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日本史に関するshinchiのブックマーク (14)

  • 「日本の近現代史」が歪められるのはなぜか

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    「日本の近現代史」が歪められるのはなぜか
  • 終戦のご聖断もあわや水の泡!? 日本海軍最強部隊叛乱事件の真相(神立 尚紀) @gendai_biz

    昭和20(1945)年8月14日の御前会議で、連合国が発したポツダム宣言を受諾する「聖断」をくだした昭和天皇は、翌8月15日、自ら「玉音放送」を通じて国民に戦争の終結を告げた。 だが、陸海軍の全ての部隊が降伏に納得し、ただちに矛をおさめたわけではなかった。なかでも、神奈川県厚木基地に拠点を置く帝都防空の主力・第三〇二海軍航空隊(三〇二空)は、司令・小園安名大佐のもと徹底抗戦を呼号、海軍上層部に叛旗を翻す。 折しも連合軍は、最初の進出地として厚木基地を指定してきた。万が一、三〇二空が基地を占拠し、進駐のため飛来する連合軍機を撃墜するような事態が起きれば、講和は無に帰してしまう。 三〇二空によるクーデターと、連合軍の無血進駐のために奔走した男たち。それぞれが信じた「正義」の行方は――。 天皇自らの意思で決まったポツダム宣言受諾 昭和20(1945)年7月26日、アメリカ、イギリス、中華民国の首

    終戦のご聖断もあわや水の泡!? 日本海軍最強部隊叛乱事件の真相(神立 尚紀) @gendai_biz
  • 秀吉の最強ブレーン・黒田官兵衛。劣悪な職場でも上司に尽くした理想の軍師|もうひとりの偉人伝|こざきゆう/真山知幸

    もうひとりの偉人伝 2020.08.08 公開 ツイート 秀吉の最強ブレーン・黒田官兵衛。劣悪な職場でも上司に尽くした理想の軍師 こざきゆう/真山知幸 誰もが知る歴史上の偉人たちは、もともと優秀だったからその偉業を成し遂げられたわけではない。ではなぜ偉業を成し遂げられたのか。そこには決して歴史に名を残すことのない、もう一人の偉人の存在があったから。 教科書では知ることのできない、そんなもう一人の偉人にスポットを当てる書籍『もうひとりの偉人伝』から、一部を抜粋してご紹介します。 *   *   * 豊臣秀吉の天下統一を助けたキレキレ軍師黒田官兵衛 愛され武将とキレ者軍師 貧しい家の生まれから織田信長の家臣となり、出世階段をトントント~ンとかけ上がってついには天下統一まで果たした戦国武将、豊臣秀吉。 秀吉は信長の忠実な家臣であり、主君をよろこばせる天才でした。ある寒い冬の日、信長が表に出ようと

    秀吉の最強ブレーン・黒田官兵衛。劣悪な職場でも上司に尽くした理想の軍師|もうひとりの偉人伝|こざきゆう/真山知幸
  • 徳川秀忠、大坂の陣でまたも遅参?父・家康宛ての手紙に「途方に暮れております」 | 和樂web 美の国ニッポンをもっと知る!

    寝坊して遅刻する夢を何度か見た。 教育業界にいた頃の話である。激務に追われていたせいだろうか。遅刻の状況はいつも違う。それは授業だったり、会議だったり、はたまた三者懇談だったり。 どちらにせよ、目覚めは最悪。これほど、辛い気持ちになることはない。ただ、いくら遅刻したところで夢は夢。現実ではなかったと胸をなでおろすことができた。 そう思うと。 「関ヶ原の戦い」で「世紀の大遅参」という有り難くない史実を作ったあの人物。2代将軍徳川秀忠(ひでただ)は、さぞや辛かったに違いない。まんまと真田一族の術中にはまり、その上、不運ともいえる大雨。まさに言い訳をしたところで、後世にまで残ってしまった黒歴史は消えることはない。 そんな秀忠だが。よほど、「遅参」に対して神経質になっていたと思いきや。またまた「2度目の遅参」を心配する事態に追い込まれていたのをご存知だろうか。それも、あの大一番、「大坂の陣」にであ

    徳川秀忠、大坂の陣でまたも遅参?父・家康宛ての手紙に「途方に暮れております」 | 和樂web 美の国ニッポンをもっと知る!
  • 宣教師・ザビエルも驚愕!江戸・寺子屋の高すぎる教育レベル | ゴールドオンライン

    ビジネスで海外の人々と関わる際、自国の歴史の知識は必須だといえます。しかし、日人が注意しなくてはならないのが「外国人に関心の高い日史のテーマは、日人が好むそれとは大きく異なる」という点です。連載は、株式会社グローバルダイナミクス代表取締役社長の山中俊之氏の著書『世界96カ国をまわった元外交官が教える 外国人にささる日史12のツボ』(朝日新聞出版)から一部を抜粋し、著者の外交官時代の経験をもとに、外国人の興味を引くエピソードを解説します。 庶民の「教育レベル」が高かった江戸時代 知日派の外国人と議論すると、明治維新における改革を高く評価する人がたくさんいることがわかります。身分制の廃止、信教の自由、議会制の開始、憲法制定。確かに明治維新後の改革によって現在に繋がる近代日が始まったと考えられる根拠はあります。 しかし、明治以降の発展の土壌は江戸時代にありました。 特に、江戸時代の庶

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  • 勧善懲悪のフィルターを外した「忠臣蔵(赤穂事件)」の裏側。吉良上野介は上杉家の大恩人だった! | 和樂web 日本文化の入り口マガジン

  • 『麒麟がくる』では描かれなかった、信長の教育係・平手政秀切腹のもう1つの説|もうひとりの偉人伝|こざきゆう/真山知幸

    もうひとりの偉人伝 2020.08.01 公開 ツイート 『麒麟がくる』では描かれなかった、信長の教育係・平手政秀切腹のもう1つの説 こざきゆう/真山知幸 誰もが知る歴史上の偉人たちは、もともと優秀だったからその偉業を成し遂げられたわけではない。ではなぜ偉業を成し遂げられたのか。そこには決して歴史に名を残すことのない、もう一人の偉人の存在があったから。 教科書では知ることのできない、そんなもう一人の偉人にスポットを当てる書籍『もうひとりの偉人伝』から、一部を抜粋してご紹介します。 *   *   * 命をかけた説教で織田信長をヤンキーから更生させた平手政秀 戦国一のイケイケヤンキー 日中で大名が争いをくり広げていた戦国時代。尾張(現在の愛知県)にすい星のごとく現れ、当時最強といわれた武田軍を鉄ぽう隊を率いて打ち負かし、天下統一まであと一歩とせまった“戦国時代のスーパーヒーロー”織田信長。

    『麒麟がくる』では描かれなかった、信長の教育係・平手政秀切腹のもう1つの説|もうひとりの偉人伝|こざきゆう/真山知幸
  • その冷酷さに天皇も嘆いた!2代将軍・徳川秀忠の素顔とは? | 和樂web 美の国ニッポンをもっと知る!

    明け方4時。 前日からの大雨が止まない中、庭に勢ぞろいした武士や鷹匠らの面々。 彼らは、日4時に予定されていた主君の鷹狩りの同行者であった。豪雨のため中止になるだろうと思ってはいたが、念のため登城。主君の取次が中止の発表を告げるのを待っていたのである。 さすがに、主君は寝ているだろうと思っているところへ、鷹狩り装束に身を包んだ主君その人が。 同行者らの身だしなみをチェックし、全員が揃っているか確認。 えっ。まさかの鷹狩りが実施されるのか。こんな豪雨なのに? 誰もが、衝撃に備えた。 その時、主君から一言。 「皆、支度に抜かりはないな。よし。この天候ゆえに鷹狩りは順延する。解散いたせ」。 庭で雨に濡れながらそう告げる主君の姿を見て、一同ため息。 ……。 なんてルール通りなんだ。 さて、この主君というのが、2代将軍、徳川秀忠(ひでただ)。今回の主役である。 徳川秀忠といえば、初代徳川家康と3代

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  • 黒田長政と後藤又兵衛の嫉妬と敵がい心の効用

    危機一髪で命を助けられた幼少の長政 黒田長政といえば、戦国時代きっての軍師、黒田官兵衛の嫡男であり、福岡藩を開き、博多の街の基礎を作った人物です。徳川家康は関ケ原の戦いの論功行賞において、長政の功績を1番とし、筑前・福岡に52万3000石を与えました。それまでは父の存在に隠れがちだった長政の飛躍の背景には何があったのでしょうか? 黒田長政は黒田官兵衛の嫡男で、幼名は松寿丸といいました。官兵衛が織田信長に仕え、羽柴秀吉の軍師になると、天正5(1577)年から信長への人質として秀吉に預けられ、秀吉の居城だった長浜城で過ごしました。黒田官兵衛の主君だった小寺政職(こでら・まさもと)の子が病弱だったため、身代わりになったと考えられています。 長浜城では年上の市松(福島正則)や虎之助(加藤清正)らと交わり、元気に育ちました。ところが信長の家臣だった伊丹城主の荒木村重が謀反を起こし、敵対する毛利方に寝

    黒田長政と後藤又兵衛の嫉妬と敵がい心の効用
  • 新型コロナとの「戦争」に勝てるか? 政府の危機対応に見る『失敗の本質』

    ※画像:『失敗の質 日軍の組織論的研究』((中央公論新社刊) 1月から始まった新型コロナウイルスの感染は世界に広がり、4月1日現在で感染者数85万人超、死者は4万人超となっている(ジョンズ・ホプキンス大学調べ)。 わずか2カ月で世界は一変し、アメリカをはじめとした各国が非常事態宣言を発動。不要不急の外出が禁じられるといった厳戒態勢がとられ、フランスのエマニュエル・マクロン大統領はウイルスとの戦いを「戦争」と述べるなど、その様相は緊迫している。 一方、日政府の対応はどうか。 3月20日から22日の3連休は外出する多く人が多く見受けられ、「#自粛疲れ」が報道された。安倍晋三首相や小池百合子都知事は緊急記者会見を開き、外出自粛を国民や都民に要請するのだが、そのぼんやりとして補償がない趣旨に、批判の声が上がる。 そして、SNSでは「まさしく日政府の対応では?」という指摘とともに、ある一冊の

    新型コロナとの「戦争」に勝てるか? 政府の危機対応に見る『失敗の本質』
  • 織田信長を裏切った「松永久秀」と「荒木村重」。〈信長の人事の失敗〉と本能寺の変との共通点【麒麟がくる 満喫リポート〈後半戦予習編〉】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト

    TOP趣味教養麒麟がくる織田信長を裏切った「松永久秀」と「荒木村重」。〈信長の人事の失敗〉と能寺の変との共通点【麒麟がくる 満喫リポート〈後半戦予習編〉】 近年、織田信長の人物像を見直そうという動きが、研究者の方の間でも顕著になってきている。折しも休止中の大河ドラマ『麒麟がくる』の織田信長(演・染谷将太)も新たな信長像を打ち出して来ている。かつて歴史ファンを虜にし、全盛期には10万部を超える発行部数を誇った『歴史』(2015年休刊)元編集者で、歴史書籍編集プロダクション「三猿舎」代表を務める安田清人氏がリポートする。 * * * 革命家、時代の寵児、天才戦略家、既存の価値観の破壊者、第六天魔王……といった従来の織田信長のイメージは、実証的な研究というよりは小説やドラマなどのフィクションの世界で、どんどん膨らんでいったものだろう。こうした信長像については、 古くは 歴史学者の故・脇田

    織田信長を裏切った「松永久秀」と「荒木村重」。〈信長の人事の失敗〉と本能寺の変との共通点【麒麟がくる 満喫リポート〈後半戦予習編〉】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト
  • 徳川家康「祖父に売り飛ばされた」超壮絶人生

    戦国時代の三英傑、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康を、ホトトギスを絡めて評した有名な句がある。 織田信長「鳴かぬなら 殺してしまおう ホトトギス」 豊臣秀吉「鳴かぬなら 鳴かせてみせよう ホトトギス」 徳川家康「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス」 これは、おそらく、誰もが何度も耳にしたことがあるはずだ。この句によると、家康には「待つこと」に特徴があるということである。 たしかに、家康は「待つこと」で天下を手中にした面はある。信長や秀吉が、積極的に天下獲りの意思を示して、精力的に活動したのに対し、家康は人生の終盤まで、そういう野心は見せずに、第二走者、第三走者の地位に甘んじていた。 しかし、人生の終盤にきて大チャンスが到来したときに、ものの見事に天下を我が物にしたのである。 なぜ「待つこと」が難しいのか? 家康の第一の凄さは「待つこと」ができたことだと言えるだろう。わずかでも人生経験がある

    徳川家康「祖父に売り飛ばされた」超壮絶人生
  • 現代人も惚れる・平知盛!人間的な魅力あふれる男の生涯 | 日本の歴史を分かりやすく解説!!

    <出典:wikipedia> 琵琶法師の弦の音に合わせて紡がれる平家物語には、魅力的なシーンがいくつもあります。 中でも盛り上がるのは、平知盛(たいら の とももり)が自害するシーン。 壇ノ浦で平家が滅びるしかないと分かり、平知盛が潔く壇ノ浦の海へ飛び込む場面です。 この話は、平家物語だけでなく、歌舞伎や浄瑠璃でも取り上げられています。 今回は平知盛の魅力を紹介いたします。 信頼厚い平家の軍師 平安時代後期。 平家の栄光を築き上げた棟梁・平清盛の活躍も、すでに昔語りになっていたころのことです。 当時、平安の隆盛を極めた平家には”驕ごれる人”も珍しくはありませんでした。 そんな中、棟梁・清盛の第二子として誕生したのが平知盛でした。 平家全体に驕りが見られる中、平知盛には驕る様子が見られませんでした。 そのことがよく分かるのが、武蔵国へ赴任したエピソードです。 関東の武蔵国は河内源氏のテリトリ

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  • 日本を戦国時代に導いたのは、魔法にハマった男色家?戦国三大愚人、細川政元という男 | 和樂web 日本文化の入り口マガジン

    戦国時代の幕開けのきっかけともいわれる「明応の政変」。それを引き起こした人物が、細川政元(ほそかわ まさもと)である。「応仁の乱(1467~1478年)」で東軍の総大将だった管領・細川勝元(ほそかわ かつもと)の子で、「半将軍」と呼ばれるほど権力を持った人物だ。しかし、彼は江戸時代に「戦国三大愚人」の一人に数えられるほど奇行が多かったことでも知られている。一体どのような人物だったのか、その素顔に迫っていきたい。 「聡明丸」という名の通り、聡明な子だった政元 1466(文正元)年、室町幕府における三管領の一家・細川家の嫡男として生まれた政元。幼名を聡明丸(そうめいまる)と言い、その名の通り非常に聡明な子だったそうだ。父・勝元は「この子がいれば細川家は安泰である」言い残し、この世を去ったとの言い伝えもある。 『細川勝元 片岡仁左衛門』 著者:豊国 国立国会図書館デジタルコレクションより 政元は

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