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ブックマーク / sponta.seesaa.net (73)

  • ローマ帝国の滅亡はフラットから…。: スポンタのポストモダンから見た『この世界』

    読みたい記事へジャンプ! ↓ おすすめ記事リンク(23) ドラマ&映画の評価(425) 公開メール(76) ドラマ・映画・演技(247) 芸術論(96) 音楽(106) スポンタ 論(独自論・存在論・ポストモダン)(455) スポンタと娘…。(子育て論)(599) ネットウォッチ(904) メディアウォッチ(1141) リアルウォッチ(240) アルゴリズムの時代(105) 「サイバージャーナリズム論」(ソフトバンク新書)(23) 集合的コミュニケーション論(30) ウェブメソード(105) 小説・先祖供養(99) グーグルの終わり(3) ポストグーグル(56) 形式知化宣言(4) この国のかたち(15)

    riywo
    riywo 2008/01/07
    あの結論は妥当だと思う。フラットになること相対化することは大事だが、その結論やその先まで含めて考えないといけない。格差があっても自力で変えられるならそれはいい世界。
  • ケータイ小説とは民間伝承・都市伝説のメディア化である。: スポンタのポストモダンから見た『この世界』

    倫敦橋さんが、ケータイ小説は、チェーンメイルだと指摘している。 http://d.hatena.ne.jp/LondonBridge/20080105/1199478128 ☆ 倫敦橋さんは、作家の猪瀬直樹氏のブログを紹介してもいる。 http://www.nikkeibp.co.jp/style/biz/inose/071211_20th/index5.html 猪瀬氏は、明治時代の女学生と帝大生を関連付けているようだが、私はそれに組しない。 * ケータイ小説とは、消費財である。 コモディティー化(一般消費財化)した商品・商材である。 それが、陳腐な設定であるのも、コモディティーな特徴であり、実際に起きたことをにおわせるのも同様である。 考えてみれば、SFやファンタジー小説と違い、小説のほとんどは作家人に実際に起きたことである。 * 何故、ケータイ小説がそうであると言い切れるかとい

    riywo
    riywo 2008/01/05
    そんな感じかな。多分娘さんが恋空を読んだ理由の一つはみんな読んでるからというアレだろうし、所詮ケータイ小説の価値はそんなもの。でもだからこそ大ヒットするんだろう。
  • 放送と通信の融合は、ワンゲームの長さに影響される。: スポンタのポストモダンから見た『この世界』

    放送と通信の融合は不特定多数発信と特定複数発信の違いであると、昨年秋から指摘してきた。 つまり、ブロードキャストとマルチキャスト。そして、ビデオオンデマンドはユニキャスト(特定単発信)。 だが、年末、衛星放送のコンセプトを考えていたら、いままでとは違うコンセプトに気づいた。 ☆ いままで市井の言論をオーソライズすることを考えていた。オーソライズすることによってメディアにアップされる。それが実効的であり、そういうツールをつくることが、スポンタがなすべきことだと感じていた。 だが、よくよく考えてみれば、集合知にオーソライズは必要がない。 たとえば、「狼が来た」と言いつづけた為に信頼されなくなった少年の話がある。あの話において、だれも「狼が来た」ことをオーソライズしなかった。そこに問題があったといえば問題があったのだが、オーソライズされる権力がなくとも、「狼が来た」というのが誤報であったことは巷

    riywo
    riywo 2008/01/04
    今まではタイムラグで儲けようとしたり、自分の価値を高めていた人が多かったけど、それが意味を成さなくなるというのはかなりのパラダイムシフトだということにみんな気づくべき。
  • マルチメディアの時代は、地上波テレビをトレイラー化した。: スポンタのポストモダンから見た『この世界』

    いまのテレビ(地上波)は、トレイラー(予告編)であり、インデックスなのだ。そのことをテレビマンたちも心得ているから、CMまたぎの手法が多用される。 そして、私たちが編だと思っているものさえ、それは予告編である。 理解できるだろうか。テレビ番組の多く、連続ドラマ、そして殆どのアニメ番組は、今後発売されるDVDパッケージの全編・ノーカットの予告編なのだ。 そして、お笑い芸人の三村氏は、ゴールデンは深夜番組の番組宣伝だと言い切った。 ☆ 私はあるプロダクションでディレクターをしたが、その番組の制作費を出資するのは、セルDVDの販売元である。テレビ局は番組の内容が放送法にふれないかを気にするだけだから、私は、セルDVD販売会社のプロデューサーと、プロダクションのプロデューサーの意向を気にしながら番組をつくることになる。 * もっと複雑な場合。サーカスを大々的にプロモーションするテレビ局がある。そ

    riywo
    riywo 2008/01/02
    じゃあ中にいる人はどうすればいいんだ?別にトレイラーでいいと思う。もっと明示的に上手くお金をクリエイタに回さないとダメなんだよね。
  • 霊感商法がなくならない訳。「神世界」に思う。: スポンタのポストモダンから見た『この世界』

    神奈川県警の警部が関連して、霊感商法が話題になっている。私が観た、ニュース系ワイドショーでは、霊感的行為の全てを一切否定して詐欺であると断言している。 私は、このような妥当性の低いマスコミの指摘が、問題を根絶やしにしないのだ。と、感じてやまない。 ☆ イギリスのある統計は性不同一障害者は、人口の3.5%という数字を出している。これは男性の場合で、女性の場合はその半分だという。私の感覚では、その程度の割合で霊感を持っている人がいる。と漠然に感じている。私には一切の霊感はないが、たまたまひねったチャンネルに知り合いが出ているなどどいうセレンビテティーな出来事はある。には霊感があるが、彼女の友達にも霊感を持つ人がいる。私の知人の奥さんにも霊感を持っている人がいる。そのようなことを考えると、性不同一者よりも、かなり高い割合で、霊感のある人は存在していると創造できる。そして、女性の場合は、かなりの

    riywo
    riywo 2007/12/27
    霊感はどうか知らないけど、感性的なものを切り捨て続けた近代科学は問題だろう。マスコミは散々霊感とかで煽るくせに事件になると手のひら返す。江原も逮捕しろ。
  • ウェブは、オルタナティブメディアではない。: スポンタのポストモダンから見た『この世界』

    そのことを今一度説明したい。 明治政府は、政令などでチョンマゲを禁止し洋装をすすめたが、庶民の間で普及したのは、白木屋の火事や関東大震災がきっかけだった。この場合、世の中の大半の人が洋装で出歩くようになった。これはオルタナティブな変化である。 平成の世の中であっても、武術家・甲野善紀氏は和装に袴・帯刀である。そして、磯野フネ氏は和服に割烹着を着ているが、それがオルタナティブ性を汚すことにはならぬ。 だが、自動車はどうだろうか。自動車の時代がやってきたが、人々は歩いている。電車にものる。飛行機にもなる。自転車にも乗る。つまり、自動車の時代がやってくることによって、人の乗り物は多様化した。その中で人力車はすたれた。とはいえ、完全になくなったわけではなく、相対化されただけ、観光地など最適な環境で運用されている。 これが相対化の世界である。 ☆ ウェブがオルタナティブメディアでないことと同様に、新

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    riywo 2007/12/27
    相変わらず例えが上手い。相対化とはこういうことというのがよく分かる。今の新聞は何かを見誤っている気がする。ある意味スポーツ紙の方が割り切ってて潔い。
  • 純粋・坂村健批判。産経新聞・正論の愚。「ウェブはオルタナティブメディアではない。新聞はなくならない」。: スポンタのポストモダンから見た『この世界』

    私の上司が産経新聞の正論を読め。と、私に差し出した。コラムのタイトルは、「新聞界の常識が崩れ去った」というものである。 新聞の世界だけしか知らなければ、坂村氏の意見はしごくまっとうに見える。だが、読者はそのように理解しないだろう。なぜなら、トロンの推進者として坂村氏は高名であり、それは彼がITの専門家として新聞を論じることになるからである。 坂村氏の論は2000年以前の論理であり、それを2007年の今、彼が提出することは、彼の不明ばかりか産経新聞の不明も印象づける。 私のブログの読者であれば、またか…。と、飽きられるのかもしれぬが、年初夏の日新聞労働組合連合のシンポジウム以降、私の読者に成られた方もいるだろうから、再度、綴ることにする。 ☆ 坂村氏は、「新聞界の常識が崩れ去った」とのタイトルを提出する。だが、新聞界の常識は崩れ去ってはいない。新聞という権威がウェブの登場によって相対化さ

    riywo
    riywo 2007/12/22
    便器の例えは分かりやすい。物事、二択ではなく、相対化する方向へ向かって行ってるんだな。その時、晒された経験のない連中はただおろおろして、権威にすがって腐っていく。
  • プロレタリア文学を2007年の中学生に教える日本の教育ってどうよ。: スポンタのポストモダンから見た『この世界』

    KYではない。PKが何の略か。といえば、「パンツい込む」の略で中学校のクラスで流行っているのだという。(笑)わが娘は、カツーンが好きで、テレビドラマが好きで、「恋空」をクラスて廻し読みしている中学一年生女子。 そんな彼女が、国語で低迷している。面白くない。と言う。そこで私も教科書を読んでみた。たしかに面白くない。 ここに、学校図書・中学校国語1の110ページに載っている詩を紹介する。作者は、1926年の生まれだという。 奈々子に  吉野弘 赤い林檎の頬をして眠っている 奈々子 お前のお母さんの頬の赤さは そっくり奈々子の頬に行ってしまって ひところのお母さんのつややかな頬は少し青ざめた お父さんにも ちょっと 酸っぱい思いが増えた。 唐突だが 奈々子 お父さんは お前に多くを期待しないだろう。 ひとが ほかからの期待に応えようとして どんなに 自分を駄目にしてしまうか お父さんは はっき

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    riywo 2007/12/19
    学校の国語ももっと新しい作品をどんどん入れていけばいいのに。その上で、これをきちんと理解するには太宰を読まなきゃいけないんだ、とかでその後やればいいのに。
  • SNSとは、一神教的ウェブ時代の終焉のエピソードである。: スポンタのポストモダンから見た『この世界』

    理解してもらえるだろうか。 平等という概念は、終戦後アメリカからやってきた概念なのだ。 平等とは単一概念で個を縛ることであり、そこにこそ格差が生まれるのだ。 SNSとはウェブ全体という母集合の中に部分集合をつくることであり、ウェブの中に母集合とは別の規範で運営されるセグメントをつくること。 いままで、ウェブはフラットな概念に牛耳られていたから、格差が生まれる。 だが、今後のウェブは複雑化するから、格差などという単一な尺度で評価することが無価値になってくる。 複雑系:complexityなどという語が流行るのも、実は、価値観の細分化に抵抗する一神教的伝統ではないだろうか…。 * トーマス・フリードマンが「フラット化する世界」を書いた。それを評価する人達が欧米にいるのはいい。だが、多神教的文化の中にいる日人が、それを評価する時代は終わりつつある。もし、フラットを奉じる日人の多くは、学校で勉

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    riywo 2007/12/18
    僕はまだ学校で教えられたことから抜けきれていない。コミュニティが分裂する部分には同意。世界統一共和国みたいな構想は絶対に実現しない。
  • マクルーハンはウェブに援用できぬ。: スポンタのポストモダンから見た『この世界』

    さて、マクルーハンについて、進歩派のテレビ人はマクルーハンがお好きなようだ。だが、マクルーハンはテレビの援用には役立ったようだが、ウェブにはまったく役に立たぬ。 ☆ 彼は「スマートモブス」を書いたハワード・ラインゴールドや、「フラット化する世界」を書いたトーマス・フリードマンのような俗物ではないが、西欧文化の伝統やアカデミズムのフレームの中で論じるというモラルを崩していない。 とはいえ、彼らを援用する日の人達よりはまし。何故なら、彼らは迎合主義や業界御用達論とは無縁だからだ。日の引用者たちは、自分が黄色い肌をしていることを忘れている浅薄者たちであり、ある意味、一時期流行った渋谷のガングロ娘たちと同じである。 自己のアイデンティティーに自信が持てぬために、他者の容姿を真似てみる。ガングロの汚ギャルたちは、アフロアフリカンの文化であり、それがマニエリスム的な変容をして定着した。それと、彼ら

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    riywo 2007/12/13
    マクルーハンを知らないので分からん。ただ、僕も活字だけでなく、五感を使ったコミュニケーションには興味がある。電話も視覚が欠けるから苦手なんだなぁ。
  • アルファとは…。ブログスフィアとは…。: スポンタのポストモダンから見た『この世界』

    さて、昨年末はけろやんさんに「あなたをアルファブロガーに推薦する」と言われて嬉しかったが、今年のアルファブロガーのリストを見ていても、「ふうん…」という感じ。 天漢日乗さんや、新小児科医のつぶやきさん、ザイーガさんなど素晴らしいブロガーも存在するが、それ以外はどうなんだろう。 結局のところ、アルファという冠が、既存メディアからの侮蔑感の表現であることを理解しなければならぬ。 そして、アルファという概念は、ブログスフィアを正確に定義している。 ☆ ・上野動物園のサル山のボス猿は、実はボスではなく、アルファにすぎなかった。 ・犬はアルファ感を挫折させてやらなければ、飼い主に従わないし、それは犬そのものの感情を不安にする。 アルファとはそういうことである。 単に、ギリシャ語のABCのAという意味ではない。オウム真理教の後継団体がアーレフと名づけられたのとは違うのだ。否、オウム真理教がアーレフと名

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    riywo 2007/12/11
    アルファ感がよく分からない。自己中みたいなものなのか。だとすればアルファブロガは自己中を発揮するブロガ?それの何が悪いんだろう?というかそうでなきゃ意味無いじゃん。
  • 集合的コミュニケーション論02:2007年的考察。: スポンタのポストモダンから見た『この世界』

    なかなかブログの更新がすすまない。 その理由は、を読んでいるからである。司馬遼太郎の「竜馬が行く」と、ヘレン・ミアーズの「アメリカの鏡・日」と、マクルーハンをチャンポンに同時進行で読んでいる。 とはいえ、インプットとアウトプットは同時にしなければならぬ。その意味で、スポンタ的なアウトプットは継続しなければならぬ。 竜馬的にいえば、既存の概念を乗り越えるための言論活動をせい。ヘレン・ミアーズ的にいえば、日文化を正統に勘案すべきであり、江戸期に270年の平和な時代をつくった日の特質を勘案しなければならぬ。そして、マクルーハンは、個のインテグレートを想定していたのか…。 ま、結論はでないが、私の集合的コミュニケーション論をつづけることにする。 ☆ 【集合的コミュニケーション論】 上図を見て欲しい。 この図がすべてを語ってくれるので、私は多くを語らない。 たかだか個(Atom)が11個でか

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    riywo 2007/12/11
    誰がインターネットを管理しているわけでもない。それを分かっていない人が多いんだろうな。コミュニティ論への移行については実に明快な説明がされている。
  • ネタ共振: スポンタのポストモダンから見た『この世界』

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    riywo
    riywo 2007/12/07
    その通りだと思う。ネタで一瞬の満足を得るのは勝手だが、それは一瞬で終わる。でもそれで満足している人があまりにも多すぎる。考える人が減っている。どうしたものか。