兵学科に入学。在学時代は特待生であり

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    pirachan 2012/05/01
  • 大河内正質 - Wikipedia

    この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "大河内正質" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL (2018年6月) 大河内正質 松平 正質(まつだいら まさただ)または大河内 正質(おおこうち まさただ、弘化元年4月11日(1844年5月27日) - 明治34年(1901年)6月2日(グレゴリオ暦))は、幕末の上総国大多喜藩の第9代(最後)の藩主。奏者番・若年寄・老中格。大河内松平宗家11代。 越前国鯖江藩主間部詮勝の五男。正室は松平正和の娘・鋲子。子は大河内正敏(長男)、大河内正倫(次男)、娘(小西某室)。官位は豊前守。 文久2年(1862年)11月18日、先代藩主松平

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    pirachan 2012/05/01
  • 大河内輝声 - Wikipedia

    大河内輝声 大河内 輝声(おおこうち てるな、嘉永元年10月15日(1848年11月10日) - 明治15年(1882年)8月15日(グレゴリオ暦))は、幕末の大名。上野国高崎藩の最後の藩主。高崎藩大河内松平家11代。はじめ松平姓を称した。 第9代藩主松平輝聴の長男。母は堀田正睦の娘。幼名は恭三郎。諱ははじめ輝照、輝聲(てるあき)と称する。正室は酒井忠発の娘。継室は杉原氏。子は大河内輝耕(長男、は徳川慶喜の八女・国子)、戸田氏秀(四男)、恭子(浅野長之継室)、娘(内藤頼輔正室)。庶子に横浜事件の検挙者の一人大河内光孝がいる。 安政6年(1859年)12月15日、将軍徳川家茂に拝謁する。万延元年(1860年)8月24日、家督を継いだ。文久2年(1862年)12月11日、従五位下・右京亮に叙任された。元治元年(1864年)、天狗党の鎮圧を命じられ、11月16日に下仁田で高崎藩兵と天狗党が戦う

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    pirachan 2012/05/01
  • 大河内氏 - Wikipedia

    大河内氏(おおこうちし)は、武家・華族だった日の氏族。摂津源氏源頼政の孫顕綱の後裔と称し、正綱の代に長沢松平家の養子となったことで松平姓を与えられた。大名・旗として複数家あり、「知恵伊豆」と称された老中松平信綱が著名。明治時代に入り、大河内姓に復し、大名だった大河内家3家が華族の子爵家に列せられた[1]。 源顕綱(1179年 - 1230年)は、治承4年(1180年)の以仁王の乱で祖父頼政と父兼綱が討たれると、母と共に三河国額田郡大河内郷(愛知県岡崎市大平町(額田郡西大平村及大平村)字大河内[2]、現在の東名高速道路の岡崎インターチェンジの辺り[3])に落ち、大河内氏を称した。しかし、大河内氏の初期段階の一族の動向・家系図には不明な点が多く、顕綱も信頼性のある資料に見えていないことから仮冒であるとする説もある。 承久3年(1221年)の承久の乱の戦功により、足利義氏が守護職に補任されて

    大河内氏 - Wikipedia
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    pirachan 2012/05/01
    谷崎作品の資料として、吉良氏と併せて川田順絡みでこちらもチェック。これはこれは……。
  • 吉良氏 - Wikipedia

    吉良氏(きらし)は、武家・士族だった日の氏族。足利義氏の長子長氏を祖とし、所領の三河国幡豆郡吉良荘から吉良を名乗った。室町時代には足利一族中でも名門の地位を占めて幕府要職を歴任[2]。三河吉良氏と奥州(武蔵)吉良氏に分かれ、三河吉良は西条・東条両家に分かれた。東条の三河吉良と奥州吉良(蒔田氏)は徳川氏に仕えて江戸時代に高家となった[2]。前者は忠臣蔵の吉良義央(吉良上野介)で著名。事件後三河吉良家は改易になったが、その分家と奥州吉良が明治維新まで残り、維新後士族となった[3]。 概要[編集] 鎌倉時代の清和源氏足利氏の当主足利義氏の庶長子長氏が地頭職を務める三河国吉良荘を名字としたのに始まる[2]。長氏の弟義継からは奥州吉良氏(のちに武蔵吉良氏)が出る。また三河吉良氏は南北朝時代に西条吉良氏と東条吉良氏に分裂した。 長氏の孫にあたる吉良貞義は足利尊氏による鎌倉幕府六波羅探題の討伐を助け

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    pirachan 2012/05/01
    谷崎潤一郎著『蓼喰う虫』『細雪』等。三河吉良氏は、徳川家康に従うようになると家格の高さを認められ、高家として取り立てられた。この頃から、蒔田氏として正式に改称。赤穂事件を契機に「吉良」に復姓。
  • 徳富蘇峰 - Wikipedia

    徳富一敬(父) 徳富久子(母) 阿部賢一(三女の夫) 徳富敬太郎(孫) 浜田義文(孫の夫) 竹崎順子(伯母) 横井津世子(叔母) 横井小楠(義叔父) 矢嶋楫子(叔母) 湯浅初子(姉) 徳冨蘆花(弟) 湯浅治郎(義兄) 藤島正健(従兄) 横井時雄(従兄) 海老名みや(従姉) 海老名弾正(義従兄) 久布白落実(姪) 湯浅八郎(甥) 徳富 蘇峰(とくとみ そほう、1863年3月14日(文久3年1月25日) - 1957年(昭和32年)11月2日)は、明治から昭和戦後期にかけての日のジャーナリスト、思想家、歴史家、評論家。『國民新聞』を主宰し、大著『近世日国民史』を著したことで知られている。 蘇峰は号で、名は猪一郎(いいちろう)。字は正敬(しょうけい)。筆名は菅原 正敬(すがわら しょうけい)、大江 逸(おおえ いつ、逸郎とも)。雅号に山王草堂主人、頑蘇老人、蘇峰学人、銑研、桐庭、氷川子、青

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    pirachan 2012/05/01
    以前、谷崎作品の資料としてブックマークしたが、鷗外、賀古鶴所、佐佐木信綱の先にこの人がいるのではないかと。菅原や大江、山王堂、氷川子を名乗っているところにも注目。
  • 神戸市立博物館:特別展 南蛮美術の光と影

    平成24年(2012)4月21日(土)~ 6月3日(日) 39日間 ※開館時間: 午前10時から午後5時まで (入館は午後4時30分まで) 金/土曜日は午後7時まで開館 (入館は午後6時30分まで) ※休館日: 月曜日(ただし、4月30日は開館) ジャパン・アート・レボリューション! スペイン・ポルトガルによる世界進出が格化し、その波は16世紀の半ばの日にも到達します。これに触発されて、日美術の革命的な新潮流「南蛮美術」が誕生しました。 1549年より日で急速に普及していったキリスト教、特にその最大の修道会派・イエズス会の周辺では、多くの日人画家が礼拝用の聖画を描く一方で、西洋画の写実的な表現で、日の伝統的な屏風に描き込む作品も手がけました。日欧の交流は狩野派など伝統的な絵師たちにも大きなインパクトを与え、南蛮人(南洋からやってきた西洋人)の新奇なファッションや舶来品をモチーフ

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    pirachan 2012/05/01
  • 畳叩き - Wikipedia

    鳥取県境港市・水木しげるロードに設置されている「畳叩き」のブロンズ像。 広島県・鷹野橋のバタバタ像 畳叩き(たたみたたき)は、和歌山県、山口県、広島県、高知県に伝わる怪音現象[1][2]。 夜中に畳を叩くような音が聞こえる現象。 和歌山では宇治という町に出たので、宇治のこたまとも呼ばれた。紀州藩編纂の地誌『紀伊続風土記』(天保年間)によれば、冬の夜明け頃にバタバタという音が東から聞こえ始め、西へ去っていくのでバタバタとも呼んだという[3]。 『岩邑怪談録』では破多破多という字を当て、山口県岩国で文久年間の秋から冬にかけての時期に起こった現象で、午後10時頃から翌朝未明まで渋紙を打つような、もしくは大きなうちわを激しく仰ぐようなバタバタという怪音が町中で聞こえたという[1]。 広島でも同様の怪異があり、冬の夜に屋根の上や庭で、あたかも畳を杖で叩くようにバタバタと音がしたことから、バタバタ、も

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    pirachan 2012/05/01
    谷崎潤一郎著『猫と庄造と二人のをんな』資料としてブックマーク。
  • 豆狸 - Wikipedia

    水木しげるロードに設置されている「豆狸」のブロンズ像 豆狸(まめだぬき)は、日に伝わるタヌキの妖怪。西日に伝承されているほか、江戸時代の奇談集『絵百物語』にも記述がある。 日各地の伝承[編集] 『土佐化物絵』にある高知県の豆狸の妖怪譚 山陽地方の豆狸 山陽地方では豆狸をマメダと呼び、山村の旧家の納戸にいるもので、ときおり3,4歳ほどの子供くらいの大きさの老婆の姿に化け、納戸に無言で座っていることがあるという[1]。 兵庫県の豆狸 明治時代の作家・鷲尾三郎によれば、酒造が盛んな兵庫県灘地方では、酒蔵が建ち始めた頃から豆狸が住み慣れるようになり、酒造りの最中に蒸し米を拾いに来たり、酒桶の栓も抜けていないのに中の酒が吹き出るような音をさせて人を脅かしたり、真夜中に大きなたらい状のものを転がす音や雨垂れの音を立てたり、下駄の足音と玄関の戸が開く音を立てて客が来たように人を化かしたりしたと

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    pirachan 2012/05/01
    谷崎潤一郎著『猫と庄造と二人のをんな』。3,4歳ほどの子供くらいの大きさの老婆の姿に化け、納戸に無言で座っている。雨垂れの音を立てる。下駄の足音と玄関の戸が開く音を立てる。信楽焼。
  • http://homepage1.nifty.com/longivy/note/top.htm

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    pirachan 2012/05/01
    赤穂事件関係資料。谷崎潤一郎著『夢の浮橋』や、お須賀さん関係、武林無想庵関係のことについても何か見つかるかもしれない。浅野長矩の乳母=武林唯七の母というのは講談からの話? 谷崎なら採用するだろう。
  • 黒塚 - Wikipedia

    この項目では、鬼婆にまつわる伝説について説明しています。伝説を題材とした能については「黒塚 (能)」を、夢枕獏による小説作品については「黒塚 KUROZUKA」をご覧ください。 『奥州安達が原ひとつ家の図』(月岡芳年画) この錦絵は「風俗壊乱」として政府により発禁処分となった[1]。 鳥山石燕『画図百鬼夜行』より「黒塚」 黒塚(くろづか)は、福島県二松市(旧安達郡大平村)にある鬼婆の墓、及びその鬼婆にまつわる伝説。安達ヶ原(阿武隈川東岸の称。安達太良山東麓とも)に棲み、人を喰らっていたという「安達ヶ原の鬼婆(あだちがはらのおにばば)」として伝えられている。 黒塚の名は正確にはこの鬼婆を葬った塚の名を指すが、現在では鬼婆自身をも指すようになっている[2]。能の『黒塚』も、長唄・歌舞伎舞踊の『安達ヶ原』、歌舞伎・浄瑠璃の『奥州安達原』もこの黒塚の鬼婆伝説に基づく。 伝説[編集] 黒塚の近隣に

    黒塚 - Wikipedia
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    pirachan 2012/05/01
  • 黒塚 (能) - Wikipedia

    安達原(月岡耕漁『能楽図絵』) 「黒塚」(くろづか)は、能の演目の一つ。観世流では「安達原(あだちがはら)」。四・五番目物、鬼女物、太鼓物に分類される。いわゆる「安達ヶ原の鬼婆」伝説に取材した曲である。 作者については不詳。作者付の記述から、近江猿楽所縁の曲であったと見られる[1](後述)。 この記事ではあわせて派生作品についても記述する。 あらすじ[編集] 廻国巡礼の旅に出た熊野那智の山伏・東光坊祐慶(ワキ)とその一行は、陸奥国安達ヶ原で、老媼(前ジテ)の住む粗末な小屋に一夜の宿を借りる。老媼は自らの苦しい身の上を嘆きつつ、求められるまま枠桛輪[2]で糸を繰りながら糸尽くしの歌を謡う。やがて夜も更け、老媼は「留守中、決して私の寝所を覗かないでください」と頼み、山伏たちのために薪を取りに出る。 しかし、山伏に仕える能力[3](アイ)は、寝所の中が気になって仕方がない。山伏との攻防の末、つい

    黒塚 (能) - Wikipedia
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    pirachan 2012/05/01