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ブックマーク / intojapanwaraku.com (23)

  • 落馬?病気?それとも他殺?鎌倉幕府をつくった「源頼朝の死」の謎 | 和樂web 美の国ニッポンをもっと知る!

    源頼朝といえば? 鎌倉幕府を作った人! というように、「頼朝が何をした人か」を知る人は多いでしょう。 では、どのように死んだのか……。これがよく分かっていないのですよね~。 「吾鏡(あずまかがみ)」は鎌倉幕府内唯一の公式記録といっていい史料です。ですが、全ての記録が残されているわけではなく、いくつか欠落している部分があります。 その欠落している部分の1つが、なんと「源頼朝の死」に関する記録です。 だから現在の研究者も、はっきりと断言はできません。 隠された頼朝の死 吾鏡では建久6(1195)年12月22日、頼朝が若い頃からの友人の家に遊びに行ったという記事を最後に、建久7(1196)年~建久10(1199)年1月の記録は、ごっそり抜けています。 そして唐突に、「建久10(1199)年2月6日、頼朝の長男である頼家(よりいえ)が後を継いで征夷大将軍となりました」という記事から再開します。

    落馬?病気?それとも他殺?鎌倉幕府をつくった「源頼朝の死」の謎 | 和樂web 美の国ニッポンをもっと知る!
    shinchi
    shinchi 2021/03/18
  • 幕末期の洋式砲術家、高島秋帆。幕府に投獄されたことで「何が起きなかったか」 | 和樂web 美の国ニッポンをもっと知る!

    NHK大河ドラマ『青天を衝け』において、渋沢栄一に大きな影響を与える人物として登場する、高島秋帆(たかしましゅうはん)。俳優、玉木宏さんが演じることで注目されていますが、一体どのような人物だったのでしょうか。 幕末期の砲術家、高島秋帆の功績や、彼が投獄されたことで「なにが起きなかったか」についてご説明します。 高島家と高島秋帆について 寛政10年(1798)、高島秋帆は長崎で代々にわたって町年寄をつとめる旧家、高島家の三男として生まれました。苗字帯刀を許されながらも武士と庶民との中間に相当する家柄でした。 高島秋帆像 『近世二十傑. 第5巻』 伊藤痴遊 著 国立国会図書館デジタルコレクションより 高島家は長崎奉行のもとで貿易事務に携わり、出島のオランダ人との交わりがあって、秋帆は日と西洋との軍事力の隔たりが大きいことを知っていました。また、高島家は鉄炮方を兼務、砲台を掌る家柄でもあり、切

    幕末期の洋式砲術家、高島秋帆。幕府に投獄されたことで「何が起きなかったか」 | 和樂web 美の国ニッポンをもっと知る!
    shinchi
    shinchi 2021/03/02
  • 残酷すぎて誰も執行したがらない刑罰「鋸挽」その恐ろしい処刑方法とは | 和樂web 美の国ニッポンをもっと知る!

    悪いことをすれば、何かしらの罰を受けるもの。しかし、その罰があまりにも残酷であれば、罰を与える方も苦しみを感じるものです。 江戸時代には「鋸挽(のこぎりびき)」という、最も重い刑罰が定められていました。しかし、あまりに残虐だったため、誰も処刑を引き受けなかったのだとか。一体どんなに恐ろしい刑罰なのでしょうか。 鋸挽とは 鋸挽は、当時最も罪が重いとされていた「主殺し(主君殺し、父親殺しも含む)」を犯したものに適用される、江戸時代の最高刑。刑罰自体は、江戸時代以前からも行われていました。 江戸以前の処刑方法 江戸時代より前の時代では、実際に竹の鋸や鉄の鋸で罪人の首を挽いていました。鋸を使ったことがある方はわかるかもしれませんが、鋸は素人が簡単に使いこなせるものではありません。私も、学校の授業でうまく木材が切れず苦労した記憶があります。 そのようなもので人の首を挽けば、どんな大惨事になるか想像で

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    shinchi
    shinchi 2020/12/19
  • 織田信長、まさかの裏切りで九死に一生!戦国の撤退戦「金ヶ崎の戦い」 | 和樂web 美の国ニッポンをもっと知る!

    あの織田信長の身に危険が迫った事件といえば、非業の死を遂げた能寺の変を思い浮かべる方が多いでしょう。しかし、それまでの信長も、決して負けなしだったわけではありません。特に、妹婿である浅井長政が裏切った時は、命からがら京へ逃げ帰ったのです。今回は、信長や木下秀吉、そして明智光秀も経験した壮絶な撤退戦「金ヶ崎の戦い」について見ていきましょう。 織田・徳川連合軍の越前への侵攻中、浅井長政が裏切った! 事の発端は、元亀元年(1570)4月の織田信長による越前(福井県)侵攻でした。当時の信長は、室町幕府の第15代将軍・足利義昭を擁し、各地の大名に上洛するよう求めていました。要するに、ほとんど実権のない足利将軍を看板にして「挨拶に来い」と催促していたわけです。 しかし、越前を治めていた戦国大名・朝倉義景はこれに従いませんでした。そのため、信長は徳川家康と連合を組み、3万余りの軍勢で義景を討伐すべく越

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    shinchi
    shinchi 2020/12/15
  • 樋口一葉、生涯ただ一度の恋。師・半井桃水との交流の行方とは | 和樂web 美の国ニッポンをもっと知る!

    明治を代表する女性作家のひとりである樋口一葉。 5千円札に描かれた肖像で見覚えがある方も多いと思いますが、一葉自身の後半生は、決して金銭的に豊かな暮らしではありませんでした。 生活苦の末、24歳の若さで病死した一葉は、亡くなる直前、「奇跡の14ヶ月」と呼ばれる短い間に、『たけくらべ』『にごりえ』など数々の名作を世に送り出します。 地味で引っ込み思案だった文学少女の一葉を、押しも押されもせぬ一流作家へと生まれ変わらせたのは、師匠であった半井桃水(なからいとうすい)への熱烈な恋でした。 雪の日に、半井邸をたずねた一葉が「泊まっていきなさい」と引きとめられて恥じらう場面は、2人の恋のハイライト。小説の中にも描かれています。 一葉の日記を読むと、2人の関係はプラトニックだったようにも思われますが、真相はどうだったのでしょうか。一葉の、生涯ただ一度の熱烈な恋のゆくえを見ていきましょう。 ■和樂web

    樋口一葉、生涯ただ一度の恋。師・半井桃水との交流の行方とは | 和樂web 美の国ニッポンをもっと知る!
    shinchi
    shinchi 2020/11/13
  • およそ3000人が葬列!絢爛豪華な「織田信長の葬儀」に柴田勝家が不在だったワケ | 和樂web 美の国ニッポンをもっと知る!

    「信長公は勇将であるが良将ではない」 あらま、潔い。 ホントに、そんなズバリと言い切っちゃっていいのと、思えなくもないが。きっと、この言葉を聞いた相手も、ギョギョッと目を白黒させたに違いない。 じつは、このあとには、どうして良将ではないのかと、その解説が続く。 「剛をもって柔に勝つことを知ってはおられたが、柔が剛を制することをご存じなかった。ひとたび敵対した者に対しては、その憤りがいつまでも解けず、ことごとくその根を断ち葉を枯らそうとされた。だから降伏する者を誅戮し、敵討ちは絶えることがなかった。これは人物器量が狭いためである。人には敬遠されるが、衆からは愛されない」 (岡谷繁実著『名将言行録』より一部抜粋) ああ、器量が狭いだなんて。 なんとも身も蓋もない言い方。しかし、そんな方に認めてもらえたからこその「今」じゃないのか。 さて、この言葉。 誰の口から洩れたのかというと。 もちろん、織

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    shinchi 2020/11/09
  • 森蘭丸の兄の弱点は家族愛?「鬼武蔵」の異名を持つほど苛烈な性格とそのギャップに迫る | 和樂web 美の国ニッポンをもっと知る!

    戦国時代、13歳で家督を継いだ男がいた。 現代でいえば中学1、2年生あたりの年頃だ。そんな年齢で、一族を背負って立つ。どれほどの気負いがあっただろう。 その上、あの織田信長から諱(いみな)の1字である「長」をもらったという。めでたいコトだが、その栄誉に、正直、プレッシャーでクラッシュしそうな感じ。 しかし、彼は違った。 年齢など関係ない。一族の長としての責任から、気合十分。いや、どちらかというと十分すぎて、その血気盛んな姿勢を、信長に手紙でたしなめられたことも。どんだけ前のめりなのかが分かる逸話といえるだろう。 今回は、そんな苛烈な性格から「鬼武蔵(おにむさし)」との異名を持つ戦国武将をご紹介。 その名も「森長可(ながよし)」。 森といえば……。 織田信長の小姓として有名な、あの「森蘭丸」と同じと思いきや。これは偶然ではない。そう、まさしく彼らは兄弟なのだ。弟は気遣いに長けた「ザ・秘書」の

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    shinchi
    shinchi 2020/11/05
  • 薩摩弁と会津弁、言葉が通じないから英語で会話!?大山巌・捨松にのしかかった明治の日本語問題 | 和樂web 日本文化の入り口マガジン

    明治中頃までの日は、あるひとつの問題を抱えていた。 それは「標準語問題」である。 東北出身の人と九州出身の人が会話する時、方言のせいでまったく通じないということがよくあった。もちろん江戸時代にもその問題はあったが、この頃はボディーランゲージだけで事が済んだ。 近代国家はそうはいかない。国民であれば誰でも理解できる標準語が必要不可欠。でなければ、たとえ夫婦間でも日語会話ができないという事態を招いてしまう。 戊辰戦争を生き延びる 大山捨松は、会津藩の国家老の娘として1860(安政7)年に生まれた。 捨松(当時は“山川さき”という名前だった。)は幼少の頃に戊辰戦争を目撃している。彼女は籠城戦に巻き込まれ、焼夷弾の処理担当という、極めて危険な役割に従事していた。 この時代の大砲は、既に砲弾内部に炸薬の詰まった榴弾が使用されていた。しかし壁や障害物を突き破るという点において、榴弾は接した途端に爆

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    shinchi
    shinchi 2020/10/26
  • https://intojapanwaraku.com/culture/74941/

    shinchi
    shinchi 2020/10/24
  • 戦国時代のレオン⁈信長を魅了し、秀吉を恐れさせた男・蒲生氏郷の素顔 | 和樂web 美の国ニッポンをもっと知る!

    「レオン」って誰? これまた、いきなり直球で。先に断っておくが、映画の「孤独な暗殺者」とは激しく違う。「レオン」は、歴史上に実在した人物だ。じゃあ、誰なのよ?となるのだが、そうまあ、焦らずに。皆々様が最初に聞きたいのは、もちろんのこと。ただ、モノには順番ってものがあるワケで。 まずは、最初の画像の説明から。ご立派なお城は、福島県の会津若松(あいづわかまつ)城。別名、鶴ヶ城(つるがじょう)とも呼ばれている。この「会津若松」城、命名される前の名前は「会津黒川」城。どうして、「黒川」が「若松」になったのか。これに関係してくるのが、「レオン」だ。 「レオン」こと、戦国大名としての名は「蒲生氏郷(がもううじさと)」。 あの織田信長が大絶賛し、自分の娘まで嫁がせたという戦国きっての名将だ。際立った兵の統率力に定評があり、凄腕の猛将としても有名。一方で和歌をたしなみ、茶道は千利休の高弟子である「利休七哲

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    shinchi 2020/10/24
  • まるで日本のスティーブ・ジョブズ!生まれる時代が100年早かった天才、佐久間象山 | 和樂web 日本文化の入り口マガジン

    ペリーが来航した1853年から明治維新までの1868年を大まかに幕末と呼ぶ。このたった15年のあいだに、日はチョンマゲからさんばら頭になり、袴を脱ぎズボンを履くようになった。またこの時期は、後の日を築いた志士も数多く登場した。幕府を倒さんとする者、幕府を護ろうとする者、国を開こうとする者。今回紹介する佐久間象山(さくましょうざん)もそうした野心を抱いたひとりである。 江戸時代後期の松代藩士にして思想家の象山は兵学、朱子学を極め、また机上の学問のみならず、大砲の鋳造、ガラスの製造、地震予知機の開発、さらには牛痘種の導入を企図するなど天才ぶりを発揮した。勝海舟や吉田松陰など名だたる俊才を弟子に持ち、100年先を見通していたと言われた男がどんな人物だったのか、日の近代化を急ぎすぎた象山の知られざる素顔に迫ってみよう。 苛烈、気難し屋。天才はいつの時代も理解されにくい 顔の輪郭、手を顎に添え

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    shinchi
    shinchi 2020/10/21
  • 「とらや 赤坂店」菓子職人インタビュー!おいしさとおもてなしの秘密は? | 和樂web 美の国ニッポンをもっと知る!

    伝統を感じさせながらもモダンで開放感のある「とらや 赤坂店」。店の御用場で菓子作りをする菓子職人、羊羹をはじめこだわりの菓子がならぶ売場の副店長が、リニューアル1周年を迎えた「とらや 赤坂店」のおいしさとおもてなしについて語ります。 虎屋を支える人「とらや 赤坂店」編 室町時代の後期に京都で創業し、それからおよそ500年にわたり暖簾を守ってきた老舗「虎屋」。日を代表する高級和菓子店としての歩み、銘菓の羊羹や和菓子については、和樂web『やっぱり「とらや」でしょ!500年の歴史を調べてみたら伝説がありすぎた!』や『手土産の定番といえばこれ。最強和菓子屋「とらや」の羊羹には納得の理由があった』でご紹介をしています。そこで今回は、“虎屋で働く人”にご注目。働く人の言葉から虎屋の変わらないおいしさと新たな取り組みを探っていく、全3回にわたるシリーズ企画です。第1回目は「とらや 赤坂店」で働く人を

    「とらや 赤坂店」菓子職人インタビュー!おいしさとおもてなしの秘密は? | 和樂web 美の国ニッポンをもっと知る!
    shinchi
    shinchi 2020/10/20
  • 日本史上最高のスパイ?兵士20万人に匹敵する働きをした男「明石元二郎」とは何者か | 和樂web 日本文化の入り口マガジン

    明治時代においては、日露戦争で日軍によってさまざまな諜報活動、いわゆる「スパイ行為」が行われていました。当時ロシアは世界でも強大な勢力を有しており、日にとっては戦争相手として、かなり分が悪かったといえるでしょう。しかしご存じの通り、その強国を退けて日は日露戦争において勝鬨(かちどき)を上げることができました。 しかしその背景に、日史上最高のスパイとうたわれる「明石元二郎(あかしもとじろう)」という男の存在があったことはあまり知られていません。彼が成し遂げたスパイ行為は「明石工作」と呼ばれ、今もなおすさまじい成果を挙げたものであるとして語り継がれています。 言語の天才!士官学校時代から突出していた明石元二郎 1864年、明石は福岡藩(現在の福岡県)にて生を受けます。明石家は代々武家であったため、当然のように武士としての教えを受けて育てられました。とはいえ、1868年に明治を迎えて武家

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    shinchi 2020/10/05
  • 毛利元就の師匠・尼子経久とは?死してなお計略を練った恐ろしき戦国武将 | 和樂web 日本文化の入り口マガジン

    shinchi
    shinchi 2020/08/19
  • 徳川秀忠、大坂の陣でまたも遅参?父・家康宛ての手紙に「途方に暮れております」 | 和樂web 美の国ニッポンをもっと知る!

    寝坊して遅刻する夢を何度か見た。 教育業界にいた頃の話である。激務に追われていたせいだろうか。遅刻の状況はいつも違う。それは授業だったり、会議だったり、はたまた三者懇談だったり。 どちらにせよ、目覚めは最悪。これほど、辛い気持ちになることはない。ただ、いくら遅刻したところで夢は夢。現実ではなかったと胸をなでおろすことができた。 そう思うと。 「関ヶ原の戦い」で「世紀の大遅参」という有り難くない史実を作ったあの人物。2代将軍徳川秀忠(ひでただ)は、さぞや辛かったに違いない。まんまと真田一族の術中にはまり、その上、不運ともいえる大雨。まさに言い訳をしたところで、後世にまで残ってしまった黒歴史は消えることはない。 そんな秀忠だが。よほど、「遅参」に対して神経質になっていたと思いきや。またまた「2度目の遅参」を心配する事態に追い込まれていたのをご存知だろうか。それも、あの大一番、「大坂の陣」にであ

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  • 勧善懲悪のフィルターを外した「忠臣蔵(赤穂事件)」の裏側。吉良上野介は上杉家の大恩人だった! | 和樂web 日本文化の入り口マガジン

  • その冷酷さに天皇も嘆いた!2代将軍・徳川秀忠の素顔とは? | 和樂web 美の国ニッポンをもっと知る!

    明け方4時。 前日からの大雨が止まない中、庭に勢ぞろいした武士や鷹匠らの面々。 彼らは、日4時に予定されていた主君の鷹狩りの同行者であった。豪雨のため中止になるだろうと思ってはいたが、念のため登城。主君の取次が中止の発表を告げるのを待っていたのである。 さすがに、主君は寝ているだろうと思っているところへ、鷹狩り装束に身を包んだ主君その人が。 同行者らの身だしなみをチェックし、全員が揃っているか確認。 えっ。まさかの鷹狩りが実施されるのか。こんな豪雨なのに? 誰もが、衝撃に備えた。 その時、主君から一言。 「皆、支度に抜かりはないな。よし。この天候ゆえに鷹狩りは順延する。解散いたせ」。 庭で雨に濡れながらそう告げる主君の姿を見て、一同ため息。 ……。 なんてルール通りなんだ。 さて、この主君というのが、2代将軍、徳川秀忠(ひでただ)。今回の主役である。 徳川秀忠といえば、初代徳川家康と3代

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  • そうだ秘境、行こう。片道約5時間半、トイレ休憩たったの3回。日本最長の路線バス旅! | 和樂web 美の国ニッポンをもっと知る!

    「あの〜うちに泊まられたことはありますか?」 予想していなかった問いかけに、ちょっと言葉に詰まる。瞬間脳裏に浮かぶのは、ここで「はい」とウソをついたほうがいいのかどうか。もしかすると、一見さんはお断りなのかもしれない。いやいや、ここでウソをついて切り抜けたところで、すぐにボロは出てしまうだろう。なにしろ、これから我が身一つで泊まりにいくのだから。 だから「いいえ」と答えると「ああ、そうですか」で話は終わった。名前と電話番号を尋ねられて「では、お待ちしています」と。 これが日最長路線バスの旅の始まりであった。 和歌山をめざすために奈良へ 奈良県は橿原市(かしはらし)の近鉄線大和八木(やまとやぎ)駅前から和歌山県の新宮駅前まで紀伊半島を南北に縦断する、日最長の路線バス。先年、和歌山に取材に出かけることになり、どうやっていこうかと考えて選んだのが、これだ。理由は単純。ただ新幹線や特急を乗り継

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    shinchi 2020/07/25
  • 織田信長から称賛された槍の名手!渡辺勘兵衛は転職4回、計6人の主君に仕えていた! | 和樂web 美の国ニッポンをもっと知る!

    「働きに見合った給料が欲しいなあ」等、より良い労働環境を求めて転職するのは今の時代だけではありません。戦国時代にも待遇改善を求め、仕官先を次々と変え、何人もの主君に仕えた武将は多くいました。 戦国時代末期から江戸時代初期にかけて、活躍した渡辺勘兵衛もそのひとり。79歳で亡くなるまで彼は4度の転職を経験し、計6人の主君に仕えました。今回は、そんな彼の転職状況を紹介します。※石田家家臣の渡辺勘兵衛とは別人です。 最初の仕官先は阿閉貞征 近江国浅井郡で永禄5(1562)年に生まれた渡辺勘兵衛は、その生涯で4度の転職をしました。転職先はすべて武家から武家へ。職業を変えるというよりも、職場を変える転職です。 初出仕先は、北近江の戦国大名・浅井家重臣の阿閉貞征(あつじ さだゆき)。勘兵衛は貞征の小姓からスタートし、その後、阿閉家の精鋭からなる母衣(ほろ)衆の1人として活躍しました。 母衣衆とは主君の側

    織田信長から称賛された槍の名手!渡辺勘兵衛は転職4回、計6人の主君に仕えていた! | 和樂web 美の国ニッポンをもっと知る!
    shinchi
    shinchi 2020/07/24
  • 日本を戦国時代に導いたのは、魔法にハマった男色家?戦国三大愚人、細川政元という男 | 和樂web 日本文化の入り口マガジン

    戦国時代の幕開けのきっかけともいわれる「明応の政変」。それを引き起こした人物が、細川政元(ほそかわ まさもと)である。「応仁の乱(1467~1478年)」で東軍の総大将だった管領・細川勝元(ほそかわ かつもと)の子で、「半将軍」と呼ばれるほど権力を持った人物だ。しかし、彼は江戸時代に「戦国三大愚人」の一人に数えられるほど奇行が多かったことでも知られている。一体どのような人物だったのか、その素顔に迫っていきたい。 「聡明丸」という名の通り、聡明な子だった政元 1466(文正元)年、室町幕府における三管領の一家・細川家の嫡男として生まれた政元。幼名を聡明丸(そうめいまる)と言い、その名の通り非常に聡明な子だったそうだ。父・勝元は「この子がいれば細川家は安泰である」言い残し、この世を去ったとの言い伝えもある。 『細川勝元 片岡仁左衛門』 著者:豊国 国立国会図書館デジタルコレクションより 政元は

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