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ブックマーク / araiken1964.blog124.fc2.com (13)

  • 物として残されたもの - 泥沼通信

    人間文化には、根源の時代から、儀式があり、祭りがあった。そこには歌もあれば踊りもある。事も、性の営みも、労働も、戦争も、その他もろもろの行為があった。そのどれが重く、どれが軽いとはいえない。全体がからみあって生活のシスティム、1つの有機体となっている。物として残されたもの、色とか形は、その生きた全体の一部であったのだ。 熱く純粋に、人間の生命とともにふきあがった叫び、歌、踊りは、瞬間に消え去ってしまう。ものも滅びる。だが消えなかったのは、たまたま石で作られた道具、造形だった。考古学はそれらを体系づけ、この極めて古い文化を「石器時代」と名づけた。 だがそれは、いわば骨だ。それよりもそれを覆う肉体の方の神秘を、なんと呼んだらいいのか。……私か抵抗したくなるのは、この固い冷たい石、生活のごく一部だけを拠りどころにして、形骸をずらっと並べたて── まさに博物館の陳列棚の味気なさだ。── それで人

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    sarutora 2015/07/21
    「芸術」=実践的惰性態
  • 亡霊退治1 フランシス・ベーコン - 泥沼通信

    仕事をするときは寂しいので深夜放送を聞きながらやってることが多い。だいぶ前のことだが爆笑問題の番組を聞いていると、インテリ肌の太田君がエコール・ド・パリの日人画家、藤田嗣治のことを熱く語っていた。エコール・ド・パリのようなおしゃれで趣味的な絵画にはまるで興味のない私は、話を聞きながら……フジタ? 所詮お笑い芸人の趣味はその程度なんだな……とひとり鼻で笑った。ところがその何ヶ月だか何年あとだか忘れたが、同じ番組で太田君が今度はフランシス・ベーコンの名前を挙げて絶賛していた。まあフジタはともかくフランシス・ベーコンあたりを持ち出してくれば、オヤッ、なかなかできるな……と思う人も多いに違いない。 最近のことだが、書店でベーコンの画集が何冊か売られていて、自分が画学生の頃にはベーコンの画集なんてなかったよなあ……なんて思いながら手にとってよく見てみると、画集の帯に浅田彰氏による推薦文が印刷され

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    sarutora 2013/03/08
    ベーコン展やってるみたいなので亡霊祓い
  • 芸術(アート)への斥力 - 泥沼通信

    イルコモンズ氏のサイトから引っ張ってきた白川昌生氏という人の文章を読んでみる。非常に近い立場にあるせいか、何の抵抗もなくスッと自分の中に入ってきて「そうそう,その通り!」と肯きたくなる。、、、にもかかわらず、同時に自分の中の能が、「何かが違う!」「ここには何かが足りない!」とザワザワと騒ぎ始めるのだ。結論から言ってしまうと、芸術(アート)という手続きに対する距離感、というか斥力がここにはあまり感じられない。つまり、資主義(スペクタクル社会)に抗するということの中には、(抵抗を懐柔する装置である)アートを脱構築する実践の契機が含まれていなければならないと思うのだが、それがどうもここには感じられないのである。 「イルコモンズ氏のインタヴュー記事(「〈帝国〉のアートと新しい反資主義の表現者たち」)に刺激を受け、私は疑問を持ったり考えたりしながらここまで書いてきた。イルコモンズ氏自身は、現在

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    sarutora 2010/09/04
    >アート(芸術)とアクティヴィズム(政治)の間の異種交配→従来の芸術と政治を加算的にノリで貼りあわせたようなものではない「何か」/アートがデモ行進のチンドン屋的な装飾を行うようになった、ということでは
  • アートシーンではなく<文化>を! - 泥沼通信

    VOL 3号に『 ポスト・ノー・フューチャーにとって政治とはなにか──シーンなきアートの現場から (by 工藤キキ)』というインタビューが掲載されている。工藤キキさんという人については全く知らないのだが、このような雑誌に載っていることからみて、左翼系の人たちと何かつながりがあるのだろう。しかしこのインタビューの内容は、アンチ・キャピタルなVOLの編集方針と大きく隔たっており、第3号のテーマとされている「アートとアクティヴィズムのあいだ」という問題に対する混乱と無理解を象徴しているものではないかと思う。 このインタビューで工藤氏は会田誠(参考)、岩愛子(参考)、Chim↑Pom(参考1,2)などのアーティストを例にとりながら、日の新しいアートムーブメントの政治性ついて語っている。その特徴として、「虐げられているという前提からの抵抗」のようにリアクティヴなものではないことや、特定の表現メデ

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    sarutora 2010/08/29
    >このアートへの距離感、アートの脱構築という契機の有無が、アートとアクティヴィズムのあわいに生息する前衛と亡霊を見分けるメルクマールなのである。この辺の事情を左翼の知識人たちもけっこうわかっていない
  • 芸術の脱構築(書きかけ) - 泥沼通信

    われわれが力を尽くすことを望むのは、世界の終焉のペクタクルのためではなく、スペクタクルの世界の終焉のためなのである。  『芸術の消滅の意味』(アンテルナシオナル・シチュアシオニスト第3号) 問題は、拒否のスペクタクルを作り上げることではなく、スペクタクルを拒否することにばかならない。スペクタクルを破壊する諸要素が、SIの定義した新しい真正な意味で芸術的に練り上げられるためには、それら諸要素はまさしく芸術作品たることをやめねばならない。シチュアシオニスムなるものも、シチュアシオニスト的芸術作品なるものも存在しない。ましてや、スペクタクル的シチュアシオニストなど存在しない。断じて否である。(イェーテボリでのSI第5回大会におけるラウル・ヴァネーゲムによる基調報告) このシチュアシオニストと芸術の関係を語った言葉は、シチュアシオニストを評価し、インスパイアされた人にもけっこう理解されていないんじ

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    sarutora 2010/06/25
    彼らの関心の中心は、個々の芸術作品が体制迎合的であるからダメだとか、批判的だからいい、といったことではなく、「芸術」という土俵そのものを解体すること、すなわち「芸術」を脱構築することであったと思われる
  • 反教育(反権力)についてのメモ - 泥沼通信

    教育(反権力)は、現在における実践(学校的なものに内在する垂直的な権力の作用に対して、水平的な交流を対置すること)としてしかありえない。それは現在の瞬間において問題の回答を与えようとするものであって、将来における教育制度(権力装置)の構想とは、似たもののようでありながら、全く異質な活動である。反教育の実践の傍ら、将来の教育制度を構想することは可能だが、同時的にそれらを追求することはできない。もちろん将来の社会のあり方を構想することは必要であり、その試みは最大限尊重されねばならない。が、ラディカル(反教育)が選択するのは、(将来のある時点においてではなく)いまここで、現行の教育(権力)に対する不服従を、自分自身の生を実験台にして貫くことにある。これは何にもまして現在の生を意義あるものならしめたいという要請に基づいているが、結果的にある効果を未来に対して持つことになるだろう。つまり私たちは、

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    sarutora 2009/06/13
  • ラディカルとは何か - 泥沼通信

    ちょっとわけあって、mojimojiさんと常野さんの一連の古い議論を読ませてもらいました。 mojimojiさんの1,2,3,4,5と、常野さんのこれ、など。 これは常野さんの学校廃棄論に対して、学校の廃棄後の具体的な構想=対案がないことをmojimojiさんが批判するという内容のものです。ザッと読んだ印象ではmojimojiさんの主張のブレのなさが際立っていて説得的に感じたのですが、どうも何かすっきりしない。それはmojimojiさんがラディカルをずいぶん過少評価しているのが面白くないのと(私もラディカルの端くれのつもりなので)、猿虎さんも言っているように、どうもお二人の話がかみ合ってない感じが最後まで抜けなかったからでしょう。そこで、何がどうかみ合っていないのかを足りない頭で思案してみました。 コメント欄などで反学校派の人たちの反感を買っているようですが、mojimojiさんによる学校

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    sarutora 2009/06/11
  • รถไฟฟ้ากรุงเทพฯ - 泥沼通信

    バンコクでは現在、高架鉄道(BTS) と地下鉄(MRT) 、二つの鉄道が運営されている。自動車渋滞の街バンコクの交通の救世主として登場したこれらの鉄道の設備は非常に立派なもので、各駅に車椅子用のスロープやエレベーターなどが設置されたユニヴァーサル・デザイン設計の最新式の都市交通システムである。私もこれらの鉄道を通勤に利用してはや2年になる。運賃はやや高めだが渋滞に煩わされることなく快適に通勤している。 しかし考えてみると、この車椅子用の立派な設備を使っている障害者をこの2年の間一度も見たことがない。日でならわりとカジュアルに見ることのできる光景だと思うのだが、バンコクではまったくと言っていいほど見ることがないのである。 それもそのはずなのだ。駅を出てスロープを降りると、もうそこは凸凹の歩道、、、敷石はめくれ上がり、とこどころ地盤が沈下して穴が開き、車道から20センチの段差があって、車椅子

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    sarutora 2009/04/09
    タイの駅の車椅子用の施設がトマソン化しているがその「滑稽さは、タイ人の間抜けさを表現しているというよりも、政治権力が民衆のニーズを掬い上げず、乖離してしまっているということを表現している」
  • 無冠の帝王 - 泥沼通信

    二十代のはじめ頃、私はアバンギャルド的問題意識の中で、かなりマジ芸術していた (抽象画を描いていた)ことがあった。しかし瞬く間に芸術の枠組みに飽き足らなくなり、絵筆を捨ててしまった。ようするに平井玄氏が言うところの「シュルレアリスムの屍体処理 」の問題に私もぶち当たっていのだ。そんなわけだからシチュアシオニストのこのような言葉に共感したし、いまだにその通りだと思う。 新たな文化の主要な性格はいかなるものであるべきか。まず何より、旧い芸術と比較して、それはいかなるものであるべきか。 スペクタクルに抗し、実現されたシチュアシオニスト的文化は全面的な参加へに道を開く。 保存された芸術に抗し、シチュアシオニスト的文化は、直接的に生きられる時間の組織化である。 細分化された芸術に抗し、シチュアシオニスト的文化は、利用可能なあらゆるる要素に同時に向けられたグローバルな実践である。それは集合的で、匿名的

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    sarutora 2009/01/18
    >人類の未来を見据える新しい文化の生産者はみな、そのようなものさしを踏みつける(システムに安住した人々の誤解にさらされた)無冠の帝王であるべきだろう
  • 現象学的還元についてのメモ その2 - 泥沼通信

    インターネットというものはありがたいもので、読みたいが手に入らない環境でも探せば面白いものを引っ張り出してこれるものだ。前回、現象学的還元について、『(先入見を露呈させる)還元行為は、<自分がありうるであろうもの=外部>のパースペクティヴを持つことと同時的に行われるのではないかと私は思う。そのような外部のパースペクティヴ(価値)がなければ、<負わされた条件づけ>への没入から距離を取れるとは思えない。』と書いた。つまりこれは「還元の動機」の問題として、レヴィナスが、フッサールら現象学の先輩方においてほとんど考究されていないと指摘し、批判するところである。 そこらへんの事情を、ネットで釣れた以下のありがたいテクストに学ばせてもらった。とくに読んで唸った部分をメモっておく。 3、c 自由の出処 自然的態度が一つの完全に自足した態度であったことに鑑みるなら、還元とはこうした自足の根底的な問い直し

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    sarutora 2008/12/31
    >ウチダージュには「外部」への視線がない、と。すくなくとも彼の書いたものにそのような「外部」への裂け目すら見つけることができない。師匠のほうは、「外部」によって<同>すなわち「内部」が問い直されることを倫理だと言っているってのに
  • 相変わらずの「臭い」パフォーマンスだぜ! - 泥沼通信

    常野さんのパフォーマンス が、売名行為やアクセス稼ぎだけのためになされたとか、軽率でおとなげない無意味な煽りにすぎない みたいな言われ方をけっこうしている。こういうお騒がせでスキャンダラスなパフォーマンスは、ダダやシュルレアリスムの時代から白い目で眺められてきたものだ。確かに人間が承認を求めるものであるならば、名前も売りたいだろうし、戦略的にアクセス増大を狙っていたということもあったわけだろう。が、もちろんそれだけが目的ではないのは、どう見ても明らかでしょ、これ。講義に潜入しようとしたことも、報告を読む限りかなりへっぴり腰感があふれていて、想像するにかなり無理してると思いますよ、常野さんは。 日思想界のビックネーム、イースト先生 の講義に、誘いに乗ってマジに乗り込もうという魅力的なアイディアを思いついたものの、けっこう逡巡したんじゃないだろうか。こんなことわざわざおっぱじめる必要があるん

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    sarutora 2008/12/21
  • タイのハーバーマスと貧困の文化 - 泥沼通信

    ずいぶん以前のことだが、今村仁司の『タイで考える』というを読んだことがある。ぶっちゃけタイに関しては私のほうがよっぽど通なのではと思ったし、今村さんのはもっと硬いもののほうが面白いなという感じで、内容についてはあんまり印象に残ってないのだが、いまだにひとつのエピソードだけが記憶を離れずにいる。 今村さんがタイの大学で現代思想の講義をしたとき、通訳をしてくれた学生が、あとで今村さんに「なぜ今日はハーバーマスについてお話にならなかったのですか?」と質問したというのである。 おお!そうなんだ……タイにもインテリの学生がいるんだ……、と私はちょっと驚いた。その学生がハーバーマスにどんな問題意識を持っていたのかはどうでもいい。とにかく英語での哲学の講義をタイ語に通訳し、私も読んだことのない思想家について語れるインテリ学生がタイにもいるということらしいのだ。。。 考えてみると、私がいままでタイで知

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    sarutora 2008/12/16
  • 祭りの戦士 @ กรุงเทพฯ マジシャン

    じつは最近、レヴィナスなどを読みかじり始めているせいで、しばらく見ないようにしていた内田樹先生の名前に再会する機会が多くなった。で、ついこの古いエントリー に行き着いて、(よせばいいのに)読んでしまった。怒り爆発のブックマーク などもくっついていて、相変わらずなんですね。反論は懐かしの同志kingさん の書いたもので言い尽くされているので(もう、痛快!)必要もないのだろうが、なんとも言えぬ居心地悪い読後感が残っている。というのは、「わからないね」をはじめとする哀れむべき言葉を読まされたからという理由だけではなく、この先生の言ってることが私がしてきた主張に妙に似ているからなのだ。私の書いたものを批判する人なんかに、「ほら、お前などウチダと同じポストモダン系保守なんだよ」とでも言われてしまいそうな内容なのである。だから厄払いだけはしておこうと思う。 好意的にとれば先生の言ってることは、人の意識

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    sarutora 2008/12/02
    >ところが先生のなさっていることは、不可解な詭弁(トリック)を操り、社会の条件な不正を放置し、相も変わらず何者かを貶めることによって、自己を浄化すること。
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