源朝臣二郎三郎(内府) @sekaiichibanham Q 鎌倉幕府や室町幕府がなぜ江戸幕府みたいに安定しなかったの? A.江戸幕府がおかしいんだよ これに尽きる 2022-10-29 18:51:20
2022年 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」 @nhk_kamakura13 / #百錬抄 寿永2年(1183)10月14日条 \ 東海道・東山道諸国の年貢、神社仏寺ならびに王臣家領の荘園は、もとのごとく領主に従えと宣旨が下されました。これは源頼朝が申請したものです。 #鎌倉殿の13人 pic.twitter.com/kdrlMynMpj 2022-04-10 21:32:01 参考 中学校の歴史 1192は違うの?鎌倉幕府成立 2008年02月28日 語呂合わせ「1192(いいくに)つくろう」で、鎌倉幕府が成立した年号を覚えた人は多いはず。しかし、現在の中学歴史教科書の多くは、鎌倉幕府の成立が、1192年ではなく1185年に変わっている。語呂合わせなら「1185(いいはこ)つくろう鎌倉幕府」ということになる。 東京書籍などによると、92年は源頼朝が征夷大将軍に就いた年。頼朝は85年、軍事・行
まとめ管理人 @1059kanri 「鎌倉幕府」の成立年代が諸説あることは有名ですが、実際には源頼朝や坂東武者によって関東に成立した権力体が一体何なのか、頼朝たち自身にも朝廷にもよく解らず、その定義を定めるための紆余曲折こそが「鎌倉幕府」の歴史なんだとも思し、結果として鎌倉幕府は自身を明確に定義できずに終わったとも 2022-01-15 01:01:18 銅大 @bakagane RT言及:まさに。鎌倉幕府って、当事者たちには曖昧な存在なまま終わり。後の武家政権や、歴史家などが「鎌倉幕府とはなんだったのか」を考え続けたことで輪郭ができていった感があります。なので、鎌倉幕府の成立といっても「ここまでで2割が成立」「このへんで7割」「5割に戻った」みたいになる 2022-01-15 01:06:38
戎光祥出版編集長 @ebisukosyo_maru 戎光祥出版株式会社編集長の個人アカウントです。弊社刊行書籍の宣伝や、興味のある歴史ネタ等をtweetしています。なお、tweetの内容は、戎光祥出版株式会社の公式見解ではないことをあらかじめお断りしておきます。 企画・編集を担当した書籍はこちらから→booklog.jp/users/ebisumaru 戎光祥出版編集長 @ebisukosyo_maru 2月の新刊、亀田俊和・生駒孝臣編『南北朝武将列伝 南朝編』の試し読みページをHPにアップいたしました。ひとまず「はしがき」・「目次」および、北畠顕家・楠木正成・名和長年の冒頭部分をアップしております。どうぞよろしくお願いいたします。 #南北朝武将列伝 ebisukosyo.co.jp/item/583/ pic.twitter.com/dOnnFPYbSw 2021-01-21 12:28
実際は鎌倉幕府のトップ!執権とは? 鎌倉時代は、武士が政権を握る初めての武家政権でした。たしかに平安時代末期、武士であった平清盛が多大な権力を持ちましたが、平氏政権は「娘を天皇家に嫁がせることで外戚となり、政治の実権を握る」という従来と変わらないやり方であり、朝廷と共存することで成り立っていました。しかし鎌倉幕府で作られた役職は、それまでの貴族が中心の政権とは、ガラッと違うものになりました。 鎌倉幕府の役職をひとつひとつ見ていくと、武家政権の構造と実態を垣間見ることができるでしょう。鎌倉幕府の役職として、まずはじめに挙げることができるのは「執権」です。 監修者 kawauso 編集長(石原 昌光) 「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関
年に1度公開される護良親王と伝わる首級=山梨県都留市の石船神社で2023年1月15日午前10時35分、小田切敏雄撮影 山梨県都留市朝日馬場の石船(いしふね)神社で、鎌倉幕府が滅亡した建武新政の立役者である後醍醐天皇の皇子、護良(もりよし)親王(1308~1335年)のものと伝わる市指定有形文化財「石船神社の復顔首級」が公開された。年に1度、神社を運営する「宮世話」の交代に伴い、ご神体としてあがめている首級を確認する神事。15日にあった神社の初祭りで、神職が納めている本殿から首級を取り出し、新旧の宮世話や自治会関係者が首級の保存状況などを確認した。 護良親王は仏門に入っていたが、後醍醐天皇が鎌倉幕府討伐のために企てた「元弘の乱」で僧兵を率いて活躍、その間に還俗(げんぞく)して護良と名乗った。建武新政府では征夷大将軍、兵部卿となったが、足利氏と反目して鎌倉に幽閉され、殺害された。
今回はウェブアンケートにて総勢11,136名に調査した<「歴史の教科書」驚きの変更点ランキング>を発表します。さっそくランキングをチェック! 1位鎌倉幕府成立が「1192年」から「1185年」に変更された (1,840票) 2位江戸時代の身分制度「士農工商」は存在しないことが明らかになった (1,610票) 3位関ヶ原の戦いの西軍の大将は石田三成ではなく毛利輝元だった (986票) 4位大化の改新が「645年」から「646年」に変更された (712票) 5位「リンカーン」が「リンカン」に変更された (708票) 6位日本最古の貨幣は「和同開珎」ではなく「富本銭」だった (645票) 7位日本最大の前方後円墳は「仁徳天皇陵」から「大仙古墳」に変更された (589票) 8位徒然草の著者が「吉田兼好」から「兼好法師」「卜部兼好」に変更された (498票) 9位「ルーズベルト」から「ローズベルト」
140年以上続いた鎌倉幕府 源氏が将軍職にあったのはたったの30年足らず 源氏が将軍職にあったのはたったの30年足らず そもそも鎌倉幕府という名の政府は存在しない 第2代将軍・頼家と第3代将軍・実朝 鎌倉幕府第2代将軍・源頼家とは 鎌倉幕府第3代将軍・源実朝とは 頼家暗殺の原因は乳母にあり 乳母とは 頼家の乳母 養い子に絶大な影響力を持つ乳母 鎌倉幕府第2代将軍・源頼家の追放と暗殺 カツオがタラちゃんを滅ぼすという異常事態 鎌倉のその後 暗殺計画の露呈 実朝の暗殺 【Amazon.co.jp限定】大河ドラマ 鎌倉殿の13人 完全版 第四集 ブルーレイ BOX[4枚組](全巻購入特典:全巻収納BOX引換シリアルコード付) [Blu-ray] そもそも鎌倉幕府という名の政府は存在しない 本稿では源頼朝が組織した政府を便宜的に「鎌倉幕府」と呼称するが、実は「鎌倉幕府」という名の政府は存在しない。
鎌倉殿と主従(しゅじゅう)関係を結び、領地を保障された武士の事を御家人(ごけにん)と言います。そのような御家人の頂点に立ったのが執権(しっけん)の北条氏でした。では、執権北条氏に仕える家来の事は何と呼ぶかご存知ですか? 今回は北条氏の家来から出発し、鎌倉幕府を牛耳るまでに成長した御内人(みうちびと)について解説します。 記事を引用する方へ:ほのぼの日本史はエンタメ要素を重視した娯楽読物であり、学術論文ではありません。記事内容の正確さについてほのぼの日本史はその一切を保障しません。ほのぼの日本史の記事を引用した結果、生じた損害等については、全て引用者の自己責任となります。 監修者 kawauso 編集長(石原 昌光) 姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がけ
こんにちは。夢中図書館へようこそ! 館長のふゆきです。 今日の夢中は、「歴史人」2021年7月号、「源頼朝と鎌倉幕府の真実」です。 ■歴史人 いつも歴史ファンにたまらない情報を届けてくれる「歴史人」。 2021年7月号の特集は、なぜ頼朝は武家中心の幕府創設に至ったのか?「源頼朝と鎌倉幕府の真実」です。 歴史人2021年7月号 これは、2022年大河ドラマ「鎌倉殿の13人」を先取りする形ですね。 本号がとり上げる人物と時代は、源頼朝と鎌倉幕府勃興期。「鎌倉殿の13人」の時代設定と重なります。 源平合戦から弟・義経との確執、そして「史上最初の武家政権誕生」に至るまで! 本誌には、時代考証の解説から人物相関図、義経・政子ら関係者の生涯など、興味深い記事がずらり。 でも、やっぱり注目したいのはこのひと、源頼朝です。 このひとが、明治まで約700年にわたって続く武家政権の礎をつくりました。 武家政治
古都鎌倉 初めての本格的な武家政権である鎌倉幕府が置かれたところです。 三方を山に囲まれ、一方は海に面した地形は、天然の要害であったからとも言われています。 山には、いくつもの切通しが残り、往時を彷彿とさせ、 稲村ヶ崎や由比ヶ浜などに代表される海は、人々を魅了します。 そして、鶴岡八幡宮、建長寺、円覚寺などに代表される伝統ある寺社仏閣。 一年を通じて多くの観光客で賑わっています。 私も、何回となく訪れた地です。 ただ、一点、ずっと疑問に思っていたことがあります。 鎌倉幕府って、どこにあったんだろう‥。 折しも、今年のNHK大河ドラマは「鎌倉殿の13人」。 長年の疑問を解消すべく、鎌倉幕府跡を訪ねてみました。 ※鎌倉時代の史実には、諸説あるものが多く、以下の記載に間違いがありましたらご容赦ください。 目 次 鎌倉殿の13人 鎌倉幕府の変遷 宇都(津)宮辻子幕府跡 若宮大路幕府跡 大倉幕府跡
こんにちは。夢中図書館へようこそ! 館長のふゆきです。 今日の夢中は、「日本史の新常識100」鎌倉幕府成立も,頼朝の肖像画も,政子の演説も,実は…です。 「夢中図書館 読書館」は、小説や雑誌などの感想や読みどころを綴る読書ブログです。あなたのお気に入りの一冊を見つけてみませんか? ■歴史人 いつも歴史ファンにたまらない情報を届けてくれる「歴史人」。 2022年11月号は、歴史好きもあっと驚く特集が組まれました。 それが、ここまで変わった!日本の歴史、最新説100を詳解! あなたの習った歴史はもう古い!古代から幕末維新まで…保存版特集「日本史の新常識100」です。 歴史人2022年11月号 「あなたの習った歴史はもう古い!」。 そうなんです。学校で習う日本史は大きく変わっています。 その背景にあるのが、新しい資料の発見や遺跡の発掘、最新研究の成果…。 なかには骨のDNA鑑定などの最先端の科学
たとえば極楽寺重時(1198―1261)という、北条泰時(1183―1242)の弟にあたる武士がいました。泰時は御成敗式目を定めた執権。重時はその兄に非常に忠実な人で、泰時に頼まれて京都で六波羅探題を務め、泰時没後は、兄の孫の北条時頼(1227―1263)を補佐するために京都から帰ってきた。 重時は時頼をしっかり補佐し、やがて重時の娘と時頼が結婚して時宗が生まれた。後にモンゴルと戦うことになる北条時宗(1251―1284)です。時宗からすると、重時は祖父ということになります。 彼は、兄の泰時とともに、政治行為の重要性を知らしめ、鎌倉幕府に「統治」という概念を植えつけました。この極楽寺重時が鎌倉時代のキーパーソンだったと私は考えています。 その重時が、子どもたちにあてて書いた遺訓が残っています。 そのなかの1つには「どんなに腹が立っても家来を殺してはいけない」とある。どんな教えだ。重時ほど優
こんにちは。夢中図書館へようこそ! 館長のふゆきです。 今日の夢中は、白熱!後鳥羽vs義時、熾烈!その後の北条氏…歴史人「承久の乱とその後の鎌倉幕府」です。 「夢中図書館 読書館」は、小説や雑誌などの感想や読みどころを綴る読書ブログです。あなたのお気に入りの一冊を見つけてみませんか? ■歴史人 いつも歴史ファンにたまらない情報を届けてくれる「歴史人」。 2022年12月号は、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」ファンにはたまらない特集が組まれました。 それが、遂にクライマックス!「鎌倉殿の13人」承久の乱のすべてがわかる! 保存版特集「承久の乱とその後の鎌倉幕府」です。 歴史人2022年12月号 これはヤバい…。ページを開いていいのか、控えた方がいいのか…。 いよいよ迫るドラマ終盤のハイライト「承久の乱」。そのすべてがわかるという一大特集。 さらに歴史人は、「その後の鎌倉幕府」も追っていきます。
平盛綱(たいらのもりつな)は鎌倉時代初期に活躍した武士で、執権北条氏の御内(みうち)として家令(かれい)(執事)を勤めました。大河ドラマ鎌倉殿の13人では戦争孤児の鶴丸(つるまる)として登場し、将軍ではなく義時や泰時に忠実に仕える盛綱ですが、彼の子孫は鎌倉幕府を牛耳るほどに急成長していくのです。 記事を引用する方へ:ほのぼの日本史はエンタメ要素を重視した娯楽読物であり、学術論文ではありません。記事内容の正確さについてほのぼの日本史はその一切を保障しません。ほのぼの日本史の記事を引用した結果、生じた損害等については、全て引用者の自己責任となります。 監修者 kawauso 編集長(石原 昌光) 姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴
鶴岡八幡宮の参道若宮大路は、養和(1182)年、源頼朝が妻政子の安産祈願のために造営を始めたのだと伝えられています。 そうして誕生したのが源頼家です。 現在の若宮大路 このブログでは、ドラマのネタバレではありませんが、史実としてのネタバレが含まれることがございます。 ご了承くださいませ。 目次 18歳で将軍になった源頼家 『鎌倉殿の13人』第27回「鎌倉殿と十三人」 比企の乱 頼家の死 18歳で将軍になった源頼家 源頼家は源頼朝と北条政子の間の長男として1182年に生まれました。 生まれた時から「次代将軍」でした。 しかし、思いのほか父の頼朝が早くに亡くなり、彼は急遽18歳で将軍になります。 当時の感覚としては、18歳は立派な大人です。 なのに北条氏は「若造の将軍は心配だからこれからはベテラン親父たち13人の合議制にするわ。」と言いだしたたのです。 『鎌倉殿の13人』第27回「鎌倉殿と十三
こんにちは。夢中図書館へようこそ! 館長のふゆきです。 今日の夢中は、「歴史人」2020年4月号、「日本史の謎100」です。 ■歴史人 いつも歴史ファンにたまらない情報を届けてくれる「歴史人」。 2020年4月号の目玉は、歴史好きの好奇心をかき立てる特集です。 「日本史の謎100」。 サブタイトルは「古代から幕末維新まで、歴史の最新論点はコレだ」。 歴史人 2020年4月号 歴史を甘く見てはいけません…。 新しい史料の解析や研究が進み、これまでの定説が覆されたりしてるんです。 学校で習った歴史はもう古い。 史料の中だけに潜む歴史の真実を解き明かす、「歴史人」の総力特集。 古代、中世、戦国、江戸、幕末の5つの時代から、「日本史の謎100」を取り揃えています。 今日は、そんな「日本史の謎100」の中から、個人的に興味を引かれた謎をとり上げます。 ■邪馬台国はどこにあったのか まずは「古代」から
(城郭・戦国史研究家:西股 総生) 後の「守護・地頭制」のベースに 今回は、鎌倉幕府による支配の根幹をなした、守護・地頭制度について考えてみます。 1185年(文治元)鎌倉の頼朝は、逃亡した義経を探索するため、後白河法皇に迫って各国に「惣追捕使(そうついぶし)・地頭」を設置することを認めさせます。このときの「惣追捕使・地頭」が、実際にどのくらいの役割を果たしたのかについては、専門家の間でも議論があります。 ただ、これが後の「守護・地頭制」のベースになったことは、まちがいありません。実際、現在の歴史の教科書では、「守護・地頭制」のベースができた1185年(文治元)をもって、鎌倉幕府成立の年としています。では、守護・地頭とは何でしょう? 一般に地頭とは、貴族や寺社が支配する荘園や、国司の支配する公領の郡や郷ごとに鎌倉幕府が置いた役職で、現地の治安維持や支配にあたるものとされています。平家方から
源義経は、なぜ殺されたのか。いろんな要因が重なり合っているので難しい話です。 ただ個人的には、源平合戦でよくも悪くも「勝ちすぎて」しまい、頼朝の目から見れば邪魔になってきていたということと、その源平合戦の終了後、 後白河法皇から冠位を授けられ、あっけなく後白河派に取り込まれてしまうという挑発的な挙に出たこと(本人にはそんな深謀があったわけではなさそうとはいえ、頼朝にはそう見えたであろうこと)、この二点が大きかったのではないでしょうか。 すっかり頼朝に追われる身となり、かつて潜伏していた奥州藤原氏のもとに再び逃げこんだものの、さらに運が悪いことに、義経に協力的だった藤原秀衡が急逝し、その息子の泰衡が頼朝からのプレッシャーをかけられ、義経を殺害してその首を鎌倉に送るという判断をしてしまいます。藤原泰衡の手勢に襲撃され、悲劇的な最期を遂げたのが、史実の義経。 ですが、ここで、ひとつ、イフ展開を考
兵庫県の三木・吉川の藤田さん、丹波の久下(くげ)さん、そして丹波篠山の中沢さん、酒井さん。それぞれの地域に多いことで知られるこれらの名字、広まるきっかけは承久(じょうきゅう)の乱(1221年)にあったという。鎌倉幕府と朝廷の覇権争いに端を発し、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも取り上げられたこの戦い。はるか昔、兵庫から遠く離れた場所で起こった出来事がどのように影響したのだろうか。(篠原拓真) 承久の乱は、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時に対し、討伐の兵を挙げたことに始まる。源頼朝の妻北条政子の演説が関東の武士たちを結束させ、幕府側が圧勝した。 姓氏研究家の森岡浩さんは、「歴史上で何度か名字が移動する時期はあるが、承久の乱は現在に影響を残すほどの大移動だった」と説明する。 幕府は朝廷方の所領約3千カ所を没収し、功績のあった武士らを土地の管理者「地頭」に任命。西日本を中心に土地を与えた。
優れた統治機構を作り上げたのは文官たちだった 頼朝は清盛から何を学び、また何を反面教師としたのだろうか。 その第一が統治機構を確立したことだろう。考えてみると、平家というのは既存の朝廷という統治機構に食い込んでいったことから、独自の統治機構を持たず、政治体制も律令制度から脱するものではなかった。たとえ偶然からとはいえ、それを何のお手本もなく打破していった頼朝は、さすがとしか言いようがない。 大河ドラマは人間ドラマ部分に注目が集まりやすいので、試行錯誤しながら統治機構を作り上げていく文士(文官)たちの姿が描かれないのは仕方がない。しかし鎌倉幕府は優れた統治機構を確立した文士たちに恵まれたからこそ、多くの武士(開発領主)の支持を得られたと言っても過言ではないだろう。それが、明治維新まで680年余も続く武家政権の端緒となったのは周知の通りだ。 本稿ではとくに「統治機構(組織)」に焦点を当て、鎌倉
鎌倉幕府のあったところ、皆さんはご存知でしょうか? 源頼朝が幕府を開いた場所は、当然ながら現在においても姿を変えて存在しています。こう言うとたまに「跡地があるの?」とか聞かれてしまいますが……というか、そもそも「幕府」とはなんぞや? ということで、今回は「幕府」についてと、鎌倉幕府のあったところの現在の場所、両方について解説していきたいと思います。 監修者 kawauso 編集長(石原 昌光) 姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立
鎌倉市。日本で初めての武家政権である鎌倉幕府が開いた地です。 日本史の教科書に必ず乗っている鎌倉幕府。 でも、知っているようで知らない鎌倉幕府・・。 そこで実際に鎌倉を訪れ幕府関係の地を巡ってみませんか?? 1日で十分見ていけますよ。 【鶴岡八幡宮】 鎌倉初代将軍・源頼朝ゆかりの神社で源氏と鎌倉武士の守護神、鶴岡八幡宮。 【鎌倉の交通の要所・切通し】 北部から鎌倉中心部へと入る 切通し。 【鎌倉幕府跡地】 鶴岡八幡宮から少し歩くと鎌倉幕府があった場所に着きます。 【源頼朝の墓】 鎌倉幕府跡地から少し歩くと頼朝の墓があります。 【頼朝の長女大姫に関係する岩船地蔵】 源氏の勢力争いに巻き込まれ不幸な人生を送った頼朝の長女、大姫。 【鎌倉幕府滅亡の地 腹切りやぐら】 1333年、北条高時一族が滅亡した やぐら があります。 【たいまつの話の舞台 滑川】 鎌倉幕府の引付奉行人(裁判官)、青砥藤綱(
承久の乱を起こし、鎌倉幕府と戦った後鳥羽上皇とはどんな人物だったのか。作家の濱田浩一郎さんは「NHK大河ドラマでは『ラスボス』として北条義時に立ちはだかる好戦的な人物のように描かれているが、実際は朝廷と幕府の良好な関係を望んでいた教養人だった」という――。 なぜ後鳥羽上皇がラスボスとして描かれているのか NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、後鳥羽上皇役を歌舞伎役者の尾上松也さんが演じています。この後鳥羽上皇、同ドラマにおいては「ラスボス」(最後の壁として立ちはだかる存在のことで、ラストに登場するボスキャラクター=ラストボス」の略語)と称されています。なぜ、そう呼ばれているのでしょう。 おそらく、ドラマは、1224年6月、主人公・北条義時の死で幕を閉じると思われます。義時の人生を簡単に振り返ると、幕府の有力御家人として力を付けてきたのは鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝が死去(1199年)してか
源頼朝に約20年も仕送りをしていた比企尼 源頼朝と比企氏をつないだのは、比企尼(ひきのあま)という1人の女性である。比企尼がいかなる出自かは不明であるが、夫は比企掃部允(ひき かもんのじょう)という。掃部允が武蔵国比企郡(埼玉県)を拝領したことから、尼は夫とともに同地に下向する。今風に言うと、地方公務員の妻といったところだろうが、尼にはもう1つの顔があった。 それが、源頼朝の乳母という顔だ。乳母とは、実母の代わりに乳幼児に授乳し、養育する女性のこと。乳母は夫とともに、貴人を養育する役割を担うとされるが、尼はそれにふさわしい働きをすることになる。 頼朝は、自らも参戦した平治の乱(1159年)で平清盛らに敗れて捕縛され、伊豆国に流罪となった。頼朝が生まれたころに乳母をしていた尼は、それを聞くと「忠節」の想いが募り、夫とともに京都から比企郡に下り、そこからの収益で、頼朝に仕送りを続けたという。そ
「すわ鎌倉」は「いざ鎌倉」と同じ意味 ^_^ ここ諏訪にも御家人達が集結する、すわ諏訪! と言うべきイベントがありました ( ̄▽ ̄) 諏訪大社の「現人神」は中世に武士化 (・_・)エッ 一時、諏訪氏は武田信玄に滅ぼされますが、江戸時代は高島城主3万石のお殿様となり明治をむかえます。 高島城の屋根は瓦でなく、板を薄く削った「こけら葺き」でしたが、維持管理にお金がかかるので銅葺きで復元(^-^; 近くでみると鉄筋コンクリート造と一目で分かるので、遠景で観るのがポイント( ◠_◠ ) 上社の諏訪氏に対し、下社には金刺氏という別の大祝(おおほうり)がいました。 金刺氏は神武天皇と事代主の姫の子孫、多氏の一族!? ※実際は6世紀頃伊那地方から来た半島系渡来人? 諏訪大社が上社と下社に別れているのは、夫婦喧嘩で奥さんが出て行ってしまったから! 建御名方神の妻神八坂刀売神(やさかとめのかみ)は安曇族の出
2代将軍・源頼家は本当に暗君だったのか 源頼家は、父・頼朝の死去した後(1199年)、2代目の鎌倉将軍となった。しかし、頼家の将軍としての評価は、これまで、とても悪かった。 頼朝は「偉大な独裁者」、ところが頼家は若年であり、しかも気性の矯激な暗愚な君主というのが通説である。 大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、俳優の金子大地さんが、頼家を熱演している。父・頼朝を超えようとしてもがくも、その熱意は空回り。しかも父に似て無類の女好き。やはり暗愚な君主という通説を踏襲している。 部下の愛人を奪おうとする「鎌倉殿」 女性にまつわる話は鎌倉時代後期に編纂へんさんされた歴史書『吾妻鏡』に記されている。御家人・安達景盛の妾を奪おうとしたのだ。ドラマにおいては、景盛の妾も、頼家にゾッコンなように描かれていたが、実は、景盛の妾は、再三にわたる頼家の求愛を蹴っていた。それに業を煮やした頼家は、景盛が三河の国に旅
【左】「大仙古墳」や「大山古墳」と教科書で表記されるようになった「伝仁徳天皇陵」=堺市/【右】伝源頼朝像(部分) (c)朝日新聞社 日本史教科書や資料集の主な変更点1/2 (週刊朝日2019年11月29日号より) 日本史教科書や資料集の主な変更点2/2 (週刊朝日2019年11月29日号より) 鎌倉幕府ができるまで (週刊朝日2019年11月29日号より) 年齢を重ねても昔習ったことは覚えているもの。「いい国(1192)つくろう鎌倉幕府」などと、日本史の出来事を語呂合わせで暗記した人も多い。だが、研究が進み新たな学説も登場している。大きく変わった歴史教科書の今と昔を見比べ、知識をリフレッシュしてみませんか。 【表で見る】日本史教科書や資料集の主な変更点はこちら * * * 日本最大の古墳と聞かれ、堺市の「仁徳天皇陵」とすぐに浮かんできたあなたは古代史が好きだったのかもしれない。 この仁
鎌倉幕府と室町幕府 最新研究でわかった実像 (光文社新書) 作者:山田 徹,谷口 雄太,木下 竜馬,川口 成人光文社Amazon Kindle版もあります。 鎌倉幕府と室町幕府~最新研究でわかった実像~ (光文社新書) 作者:山田 徹,谷口 雄太,木下 竜馬,川口 成人光文社Amazon 鎌倉幕府が滅亡したのは偶然が重なり合った結果だった。 あるいは室町幕府は応仁の乱ののちも存在感を発揮し続けていた―― いずれも、近年の日本史研究で議論されている論点であり、 従来の日本史の常識を覆す研究が次々と発表されている。 本書では、新進気鋭の中世史研究者たちが、 それら最新の学説をまとめて二つの幕府の実像を明らかにする。 巻末には、どちらの幕府が強かったかを議論する執筆者の座談会を収録。 中世史ブームに一石を投じる、すべての歴史愛好家注目の一冊。 2016年10月に上梓された新書『応仁の乱』がベスト
「北条義時って誰?」と思う人も多いかもしれないが、来年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」(脚本・三谷幸喜、主演・小栗旬)の主人公なのだ。 北条義時(1163〜1224)は、平安時代末期から鎌倉時代初期を生きた武将である。私は同書のなかで、北条義時のことを「地味キャラ」だと述べたが、その人物像や成し遂げたことを知る人は少ないように思う。 高校の日本史教科書にも北条義時の名は見られるが、黒字で強調されていないこともある。しかし、「地味キャラ」だからといって、歴史上、大きなことを成し遂げなかったのかといえばそうではない。 北条義時は、源頼朝の平氏打倒の挙兵に父・時政とともに参加。頼朝死後は、鎌倉幕府内の暗闘や内紛を勝ち抜き、ついには幕政の実権を握る。そして、自らを打倒しようとする後鳥羽上皇に対し、軍勢を上洛させて大勝(承久の乱)、上皇の配流を断行するのだ。 その波瀾万丈、激動の北条義時の生涯を、平清
(城郭・戦国史研究家:西股 総生) ◉鎌倉殿への道(20)幕府とは? 鎌倉殿とは? (https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/68126) 武士たちによって推戴されるボス=「鎌倉殿」 日本の中世〜近世の場合、武家政権のボス=征夷大将軍という図式で考えるかぎり、征夷大将軍が率いる武家政権=幕府になる。全体とするなら、この図式で説明した方が、わかりやすい。 ただし、政権の成立期については、必ずしもこの図式が当てはまらない。権力というものは、ある日突然、ぽこんと爆誕するわけではないからだ。『鎌倉殿への道』の連載を読んできた方はおわかりだろうが、新しい権力は、いろいろな出来事をへながら少しずつ形づくられるものである。 鎌倉幕府の場合だと、頼朝が鎌倉殿となったのは1180年(治承4)12月のこと。この時点で、南関東一円と北関東の一部を勢力圏とする事実上の軍事政権が
最近の日本史の教科書を開くと、教わってきたことと随分違うことに気づく。知らぬ間に何があったのか。歴史家の河合敦氏に詳しく聞いた――。 【縄文時代】科学の発展で、年代に変化 早速ですが、皆さんは縄文時代が何年前から始まったと教わりましたか? 40代以上の方は1万年前と習った方が多いと思いますが、様々な研究の結果、現在の教科書では1万3000年前とされています。 しかし、さらなる科学技術の発展が、歴史を塗り替える可能性があります。炭素14年代測定法を用いて青森県にある大平山元I遺跡の縄文土器を測定したところ、1万6500年前という驚きの数字が出ました。この測定法の結果が正しいとすると、縄文文化は、今の教科書より3500年も早い、日本が中国大陸と陸続きだったときから始まっていたことになります。 炭素14年代測定法とは、どのようなものなのでしょうか。生物は体の中に放射性炭素を含んでいます。ところが
中学校の歴史 1192は違うの?鎌倉幕府成立 2008年02月28日 語呂合わせ「1192(いいくに)つくろう」で、鎌倉幕府が成立した年号を覚えた人は多いはず。しかし、現在の中学歴史教科書の多くは、鎌倉幕府の成立が、1192年ではなく1185年に変わっている。語呂合わせなら「1185(いいはこ)つくろう鎌倉幕府」ということになる。 東京書籍などによると、92年は源頼朝が征夷大将軍に就いた年。頼朝は85年、軍事・行政官「守護」や、税金集めなどをする「地頭」を任命する権利を得、幕府の制度を整えたのだという。 社会編集部副編集長の和田直久さんは「実質的に幕府が成立したのが85年。92年は征夷大将軍という『名』を得て名実ともに幕府が完成した年と考えられます」と話す。 この変化を東京書籍の教科書でたどると――、 1955年=1192年、頼朝は朝廷から征夷大将軍に任じられ、鎌倉に幕府という政府をおいた
東勝寺橋。鎌倉幕府の滅亡時、北条高時らは東勝寺で自害して果てた。(写真:edocko/イメージマート) ■「逃げ上手の若君」の連載開始 私たちが子供の頃は、漫画やアニメで時代劇が少なからずあった。しかし、近年は大人向けのテレビ時代劇も含め、かなり低調だ。しかし、1月から週刊少年ジャンプで松井優征さんの「逃げ上手の若君」(以下、「若君」と省略)が連載されることになった。早くもネット上でも評判になっている。 私も数十年ぶりに近所のコンビニで購入。これは、なかなかおもしろい。せっかくなので、「若君」の内容を深掘りしたいと思う。今回は、主人公の北条時行と鎌倉幕府滅亡についてである。 ■北条時行とは? 「若君」では、少年の姿で描かれていた時行。14代執権・北条高時の次男(母は二位局)であるが、生年は不詳である。当時の人物で生年が不明なことは、別に珍しくない。 兄の邦時が正中2年(1325)11月の誕
鎌倉幕府、源頼朝が開いた史上初の全国規模の武家政権です。 源頼朝は1180年に鎌倉に入ると大倉の地に屋敷を構えます。 さらに、頼朝はここに侍所、公文所、問注所も設置し、鎌倉幕府としての政務機能を 集中させます。 ここでは2代将軍頼家、3代将軍実朝と3代にわたりここで政務を行いました。 ですから、ここは鎌倉時代初期の政治の中心地だったのです。 (鎌倉幕府跡地、今は小学校) 大倉幕府跡は、鶴岡八幡宮の北東一帯の地域にあったと思われます。 大蔵幕府は、東西南北に門があり、それぞれの門の傍には、有力御家人の屋敷が各門を守るかたちで建てられていたと言われています。 そして、宇都宮辻子(うつのみやずし)に鎌倉幕府の機能が遷るまでの46年間、幕府としての業務を行っていました。 現在は、大倉幕府があった一帯は、清泉小学校や住宅地となっています。 今では全く面影がありませんが、ここでかつて800年以上前に日
(城郭・戦国史研究家:西股 総生) 鎌倉幕府成立を語る上で欠かせない人物 『鎌倉殿の13人』の第1回、ご覧になりましたか? 昨年、当サイトで「鎌倉殿への道」を連載させていただいた私(西股総生)は、このドラマに中世軍事考証という立場で関わらせていただいております。主に、戦いや武器についてのアドバイザーですね。そこで、せっかくのご縁ですので、当サイトでも皆さんのドラマ鑑賞をサポートできるような解説を、連載してみたいと思います。 まずは、登場人物。ドラマの第1回は、北条時政の屋敷でにぎやかに繰りひろげられる宴会が中心でした。近隣の武士たちが大勢集まり、屋敷の隅では逃げてきた頼朝をめぐって、若者たちが一騒動。彼らの間には、何やら複雑な人間関係やら利害関係が、あるようです。 今回の登場人物たちのうち、源頼朝・北条時政・義時・政子あたりは、皆さんもご存じと思います。では、他の人たちは? 実は、今回登場
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