頼氏は関ヶ原の戦い(1600年)に出陣しなかったが、戦後に徳川家康に戦勝を祝う使者を派遣したことから、1602年(慶長7年)に1000石の加増を受けた。それでも総石高4500石程度に過ぎず、本来ならば大名ではなく藩と呼ぶことはできない。しかし江戸幕府を開き源氏長者となった家康は、かつての将軍家でありかつ源氏長者でもあった足利氏の格式を重んじ、高い尊称である御所号を許して厚遇した。また四品格となり、代々の鎌倉公方が叙任された左兵衛督や左馬頭を称したが、これは幕府から受けた武家官位ではなく自称であった。にもかかわらず、幕府などもこの自称を認めていた。また足利の名字を名乗らず喜連川を称した。 以後の将軍も代々喜連川家を重んじ、前田家や越前松平家などと同じ大廊下に伺候席が置かれ(喜連川氏春の頃に柳之間へ配置替え)、享保年間には諸侯扱いとなり、藩庁が喜連川陣屋のまま、石高もさほど変わらないにもかかわ
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