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言論に関するsemisのブックマーク (8)

  • おとなげないけど - finalventの日記

    ⇒言論の自由について (内田樹の研究室) 言論の自由とは私は私の言いたいことを言う。あなたはあなたの言いたいことを言う。その理非の判断はそれを聴くみなさんにお任せする。ただそれだけのことである。 だが、ほとんどの人は「言論の自由」を前段だけに限定してとらえており、後段の「その理非の判断はそれを聴くみなさんにお任せする」という条件を言い落としている。 私は「言論の自由」が持続可能な社会的規範であり続けるためには、後段の条件が不可避であろうと思う。 単純に全然違うと思うけど。 単純に⇒言論の自由 - Wikipedia 言論の自由(げんろんのじゆう)は自由権の一種で、検閲を受けることなく自身の思想・良心を表明する自由を指す。表現の自由の根幹をなすと考えられ、今日では国際人権法で保護され世界人権宣言第19条、国際人権規約B規約にも規定されているものの、多くの国で保障されるには至っていない。 ただ

    おとなげないけど - finalventの日記
    semis
    semis 2008/04/05
    国家とか権力側からの検閲のあるなしが問題 おかしな言説(?)には制限がされてもいい?
  • その「少女」は本当にいないのか? - OAF

    この問題に関して考えるなり議論するなりする上で、まず最初に押えておかなければいけないのは、いわゆる児童ポルノは社会的な悪である、ということが合意されているかどうかということだ。 ここをアイマイに各論(表現の自由とか)に入ったって得るものは何も無い。 多くのブログで言及されてるがくだらないものが多い*1。以下はかなり冷静で信頼できる感じのエントリ。「単純所持の処罰」の項はすばらしい。 ただ個人的にひっかかるところもあるので、そこだけちょっと。必ずしもgood2nd氏の意見に対応するものではないけど。 日ユニセフ協会の「なくそう!子どもポルノ」キャンペーンの問題点 写実的だろうがなんだろうが、被害児童はいないのです。 特にアニメ・漫画表現における規制に関してこのようなことを言う人が多い。 こういう人達はいわゆる「ポルノ」が社会的に氾濫することがなぜ悪いことなのか分かってないのではないのだろう

    その「少女」は本当にいないのか? - OAF
    semis
    semis 2008/03/14
  • 言葉で世の中が変わると思うのは幻想

    ネット時代になって地域・所得・国籍・社会的立場に左右されずにいろんな人々が自分の意見を言えるようになった。 しかし、相変わらずネットを使いこなせない人やネットと無縁な人も相当数おり、彼らは身内のコミュニティで共有される情報と既存マスコミの垂れ流す情報を元に行動する。インターネットを駆使する人間が思うほど世の中が変わったとは思えない。 知的レベルの相当高い人が書く日記を見ていると、世の中がこの通りになればいいのにと思う時がよくある。 しかしその通りにはならない。情報の洪水に埋もれてしまう。既得権を持つ馬鹿に都合が悪ければ揚げ足取りなり印象操作なりあらゆる妨害を受けて知的レベルの相当高い人の主張は封殺される。情報の洪水に流されるだけじゃなく大きな錘をつけられてしまう。 言葉が世の中を変えるほどの影響力を持つのは、人脈・権力・資金力とコネクトできた時だけなのだろう。 人脈・権力・資金力を備えた馬

    言葉で世の中が変わると思うのは幻想
  • べっ…別に「言葉で世の中を変えよう」と思ってウエブログを書いてるわけじゃないんだからねっ - 煩悩是道場

    Weblog 言葉で世の中が変わると思うのは幻想を読んで思ったのはブログヘラルドのビリオネア・ブロガーを目指すな、世界を変えろ at ブログヘラルドで紹介されているようなウエブログを使って世界を変えようとしているウエブロガーの人たちを見てそう思っているのか、それとも自分の半径ワンクリックを観察しただけでそう思っているのかが良くわからないのですが、ウエブ上に表現を放つ理由なんか幾らでもあると思うんですね。 私がウエブに表現を放つのは、世界を良くしようと思っているからじゃない。「私」という人間が様々な情報に触れ、思考した結果を放つ事で誰かから新たな刺激を得る事が出来て、結果として自分が成長出来るという確信があるからだ。自分の書いた事によって世界が変わるなんて思っていない。 ただ、世の中に強い不満を持つ弱者がすべきなのは現実逃避ではなく、人脈・権力・資金力をそれなりに持っている人間に対するロビー

  • 2007-11-24

    真理の最上のテストは、市場の競争において自らを受け入れさせる思想の力である ホームズ裁判官 「真理」という言葉を使うのには違和感があるし(「妥当性」とかならまだいいのだが)、いろいろ疑念のある見解ではあるが、考え方はこんにちでも妥当である(*1 吉田p360)。 人々が自由に意見を交換しあい(すなわち主張と反論を繰り返し)、各々の言論の妥当性を追及するというのは望ましいことであり、それを実現するのが言論の自由の役割である。 ネットでのつまらない話 − 言及記事への言及(前記事へのトラックバック) リンクは単に、言及する者とされる者の二者だけの問題ではない。 「読者に便宜をはかる」と言うように、不特定の人を呼び込むものである。 それは時に数の力を生み、多数派ではない意見をひねり潰したり、ターゲットとされた人の言論の自由を奪ったりもする。 こうして言論の多様性を損なわれることは、「言論の自由」

    2007-11-24
    semis
    semis 2007/12/02
  • ネット言論とメディアリテラシー: sokの日記

    テレビや新聞に対するメディアリテラシーについては、ネット上では散々言われていることだが、では、ネット上の真贋不明な数多の情報についてはどうかというと、こちらに対しては警戒心の緩い人が多い。自説に都合の良い情報しか見ない人が増えているのだろう。 個人的には、デマに引っかからないための心得として以下のことに気をつけている。 (1)自分のよく知らないことについては考えを保留する。 (2)煽りや誹謗中傷、差別的言辞の多いサイトは警戒する。 (3)反対の立場の意見を探してみる。 けれど、自分だって今のところデマには引っかかっていないだけで、今後引っかかる可能性はある。そこで、自戒の念も込めて過去にネット上で真贋が問題になったもののうち、保守系ブロガーが引っかかったものを列挙しておく。個々の問題について、取り上げているblogへのリンクを貼っておく。 2004年11月01日 在日の就業と生活保護の統計

  • 「世界は広辞苑では捕捉できない」ように、「世界は自分のちっぽけなアンテナでは捕捉できない」 - 新しいTERRAZINE

    写真家・文筆家・画家の藤原新也という人が、松零士x槇原敬之の盗作論争について論じているのだが、この内容が凄い。 どこかのコマーシャルカメラマンが使ってパテントのようにしている「月光浴」という言葉は私が70年代に出した写真集の中で編んだ言葉と同じ。 この言葉の出所はアフリカだった。サハラ砂漠を旅しているとき、青の民族と呼ばれるイスラム教徒が満月の夜に一列に並んで地面に座り、満月に青装束の体をさらしているのを目撃した。 あっ「月光浴」だ! と思った。 世界のどこにもない言葉が生まれる瞬間である。 地の果てまで自分の足で歩き、現場に立ち会い、独自な体験をしたとき、広辞苑にはない独自の言葉は生まれる。世界は広辞苑では捕捉できないのだ。 そして3000年の日歴史の中でも生まれなかった言葉がわずかな期間の中でふたつも生まれるはずがない。ワシが小学校低学年の頃だったかなぁ。いや幼稚園だったかな?

    「世界は広辞苑では捕捉できない」ように、「世界は自分のちっぽけなアンテナでは捕捉できない」 - 新しいTERRAZINE
    semis
    semis 2006/11/17
  • 自分の都合のいいものしか認めない心理 - すなふきんの雑感日記

    ■[トンデモ]自分の都合のいいものしか認めない心理 ふぉーりん・あとにーの憂〜「素人お断り」? ここで「水からの伝言」に戻ると、何故、そうした類の素人談義は暖かく見守るのに、「水からの伝言」には抵抗を示すかといえば、その論者は、当に「物理現象」や、その背後にある「自然科学」に興味があるわけではなく、「きれいな言葉を使うべきだ」という自分の主張を権威付けるのに都合のいい現象を探しているだけだからではないかと思います。 いわば、「きれいな言葉でも汚い言葉でも水の結晶は影響を受けない」とういことが「事実」であれば、そんな物理現象にはそれ以上興味はなくなることが予想されます。 逆にいえば、それだからこそ、こうした論者に対して、専門的な観点からコメントが加えられたとしても「科学で全てを説明できると考えるのは傲慢だ」といった反論になり、「実験条件をどう工夫したら偏りのない結果が得られるのか」とか「

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