マネーの世界で今年、ホットワードとなったFIRE(Financial Independence, Retire Early)について考えています。経済的独立を果たし、早期リタイアの実現を目指す。このFIREを「真夏の夜の夢」に終わらせず、現実のものとすることはできるでしょうか。カギはキャリア形成と節約のセット先週、FIREは運用だけではなく、キャリアアップをしっかり見つめ直すことが第一歩だ
はてなインターネット文学賞「わたしとインターネット」 僕がはじめて自分のホームページを作ったのは、1999年だから、もう20年以上前になる。 パソコン通信の時代には、そういうものがあるのは知っていたけれど、知らない人とやりとりするなんて怖いな、電話代もかかるみたいだし、という感じで、そんなに興味を持てなかった。 でも、職場でインターネットというものにはじめて触れて、雑誌に紹介されている個人サイトを覗いてみて、僕はインターネットの「日記」に魅了されてしまったのだ。 そこには、家族との日常を淡々と記録している人、趣味について書き続けている人、進行中の不倫や専門職での出来事を匿名で告白している人、婚活で出会った異性のことを赤裸々に紹介している人、などが存在していた。 他人の日常を覗き見ることには、背徳的な新鮮さがあった。 それまでは、プロの作家の「お金になる文章」以外を読む機会って、ほとんどなか
5時間42分。 これが何の時間かというと、先の1ヶ月間にこまかく記録してみたぼくの労働時間だ。ギュギュギュっと圧縮すると、いよいよ1日分にまで減ってしまった。 ぼくの仕事は不動産投資で、つまりは大家さんだ。銀行から借りたお金でアパートを買い、そのアパートの入居者からいただくお家賃で、借金のローンを返済して、修繕をしたり、税金を払ったりして、最後に幾ばくか残るお金で日々を暮らしている。 入居者のクレーム対応やお家賃の集金・滞納の督促、アパートの清掃、決算申告などの業務はすべて外注している。投資家として自分がやらなくてもいい仕事はなるべくプロに任せることにしているうち、どんどんやることがなくなって、自分にしかできない仕事なんて世の中にないんだ…という悲しい事実に気が付いてしまった。 だけどいまでこそ勤労の義務を放棄しているけれど、30歳を過ぎるくらいまでは額に汗して、まるで別人のように過労死ラ
もう正常化バイアスに侵されている人に何を言っても無駄なのですが、自分の医師人生でインフルエンザに挿管・ECMO を回したのはそれぞれ1回しかありませんが、この2年で新型コロナウイルスでは数え切れないほど見ていて医師を40年以上やっ… https://t.co/aPLFnts4ZL
5月27日に35周年を迎え、シリーズ最新作の情報も発表された、大人気ゲーム『ドラゴンクエスト』。シリーズの生みの親である堀井雄二氏(67)は、ゲームデザイナーとして35年間、ドラクエの最前線に立ち続けている伝説のクリエイターだ。堀井氏いわく「人生はロールプレイング」。なにかと制限が多く色々な困難がある現実を、堀井氏はどのように「プレイ」しているのか、お話を伺った。(Yahoo!ニュース Voice) 1986年の発売以降、シリーズ累計販売・ダウンロード本数8200万本を超える国民的大人気ゲームとなった『ドラゴンクエスト』。「プレイヤーが勇者となって世界を救う」「レベルアップして強くなる」「パーティを組んでみんなで戦う」といった“ロールプレイングゲームの型”を作り上げたのも、堀井氏が率いた制作チームだ。 ――ファンの間で長らく愛されている堀井さんの言葉「人生はロールプレイング」には、どのよう
小学校5年生から卒業までに1000万円を稼いだ ――いつから株取引を始めたのですか。 はる 小5の時に父に100万円をもらって株式投資をはじめました。小学校卒業までに1000万円は稼ぎましたね。今年4月に「小学生投資家」から「中学生投資家」になったばかりで、今は有名私立中学の1年生です。成績は学年で上位5位以内をキープしています。 コロナの状況次第ですが、高校卒業までにはアメリカに1年間留学をする予定で、将来はUCLA(カリフォルニア大学LA校)かMIT(マサチューセッツ工科大学)に行きたいと思っています。日本なら…まぁ京大か東大ですかね。金融と経営を学ぼうと考えています。 中学生投資家のはるさん 本人提供 小学校では生徒会長も務めた ――学校生活と株取引をどう両立させているのでしょうか。 はる 小学校の時はスマホを使って授業中も頻繁に取引していました。スマホの持ち込みは不可でしたが、教室
『オタクなあゆみ先生の「推し英語」の世界へようこそ!』の特別編!『推しが武道館いってくれたら死ぬ』(徳間書店、以下『推し武道』)のマンガ家・平尾アウリ先生と藤代あゆみ先生の対談です。『推し武道』誕生のきっかけや、おふたりの推しライフの様子などをお届けします。 今日が「私の命日」かもしれない 右から平尾アウリ先生、藤代あゆみ先生 藤代 いまだに信じられないんです、推しの前で、推しをテーマに語るなんて。どういうこと?って。今日が私の命日かもしれない。 平尾 (笑)。藤代さんの連載、楽しく読みましたよ。推しを好き過ぎるあまり、英語のつづりを間違えるとか。大文字にするだけで強い気持ちを伝えられるとか。面白いです。 藤代 ありがとうございます、うれしいです!オタクの皆さんに、オタクっぽい英語を書くコツをご紹介できてよかったです。ところで、韓国と台湾ではすでに翻訳が出ているので、今日はそれを持っ
ジャーナリスト・評論家の立花隆さんが、4月30日、80歳で亡くなりました。立花さんは1996年から東京大学駒場キャンパスでゼミを開講し、多くの教え子を各界に送り出してきました。その後、「立花ゼミ」は形を変えながら続けられましたが、2010年3月には立花さんが東京大学を退官。それから3ヶ月後の6月26日、立花さんは“最後のゼミ生”に向けて、実に6時間にも及ぶ最終講義を行っていました。 当時70歳だった立花さんが、次の世代に向けて残したメッセージとは――。講義の内容を収めた『二十歳の君へ』(文藝春秋)より、その一部を抜粋して紹介します。(全2回の1回目/後編に続く) ◆ ◆ ◆ 知の巨人、振り返る 『二十歳の君へ』は、もともと駒場祭の企画の延長として生まれたものですが、駒場祭のころはこの発想それ自体に、僕自身そんなに深くコミットしていたわけではありませんでした。二十歳前後の君たちへ何かを話した
ネットで漫画やイラスト、小説やブログを書いてた人が、ふっとやめてしまってさみしい、というのはよくある。外側から見ると急にやめちゃったようにしか見えないけど、内側から見るとむしろ「別にやめたわけじゃない」という認識なことが多いんじゃないかと思っている。 はっきり「やめる!」と決意してやめた人は少数派で、「まだやってる」の気持ちは持ち続けたまま、実績としてはやめた状態がずっと続いていく。 自分自身のケースだけど、以前はてなダイアリー/ブログで創作(お話)をせっせと書いていて、その後カクヨムに移った。2005年5月くらいから始めて、2019年3月に終わっている。まる2年以上更新してなければ、外側からは「やめちゃったんだな」としか見えない。でも本人は「別にやめたってわけじゃないけど……」と曖昧に思っている。 このズレが、熱心にやっていたことを急にやめてしまうケースに割と共通しているんじゃないかと想
あと10日ほどで44歳になります。 で、いまはプログラミングが楽しくって、いやーどうしよう。ここ1−2年は人生で一番プログラムを書いたかもしれない。 あたらしいことをやるのも楽しい、VR/ARとかAIとか、ひと昔前ならSFだったことが実現できるのはとってもエキサイティング! 学ぶ中で、昔はわからなかった数学の難しい理論がちょっとづつわかってくるのも嬉しい。ゲームの腕前があがっていくのと同じで、着実に力がついてきてることがわかるのがいい。新たに学ぶことが、実利に繋がるのとても嬉しいしやる気がでる。「勉強」という強いられている感じがなく、探究な感じなのがとても楽しい。 今はプログラミングを使ってできることが急激に進化しているから、学べばありとあらゆることを仕事にできる。 プログラミングが若手のものだった時代 ちょっと前なら、プログラミングは若手がやる肉体労働で早々に卒業してマネジメントとかをや
鳥取大学医学部附属病院救命救急センター教授の上田敬博(うえだ・たかひろ)が、2年前、あの患者と接した4ヶ月を語る 「どうせ死刑になる」――。全身の9割以上に深刻な火傷を負った男は、自らの命を救った主治医にそう言い放った。36人もの尊い命を奪った、京都アニメーション放火殺人事件の容疑者である。その困難な治療を担った上田敬博(うえだ・たかひろ)は、彼とどう向き合い、何を変えようとしたのか? 【画像】事件後の京都アニメーション第1スタジオ * * * ■「もし来るとすれば"奴"かな」 上田敬博がその事件を知ったのは、2019年7月18日昼のことだった。京都市伏見区の京都アニメーション第1スタジオに侵入した男が、バケツ2杯のガソリンを撒(ま)いて火を点(つ)けたという。 当時、上田は大阪府大阪狭山市にある近畿大学病院の救命救急センターに勤務していた。京都医療センターの旧知の医師から、近大では何人受
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はじめに わたしは今も昔も仕事としてOSS開発者をしていて、twitterなどでそれなりに名前が知られていることもあって、昔から「どうすればそういうこと(業務としてOSS開発)ができるのか」「どういうキャリアを歩んできたのか」「Linuxカーネル開発者になるにはどうすればいいのか」ということをよく聞かれてきました。当時わたしが置かれた環境と現在の環境では違いがありすぎるので公開に積極的にはなれなかったのですが、一つの過去事例として何らかの意味はあるかもと思って公開することにしました。 書き方が難しかったのですが、うまくまとまらなかったので、自分が書くのが楽な日記みたいになりました。 きっかけ 2000年初頭に学部4年のころにLinuxを触りはじめてから「UNIXとかLinuxってすげえ」「こんなものが無償で使えるのか」「これらのソースコードが全部見られるのか」と感動して、「自分も成果物を公
2021年10月9日 老境に入った実家の家人らの朝は早い。 もう、老境を視界に捉えた僕の朝も必然早くなる。 朝食はもとより、母が息子に3食食べさせようとするのが、不思議。 「もう、私一日一食よ。三食食うなんてブルジョアの仕草ですよ」 と発言して、白眼視されたので外出。 地方都市からのぉ 途中、小学校の掲示板にコロナ罹患者への白眼視を諌める旨の貼り紙。 事実、駐車場に置かれた県外ナンバーの車がコインスクラッチされたり、ノーマスク勢が叱責されたり、といった村社会丸出しの所作が横行しているようだ。 こんな時こそ、人品骨柄が問われるし、閉じてシュリンクして、老いさらばえていくのが、中規模地方都市の一般なのだろう。 そんな折、2020年に地方創生、文化地方発信的な意味合いで東京からやって来た「国立工芸館」へ。重文の十二の鷹がメイン。東京にあった頃から、やや地味な存在の施設であったと思うが、当地に移転
東京・葛飾区の木造アパートで去年火事があり、1人の男性の遺体が見つかった。警察が身元を調べたところ、意外な人物であることが判明した。 亡くなっていたのは中江滋樹氏(66)。 昭和から平成に向かう時代、バブルがはじける前の日本で、投資家・相場師として巨万の富を築いた、知る人ぞ知る人物である。 かつては「兜町の風雲児」と呼ばれ、メディアにも大きく取り上げられたが、違法な資金集めをしたとして絶頂期に逮捕され服役した。 あれから30年以上がたち、時代は令和に。刑務所を出たあとの動向は、ほとんど知られていない。 カネを追いかけ、そして翻弄された男は、下町のアパートで何を思っていたのだろうか。栄光と転落の人生をたどった。 (社会部記者 倉岡洋平) ※敬称一部略 ひげ面に長髪、スーツという姿で、東京・日本橋近くの金融街をかっ歩する1人の男。 昭和50年代に撮影された中江滋樹の姿である。 この頃、中江はま
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