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祭りの戦士に関するsphynxのブックマーク (6)

  • 祭りの戦士Z 第1話<帝国>の黄昏────スーパー祭りの戦士降臨! - 泥沼通信

    まあその、、、祭りの戦士ってのは、なんぼスーパーになったからといって、「無力を意志する力」なわけで、ホント苦悩が絶えないわけですね。

  • スラム/戦術/ブリコラージュ、そして平滑空間 - 泥沼通信

    廃墟の建設者たちへの意見。都市計画家たちの跡を継ぐのは、スラム街とバラックに住む最後の穴居人たちだろう。ベッドタウンの特権者たちは、壊すことしかできないのに対して、彼らは建築するすべを知っている。そのような出会いに多くを期待しなければならない。そのような出会いが革命を規定するのだから。 ラウル・ヴァネーゲム『都市計画に反対する論評』 折りたたみ自転車でガキを学校に送り迎えしていた頃のことだ。学校を出てちょっと行ったところにある雑貨屋で、タイといえばでおなじみの氷入りのビニール袋に入れたペプシコーラを買って飲むのがガキの日課になっていた。ある日、毎日大通りを走ってくる私たちに、雑貨屋の親父が「日人学校ならここから行けるんだよ」と小さな運河に掛かった鉄製の橋を指差した。かろうじてバイクが渡れるかというほどの小さな橋だった。翌日の朝、ガキがその橋を渡って学校に行きたいというので、コースを変えて

  • 美大における個性とは何か? - 泥沼通信

    最近、ipod nanoを買ったので、podcastで日にいたとき聴いていたラジオの深夜放送なんかを仕事しながら聴いているんだけど、調べてみると『文科系トークラジオLife』なんてのも外国にいながら聴けるんですね(やっぱ「文化」モノでしょ、私が聴くべきは、、、)。というわけで、さっそく、武蔵野美術大学の学園祭でのトークイべント『平凡コンプレックス 美大で個性を考える』という番組をダウンロードしてみる。どこかで名前を聞いたことのある社会学者や評論家、ジャーナリストたちの流麗で軽妙なトークや学生たちの質問なんかを聴いていると、思わず自分が画学生だった頃の苦い焦燥感が甦ってきてしまった(ま、私自身は結局美大には進めなかったわけだが)。 そうそう、当時の私の方がよっぽど深刻に焦っていたけど、「才能」とか「個性」とか「オリジナリティ」なんてことに異常にこだわって、こじらせてしまったりするのは、今も

  • 反教育(反権力)についてのメモ - 泥沼通信

    教育(反権力)は、現在における実践(学校的なものに内在する垂直的な権力の作用に対して、水平的な交流を対置すること)としてしかありえない。それは現在の瞬間において問題の回答を与えようとするものであって、将来における教育制度(権力装置)の構想とは、似たもののようでありながら、全く異質な活動である。反教育の実践の傍ら、将来の教育制度を構想することは可能だが、同時的にそれらを追求することはできない。もちろん将来の社会のあり方を構想することは必要であり、その試みは最大限尊重されねばならない。が、ラディカル(反教育)が選択するのは、(将来のある時点においてではなく)いまここで、現行の教育(権力)に対する不服従を、自分自身の生を実験台にして貫くことにある。これは何にもまして現在の生を意義あるものならしめたいという要請に基づいているが、結果的にある効果を未来に対して持つことになるだろう。つまり私たちは、

  • ラディカルとは何か - 泥沼通信

    ちょっとわけあって、mojimojiさんと常野さんの一連の古い議論を読ませてもらいました。 mojimojiさんの1,2,3,4,5と、常野さんのこれ、など。 これは常野さんの学校廃棄論に対して、学校の廃棄後の具体的な構想=対案がないことをmojimojiさんが批判するという内容のものです。ザッと読んだ印象ではmojimojiさんの主張のブレのなさが際立っていて説得的に感じたのですが、どうも何かすっきりしない。それはmojimojiさんがラディカルをずいぶん過少評価しているのが面白くないのと(私もラディカルの端くれのつもりなので)、猿虎さんも言っているように、どうもお二人の話がかみ合ってない感じが最後まで抜けなかったからでしょう。そこで、何がどうかみ合っていないのかを足りない頭で思案してみました。 コメント欄などで反学校派の人たちの反感を買っているようですが、mojimojiさんによる学校

  • 相変わらずの「臭い」パフォーマンスだぜ! - 泥沼通信

    常野さんのパフォーマンス が、売名行為やアクセス稼ぎだけのためになされたとか、軽率でおとなげない無意味な煽りにすぎない みたいな言われ方をけっこうしている。こういうお騒がせでスキャンダラスなパフォーマンスは、ダダやシュルレアリスムの時代から白い目で眺められてきたものだ。確かに人間が承認を求めるものであるならば、名前も売りたいだろうし、戦略的にアクセス増大を狙っていたということもあったわけだろう。が、もちろんそれだけが目的ではないのは、どう見ても明らかでしょ、これ。講義に潜入しようとしたことも、報告を読む限りかなりへっぴり腰感があふれていて、想像するにかなり無理してると思いますよ、常野さんは。 日思想界のビックネーム、イースト先生 の講義に、誘いに乗ってマジに乗り込もうという魅力的なアイディアを思いついたものの、けっこう逡巡したんじゃないだろうか。こんなことわざわざおっぱじめる必要があるん

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