日本語の意外な歴史 これまで知られてこなかった日本語の起源、日本語の歴史について語っていきます。私たちが使っている言葉には、驚くべき人類の軌跡が隠されています。本ブログのトップページの一番目の記事は固定されており、その後に新しい記事が並んでいます。 卑弥呼と邪馬台国のことは、中国の歴史書には書かれているのに、日本の歴史書(「古事記」と「日本書紀」)には書かれていないと述べました。しかし、日本の歴史書にも、怪しげな記述はあるのです。 前回の記事でお話ししたようにより複雑な成立事情を持つ古事記はひとまず脇に置いておき、ここでは日本書紀を見ることにします。日本書紀は、神代(歴代の天皇に先立つ神々の時代)の話がはじめにあり、そこから○○天皇の話、○○天皇の話、○○天皇の話・・・というふうに展開していきます。このように神代の話の後は歴代の天皇の話が続いていくのですが、そこに一人だけ天皇でない人物がい
国内最大の円墳で、東アジア最大の蛇行剣(だこうけん)が見つかった奈良市の富雄丸山古墳(直径109メートル、4世紀後半)で、中国・前漢時代(紀元前1世紀末~紀元1世紀初め)の龍などをモチーフにした国内最大の虺龍文鏡(きりゅうもんきょう)が確認され、同市教育委員会と奈良県立橿原考古学研究所(橿考研)が30日、発表した。 前漢時代は日本では弥生時代後期にあたり、同古墳より400年もさかのぼることが判明。入手の経緯とともに、ヤマト王権の支配体制を考える上で重要な資料という。 墳丘から張り出した「造り出し」にある埋葬施設「粘土槨(ねんどかく)」の木棺から昨年2月に出土。3枚とも文様を裏にして重ねた状態で副葬されていた。橿考研でクリーニング処置が行われ、銅鏡の一種である虺龍文鏡と特定された。 富雄丸山古墳から発掘された(左から)画像鏡、虺龍文鏡(きりゅうもんきょう)、三角縁神獣鏡=30日、奈良県橿原市
Diego Delgado @ FF14 @DiegoDelgadoDur 邪馬台国の卑弥呼は低気圧で体やられる人だったという説があり、 「アカンわらわ超しんどい無理これは雨来る皆のもの雨来るぞ恵み来たるぞ」 って言ってるうちに「卑弥呼マジ神」ってなったらしいので、低気圧にやられる人は「ああ…この身に流れる旧き巫女の血が…」って思って欲しい(※一説です) 2024-06-03 12:28:05 Diego Delgado @ FF14 @DiegoDelgadoDur ちなみに卑弥呼は最近の学説では少なくとも80位まで生きていたのではないかとされている この時代にその年まで生きれたってことは、ある程度は最期までみんなに大切にされていたんだろね みんなもちゃんと体いたわれ 下手な民間療法より深く考えずに医者に行け 大切にされろ なるたけ健やかに生きろ 2024-06-03 19:45:11
卑弥呼のペットかもしれない?古墳時代にいたとされる犬の復元模型が完成 2015年、奈良県桜井市の纒向遺跡で犬の骨140点あまりが出土しました。 市の研究センターなどは3Dプリンターを用いて骨のレプリカをつくり、 粘土で肉付けするなどして5年をかけて復元しました。 これは複顔と言う手法で鳥取県では弥生時代の集落跡、 青谷上寺地遺跡から出土した頭蓋骨をもとに、当時の成人女性の顔が復元されています。 犬の「復元模型」は引き締まった口元に凛々しいまなざし。 すらりと伸びた足で佇む茶色い犬。 1800年前の古墳時代にいたとされるものです。 犬、と言うよりは少しオオカミに近い姿のような気がします。 カラーリングは柴犬っぽい。 あるいは紀州犬や甲斐犬のようでもあります。 紀州犬や甲斐犬は「日本犬」とも呼ばれ、 現代の犬の姿のルーツはここにあるのかもしれませんね。 いくつかの説がありますが、 犬は1万50
やわた・かずお/1975年東京大学法学部卒。同年、通商産業省(現・経済産業省)に入省。1980年から1982年までフランス国立行政学院(ENA)留学。国土庁長官官房参事官、通産省大臣官房情報管理課長を歴任後、1997年に退官。現在は徳島文理大学教授を務めるほか、作家、評論家としても活躍。テレビ朝日「朝まで生テレビ」、TBS「サンデーモーニング」など数多くの番組に出演。著書に『世界と日本がわかる最強の世界史』『日本の総理大臣大全』『令和太閤記 寧々の戦国日記』『日本の政治「解体新書」 世襲・反日・宗教・利権、与野党のアキレス腱』『家系図でわかる 日本の上流階級』『世界史が面白くなる首都誕生の謎』『日本人のための日中韓興亡史』『江戸三百藩の通知表』『歴史の定説100の嘘と誤解 世界と日本の常識に挑む』『江戸時代の「不都合すぎる真実」 日本を三流にした徳川の過ち』など。 News&Analysi
奈良県桜井市には、卑弥呼の墓ではないかと言われている「箸墓古墳(大市墓)」があります。 この「箸墓古墳」周辺には、大和の国一ノ宮である「大神神社」や最古の古道といわれる「山の辺の道」もあり、記紀神話の世界が広がっています。 ※大和の国一ノ宮・「大神神社」についてはコチラ☟ www.norikuma2.com www.norikuma2.com 今回はその「箸墓古墳」と、奈良県桜井市の名産物である「三輪そうめん」の名店「三輪山本 お食事処」をご紹介します。 箸墓古墳(大市墓)とは 読んでビックリ「箸墓伝説」 名物「三輪そうめん」の老舗「三輪山本」 箸墓古墳(大市墓)とは 邪馬台国の卑弥呼の墓…ともいわれる「箸墓(はしはか)古墳」。 正式名称は「大市墓(おおいちぼ)」といい、第七代孝霊天皇皇女である倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ)の陵墓とされており、現在は宮内庁の管轄になっています。
天皇や皇族の墓などとして宮内庁が管理する8カ所の陵墓で2018年以降、台風や大雨による倒木で墳丘に穴が開いたり、地中から埴輪(はにわ)が露出したりするなどの被害が相次いでいることが判明した。世界遺産の百舌鳥(もず)・古市(ふるいち)古墳群の構成資産となっている大山(だいせん)古墳(仁徳天皇陵、堺市)や、卑弥呼の墓との説がある奈良県の箸墓(はしはか)古墳(大市墓)も含まれる。宮内庁がこの八つの陵墓を含め、計159カ所を調査したところ、9割以上に当たる145カ所で同様の被害が出る恐れがあり、樹木を伐採するなどの対応が必要なことも明らかになった。 同時公開の関連記事あります ・「卑弥呼の墓」今が一番悪い状態 専門家が断じた5枚の写真の中身 ・陵墓の倒木被害に、動き遅い宮内庁 自治体管理の古墳と対応に差 陵墓8カ所で被害 一級の文化財としての側面を持つ陵墓で樹木管理が大きな課題になっている実態が浮
郵便局立てこもり、ほっとしました。 皆様、ご機嫌いかがでしょうか。 本日は【130】バットを振りました。 小学校からやり直すため、ウィキジュニアで勉強しながら素振りします。 今日は卑弥呼について、 バットを振りました。 ウィキジュニアより引用。 3世紀はじめごろ。邪馬台国やまたいこくの女王です。 当時、中国にあった魏ぎという国に使いを送り、その時に親魏倭王しんぎわおうの称号を与えられたとその国の歴史書(魏志倭人伝ぎしわじんでん)に記されています。 神のおつげやうらないで政治を行ったとされています。 邪馬台国があったと考えられる場所は不明ですが、奈良ならにあったとするものと九州北部にあったとするものの二つの説が有力で論争が続いています。一番古い時代に作られた古墳こふんが、卑弥呼の墓で、奈良に邪馬台国があった場合、箸墓はしはか古墳が卑弥呼の墓ではないか、と考えられています。 10行にして、1行
今回も前回に続き、卑弥呼(ヒミコ)の死の謎について迫っていきます。 予告通り、作家・松本清張氏の「卑弥呼殺害説」への異論として、 保坂俊三氏の意見を参考にしながら、書いていきます。 監修者 kawauso 編集長(石原 昌光) 「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。 コンテンツ制作責任者 おとぼけ(田畑 雄貴) PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後
古代史最大の謎といわれる邪馬台国(やまたいこく)論争。畿内か九州か。魏志倭人伝に記された3世紀の女王・卑弥呼(ひみこ)の都はどこに-。江戸時代の朱子学者・新井白石(あらい・はくせき)以来300年以上にわたって議論されながら、決着していない。畿内説の有力候補地、奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡の研究・情報発信に取り組むのが同市纒向学研究センターだ。寺沢薫所長(72)は今春「卑弥呼とヤマト王権」(中公選書)を刊行。「邪馬台国論争に一つの区切りをつけたい」との思いだった。 「邪馬台国と卑弥呼には近づくな」。考古学の道に進んだ昭和50年代、上司や先輩から厳しく言われた。遺物や遺跡をもとに歴史像を組み立てるのが考古学。魏志倭人伝という文献中心の邪馬台国論争については「口にすることもできなかった」。 卑弥呼は、景初3(239)年に中国・魏に使者を送り、親魏倭王の称号と金印を授かったと魏志倭人伝は記す
こんにちは。コーノヒロです。 今回は、前回の「三種の神器」の秘密の話に続き、ツクヨミの謎についてのお話です。 どうぞお楽しみください。 前回では、三種の神器の一翼を担う、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)は、過去に日本列島に存在していた、二つ王国、つまり、北陸の越王国と古代出雲王国(いずもおうこく)と、その大王であったオオクニヌシを表象するものであるとお伝えしました。 さらに、以前から伝わっているのは、その勾玉(まがたま)は、「記紀(きき)」(古事記・日本書紀)や神話にある、ツクヨミを表しているということでしたね。 そして、ツクヨミ=天皇という図式を 「記紀」の編纂を命じた天武天皇(帝)が作り出したとも言われているのです。 そもそも、天皇即位に三種の神器を必要とする仕来たりを創始したのが、飛鳥時代の天武天皇(帝)とも伝わっていますね。 しかし、ツクヨミの存在感のなさが気になるのです。ツクヨミ
箸墓古墳の航空レーザー測量図。後円部の頂上(中央やや右)に掘り返された跡はみられず、未盗掘の可能性が高まった(奈良県立橿原考古学研究所、アジア航測提供)宮内庁が厳重に管理し、関係者以外は立ち入れない箸墓古墳(奈良県桜井市)。邪馬台国(やまたいこく)の女王・卑弥呼(ひみこ)の墓ともいわれるが、内部の発掘はできず謎のまま。何とかして中の様子を知りたい-。地上が無理なら、空から、宇宙からと新たなアプローチを試みるのが同県立橿原(かしはら)考古学研究所(橿考研)。上空からのレーザー測量では、樹木に覆われて見えない墳丘の姿が明らかになり、石室のある後円部が築造時のままで未盗掘の可能性が高まった。石室については、宇宙から飛来する素粒子「ミューオン」を利用して解明に挑む。果たして宇宙から卑弥呼は見えるだろうか。
国内最大の仁徳天皇陵古墳(手前)。左は国内3番目の履中天皇陵古墳(365メートル)。大阪湾(奥)を望むように築かれた=堺市(本社ヘリから) 日本の国はいつ誕生したのか。古代史最大の謎は「七五三論争」といわれ、研究者の間で議論が分かれる。邪馬台国(やまたいこく)の女王・卑弥呼(ひみこ)が登場した「3世紀」、仁徳天皇陵古墳(墳丘長486メートル、堺市)など巨大前方後円墳が築かれた「5世紀」、法治国家ができた「7世紀」-。この謎を解く鍵が、奈良や大阪に集中する天皇陵クラスの古墳。大きさや形の変遷から、国の姿が浮かび上がる。古墳の新緑もみずみずしい季節。鳥居の設けられた天皇陵を仰ぎ見ると、厳粛な気持ちにさせられる。 卑弥呼と墓ともいわれる箸墓古墳(手前)。すぐ上には宮殿跡が見つかった纒向遺跡が広がる=奈良県桜井市(本社ヘリから) 邪馬台国の有力地、纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)にあり、卑弥呼
邪馬台国はどこにあったのか? この難問を考える手がかりは遺跡・出土品や『魏志倭人伝』の記述などさまざまですが、どれも決め手を欠いている状況です。そこで一つ、検討してみたいのが、中国大陸との交易路です。 女王・卑弥呼は国づくりのため積極的に大陸に船を出し、有用な物資や技術を導入していました。しかし、朝鮮半島から対馬海峡を横断して日本に帰る航海は至難の業で、現代人による実験航海でもほとんどが失敗しているのです。 なぜ卑弥呼の船は戻れたのか? 船舶設計のプロフェッショナルであり、このほど『日本史サイエンス〈弐〉』を上梓した播田安弘氏の仮説から、邪馬台国への意外なルートが見えてきました。 「卑弥呼の船」を考える弥生時代の日本で邪馬台国が最大の国として発展したのは、女王・卑弥呼が中国大陸と活発に交流し、先進的な文化や技術を導入したからと考えられます。そのためには船が必要です。卑弥呼はいったいどのよう
以前の記事で、邪馬台国(やまたいこく)の卑弥呼(ひみこ)政権の時代は、倭国は分裂し、倭国大乱は続いていたかもしれないとお話しましたね。今回は、その根拠について、お話していきます。どうぞお付き合いください。邪馬台国の前身の国が、出雲王国(いずもおうこく)で、その領土を丸々受け継いだという話なら、西日本と、東海、北陸から信州までの東日本が、邪馬台国の領土、否、より正確に言えば、邪馬台国広域連合の領土として獲得していたはずです。 しかし、 邪馬台国(やまたいこく) 諸国連合 (西軍) VS 狗奴国 (くなこく)(東軍)と、他諸勢力の同盟 という構図だったのなら、倭国大乱 は継続したのか?!と当然考えられる訳です。 監修者 kawauso 編集長(石原 昌光) 「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャン
黒塚古墳で出土した卑弥呼の鏡ともいわれる三角縁神獣鏡。中央の丸いつまみが鈕=平成10年1月、奈良県天理市「フィールド(遺跡)を大事にし、愚直に発掘を続けてきたのが阪大考古学」。古墳研究の第一人者、大阪大大学院人文学研究科の福永伸哉(しんや)教授(65)が昨年度で定年退職し、3月下旬に開かれた最終講義では、発掘現場で土を見ることの大切さを説いた。倭国の女王・卑弥呼の鏡ともいわれる三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)の分析など、学界が注目する数々の研究成果の裏には、現場で培った土台があった。 「地中にある土器や遺構を自分たちで掘り出して考える。研究の原点は発掘。だからこそ阪大は毎年発掘を続けている」。最終講義で繰り返し語った。 三角縁神獣鏡の「穴」発掘現場での経験、出土遺物の丹念な観察によって重要な研究に結びついたのが、三角縁神獣鏡だった。 三角縁神獣鏡をめぐっては、魏志倭人伝の記述を
こんにちは。夢中図書館へようこそ! 館長のふゆきです。 今日の夢中は、歴史人「古代史研究最前線」!卑弥呼は誰?邪馬台国はどこにあった?です。 「夢中図書館 読書館」は、小説や雑誌などの感想や読みどころを綴る読書ブログです。あなたのお気に入りの一冊を見つけてみませんか? ■歴史人 いつも歴史ファンにたまらない情報を届けてくれる「歴史人」。 2023年10月号でとりあげるのは、日本という国のカタチをつくり上げた時代…古代史です。 特集名は、「古代史研究最前線」。 「令和の定説はコレだ!」と関する保存版特集です。 歴史人2023年10月号 表紙には、古代史にまつわる多くの「なぜ?」が記されています。 聖徳太子のなぜ?「古事記」と「日本書紀」のなぜ?卑弥呼の正体が判明?天皇陵のなぜ?邪馬台国の畿内説と九州説がついに決着?などなど。 どれもこれも興味を引かれる「なぜ?」ですよね…。 頁をめくると誌面
こんばんは!たかぼんブログドットコムのたかぼんです。 今回の記事は『第8代孝元天皇の妹が邪馬台国の卑弥呼で、弟が桃太郎だった!』のお話です。 本当に第8代孝元(こうげん)天皇の妹が卑弥呼で、弟が桃太郎だったのでしょうか? 孝元天皇は統治王で、卑弥呼が祭祀王だったので、当時の日本は統治王よりも祭祀王の方が位が上だったので、卑弥呼が日本で一番偉い存在だったのです。 だから魏(ぎ)の国(当時の中国)では、歴史書である三国志(さんごくし)・魏書(ぎしょ)・第30巻 烏丸鮮卑東夷伝 ( うがんせんびとういでん )・倭人条(わじんのじょう)(通称、魏志倭人伝(ぎしわじんでん))で、卑弥呼が女王だと言っていたのです。 そして第5代孝昭天皇・第6代孝安天皇・第7代孝霊天皇・第8代孝元天皇の時期に大和王権は吉備の国(今の岡山県あたり)と戦争をしていたのです。これが魏志倭人伝でいう倭国大乱ということです。 倭
古代史最大の謎といわれる邪馬台国(やまたいこく)論争。畿内か九州か。魏志倭人伝に記された3世紀の女王・卑弥呼(ひみこ)の都はどこに-。江戸時代の朱子学者・新井白石(あらい・はくせき)以来300年以上にわたって議論されながら、決着していない。畿内説の有力候補地、奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡の研究・情報発信に取り組むのが同市纒向学研究センターだ。寺沢薫所長(72)は今春「卑弥呼とヤマト王権」(中公選書)を刊行。「邪馬台国論争に一つの区切りをつけたい」との思いだった。 【写真】箸墓古墳の発掘現場で研究者らに説明する寺沢さん=平成7年 「邪馬台国と卑弥呼には近づくな」。考古学の道に進んだ昭和50年代、上司や先輩から厳しく言われた。遺物や遺跡をもとに歴史像を組み立てるのが考古学。魏志倭人伝という文献中心の邪馬台国論争については「口にすることもできなかった」。 卑弥呼は、景初3(239)年に中国
歴史が好き🍀 @naruseyanoken1 なぜ『日本書紀』には卑弥呼が登場しないのか?最新研究で迫る「邪馬台国連合」の存在【新・古代史】(NHK出版デジタルマガジン) article.yahoo.co.jp/detail/a6c623f… 2025-02-07 07:31:42 リンク article.yahoo.co.jp なぜ『日本書紀』には卑弥呼が登場しないのか?最新研究で迫る「邪馬台国連合」の存在【新・古代史】 卑弥呼と三国志、空白の四世紀と技術革新、倭の五王と東アジア情勢──。最新調査で見えてきた「日本」という国の始まりを豊富な写真資料とともに描き出した『新・古代史 グローバルヒストリーで迫る邪馬台国、ヤマト王権』より、 9
こんばんは!たかぼんブログドットコムのたかぼんです。 今回は『【卑弥呼】が住んでいた「邪馬台国」と、魏志倭人伝で記されている「女王国」は別物なのか?歴史書から紐解く』について解説させていただきたいと思います。 【目 次】 タップできます 邪馬台国と女王国は別物 2つある中国から授かった金印でわかる 倭国連合は28国?投馬国は天皇の聖地では? まとめ 邪馬台国と女王国は別物 筆者は最近まで邪馬台国=女王国なのだという認識をしていました。しかし最近思うには、卑弥呼が住んでいた邪馬台国=魏志倭人伝の中に出てくる女王国ではないのでは?と思ってしまいます。どういうことかというと、女王国は邪馬台国のことだけを指しているわけではないのではということです。 それでは魏志倭人伝に出てくる女王国とは、いったいどこの国のことを指しているでしょうか?その答えは倭国です。30の小国が連合された邪馬台国を含めた倭国連
今回も、古代・邪馬台国(ヤマタイコク)に関する記事で書かせてもらいます。今回からは2回連続で女王・卑弥呼(ヒミコ)の死の謎について取り上げます。よろしくお付き合いください。 監修者 kawauso 編集長(石原 昌光) 「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。 コンテンツ制作責任者 おとぼけ(田畑 雄貴) PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、201
こんにちは。夢中図書館へようこそ! 館長のふゆきです。 今日の夢中は、歴史人「古代史の謎」邪馬台国は九州か畿内か?卑弥呼の正体は?です。 「夢中図書館 読書館」は、小説や雑誌などの感想や読みどころを綴る読書ブログです。あなたのお気に入りの一冊を見つけてみませんか? ■歴史人 いつも歴史ファンにたまらない情報を届けてくれる「歴史人」。 2022年4月号の特集は、最新研究でここまでわかった!「古代史の謎」です。 歴史人2022年4月号 狩猟採取の縄文時代から、稲作農耕の弥生時代へ。 その過程で生まれた小国は戦争を繰り返して淘汰され、邪馬台国という小国連合を経て、統一国家・ヤマト政権が生まれた…。 私たちが歴史で学ぶ古代は、基本的にはそうした変遷となります。 ただ、この時期の特徴は、国内における文献資料が皆無ということ。縄文・弥生はもちろん、古墳時代の記録も存在しません。 この時代を知る手掛かり
邪馬台国(やまたいこく)の時代にあたる3世紀後半に築造された箸墓古墳(奈良県桜井市、墳丘長約280メートル)。当時としては最大規模の前方後円墳で、この被葬者が倭国(日本列島)を統治した「大王」とされる。この大王の都が、すぐ北側に広がる纒向(まきむく)遺跡(同市)で、邪馬台国の有力候補地。平成21年に見つかった大型建物跡は「卑弥呼の宮殿か」と話題を集め、畿内説が勢いづいた。昭和46年に始まった同遺跡の発掘は今年でちょうど50年。長年の調査の蓄積が、古代史最大の謎解明へカギを握る。 東京のような大都市だった46年当初から調査を担当したのが、同県立橿原考古学研究所元副所長の石野博信さん(87)。現場で着目したのが、大量に見つかったつぼや甕(かめ)など煮炊きや貯蔵用の日常の土器だった。一見すると同じような形だが、装飾などが奈良県内のものと少しずつ違っていた。
国内最古の前方後円墳ともいわれる纒向石塚古墳(破線は前方部の推定ライン)=平成元年古墳文化の象徴的な存在が前方後円墳。国内最大の仁徳天皇陵古墳(堺市、墳丘長486メートル)は世界文化遺産となり、海外でも「KOFUN」として知られる。前方後円墳はいつ、どこで生まれたのか。 「纒向(まきむく)=奈良県桜井市=以外に考えられない」というのが、寺沢薫・纒向学研究センター所長。纒向遺跡は奈良盆地東南部に位置し、邪馬台国(やまたいこく)の有力候補地。女王・卑弥呼の墓ともいわれる箸墓(はしはか)古墳(3世紀後半、同約280メートル)をはじめ、3世紀の最古級の前方後円墳が集中する。 なかでも箸墓古墳は、国内最初の巨大前方後円墳とされながら、なぜ突然出現したのかが謎だった。奈良では2世紀まで、5~10メートル規模の方形周溝墓しかほぼなかったからだ。 寺沢さんが着目したのが、纒向遺跡にある墳丘長100メートル
あなたは古代の富士山の北麓で栄えた富士高天原王朝(ふじたかまがはらおうちょう)のことをご存じでしょうか?富士王朝とは大和王権の祖と言われています。要するに今の天皇陛下の祖なのです。 こんにちは!たかぼんブログドットコムのたかぼんです。 今回は7月24日以来45日ぶりの投稿で『日本の歴史は富士王朝から始まった!邪馬台国の卑弥呼はなぜ歴史から隠されたのか?すべてを暴きます!』について解説させていただきたいと思います。この記事で通算600記事目の節目になりますパチパチパチ! あくまでも筆者の独断と偏見で書いているので、一説のエンターテイメントとして楽しんでいただけたらうれしいです。 【目 次】 タップできます 大和王権の祖が富士王朝であった! なぜ富士王朝はウガヤフキアエズ王朝に変わったのか? なぜ神武天皇は東征したのか? 卑弥呼が生きていた時代の天皇は誰?卑弥呼はなぜ記紀の歴史に出てこなかった
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こんにちは。古代史ライターのコーノヒロです。 今回は、邪馬台国(やまたいこく)女王・卑弥呼(ひみこ)に追従(ついじゅう)していた、男弟の正体について探っていきたいと思います。卑弥呼の側近として、常に寄り添い、表に顔を出さなかった卑弥呼の代わりに、表に出て、卑弥呼の言伝てという形で、民衆に伝え、政治を取り仕切っていたのは、何を隠そう、その男弟なのです。 事実上の王の役割を果たしていたのではないかと推測する説も目にします。ということは、以前の記事で紹介した、重臣・難升米(なしめ)についての説と相反することになってきますね。 以前、紹介した説では、難升米は邪馬台国の総理大臣的な立場だったかもしれないという説でした。どういうことでしょうか? 新たな謎がでてきましたね。詳しく見ていきましょう。 監修者 kawauso 編集長(石原 昌光) 「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い
「中国の歴史書に書かれてあることが事実」なのか 仁徳天皇を教科書で教えないなど、けしからん。 仁徳天皇といえば世界最大の古墳を造ったと私などの世代では習ったものですが、今は誰のお墓か分からんという理由で、「大仙古墳」とのみ記されます。三十代で塾講師を始めた時、「なんじゃこれは? 仁徳天皇陵は、どこに行った?」と絶句したのを思い出します。 こういう「科学」を名乗れば何をやっても許されると信じている連中を、私は「素朴実証主義者」と呼んでおちょくっていました。「素朴」と書いて「クソ」と読みます。 高校の日本史教科書は、「地球に原始人が出てきて、外国には文明があり、日本は縄文時代の後に弥生時代があって、ムラからクニに大きくなる過程で、王様が中華皇帝に使いを出して……」と始めます。 確実な事実だけを取り出そうとしている気なのでしょうが、物語(ストーリー)が無いので、何を言っているかわかりません。歴史
日本史で最大のミステリーと言われている邪馬台国の女王である卑弥呼の歴史とはいったいどうなっていたのでしょう。 こんばんは!たかぼんブログドットコムのたかぼんです。 今回は『【邪馬台国】はここにあった!女王の【卑弥呼】が暮らしてきた場所とはどんなところ?』について解説させていただきたいと思います。 【目 次】 タップできます 女王国とは北部九州全域の「倭国連合」だった! 畿内説はありえない 卑弥呼はいったいどこに暮らしていたのでしょう まとめ 女王国とは北部九州全域の「倭国連合」だった! 女王国とは小国の邪馬台国を含めた北部九州全域の「倭国(あるいは邪馬台国)連合」のことで、30国(對馬国・一大国・末廬国・伊都国・奴国・不弥国・他)の小国が連合して成り立った連合国だったのではないかと思われます。 邪馬台国の「邪馬台」は、「やまと」という発音を、魏(中国)が「邪馬台」という当て字にしたもので、
「卑弥呼の宮殿か」と話題を集めた大型建物跡の復元模型。東西に方位を合わせて建てられていた「邪馬台国(やまたいこく)に至る。女王の都するところなり」。中国の歴史書、魏志(ぎし)倭人伝は邪馬台国に卑弥呼(ひみこ)がいたとはっきり記す。 「卑弥呼は、倭国の女王として纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)にいた」とするのが、同市纒向学研究センターの寺沢薫所長。奈良盆地東南部に位置する同遺跡は南北1・5キロ、東西2キロに及び、南側には卑弥呼の墓との説が根強い箸墓古墳がある。 纒向遺跡から出土した桃の種。手前は実がついた状態のもの=平成22年、奈良県桜井市昭和46年に発掘が始まり、昨年に50年を迎えた。平成21年には、弥生時代最大の建物跡など3棟が東西に並んでいるのが確認され、卑弥呼の宮殿かと話題を集めた。 同遺跡は、卑弥呼の時代と重なる3世紀初めに突然出現した。「過疎地にいきなり大都市が建設されたイメ
今や占いが身近なものとなり、ブームにもなりました。 日本の歴史から見ても、占いは国にとって重要なものと位置づけられています。 日本で行われてきた占いの歴史を知ることで、占いにもっと興味がわいてくるでしょう。 この記事では、占いの分類から、占いの歴史までを解説し、最後に簡単にできる占いを用意しています。 まずは、占いの分類から見ていきましょう。 占いは3種類に大別される占いは大きく次の3種類に分けられます。 卜占(ぼくせん)命占(めいせん)相占(そうせん)これら3つの特徴を解説します。 卜占とは卜占は、偶然の要素が大きい占いのことです。 たとえば、おみくじ、易、タロットなどがあります。 日本においては、太占(ふとまに)、亀卜(きぼく)が古来より行われていました。 太占は鹿の肩甲骨、亀卜は亀の甲羅を火で熱して生じた亀裂の形によって、占いの結果を得るものです。 「卜」という字が亀裂の形を表し、人
纒向遺跡で発掘された特殊器台の破片。箸墓古墳や邪馬台国に結びつく手がかりとなった(奈良県立橿原考古学研究所付属博物館提供)邪馬台国(やまたいこく)は畿内(奈良県)か九州か-。江戸時代の政治家で儒学者、新井白石(あらい・はくせき)以来の古代史論争の謎を説くカギが、女王・卑弥呼(ひみこ)の墓ともいわれる箸墓古墳(奈良県桜井市)と、その北に広がる纒向(まきむく)遺跡(同)だ。平成21年にこの遺跡で見つかった大型建物跡は「卑弥呼の宮殿か」と注目を集め、畿内説が一気に高まった。邪馬台国を語るのに欠かせない2つの遺跡を結びつけたのは、50年近く前、一人の研究者が拾い上げた手のひらサイズの土器の破片だった。 発掘のきっかけは炭鉱閉鎖昭和46年、ある開発計画が桜井市で持ち上がった。炭鉱離職者向けの雇用促進住宅の建設。当時、国のエネルギー政策が石炭から石油に転換し、九州などの炭鉱が次々と閉鎖。職を失った炭鉱
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