という酷いタイトルを補うまともな内容の文章が書ければいいのだが、いま絶対に無理。 合法性が正当性を虐殺するとき 『情況』2006年1・2月号, 情況出版(p.81〜93) 永野潤 http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/6142/ronbun/gohosei.html 一読し、およその理解もしたつもりだが、サルトルが有効だったヨーロッパでは、その「サルトル」を許容するベースとしての契約社会観があったからこそだろうと思い、その割にヨーロッパにおいてサルトルに学術的評価はないというお決まりの文句を思い出しもした。 翻って日本はというと、そもそも「サルトル」を許容するベースとなるはずの社会が根底から存在しないにも関わらず、大学なり文学なりの世界では、時に時代遅れの代名詞ともなりながらも高い評価を保っているようだ。 なんの冗談だこの状況は。 選挙=投票行為が、
変わらない米メディアのイスラエル擁護報道 (金平茂紀) http://www.the-journal.jp/contents/ny_kanehira/2009/01/post_1.html まず最初にズバリ言っておきますが、アメリカのブルジョア新聞のレベルは、信じられないくらい高いです。 たとえばニューヨークタイムズを、朝日新聞の英語版、みたいにイメージしてはいけません。 たとえて言うならば、スープヌードルとラーメン二郎、くらいの違いがあります。 おなじ「新聞」というカテゴリーに分類すること自体、ためらわれるほどです。 さて、金平さん。 ふむふむ。ニューヨークタイムズがひどいんだね。 そらあ、ひどいさ、ブル新だもの。 けどね、じゃあ問いたい。 なんであなたごときに、ひどいということが見抜けてしまうの? 社説の言葉尻をとらえてる場合じゃないですよ。 記事を読んでください記事を。 素直に読めば
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く