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2016年6月3日のブックマーク (11件)

  • オスプレイで賛否両論(軍事ではない) - 男の魂に火をつけろ! ~はてブロ地獄変~

    昨年の2月、女子プロレス団体スターダムの後楽園ホール大会において、チャンピオンの世IV虎とチャレンジャー安川惡斗のタイトルマッチが開催されましたが、凄惨な喧嘩マッチとなった結果、安川が顔面骨折の重傷を負い、一般マスコミでも取り上げられプロレス界の枠を超えた話題になりました。 週刊プロレス 2015年 3/11 号 [雑誌] 出版社/メーカー: ベ-スボ-ルマガジン社発売日: 2015/02/25メディア: 雑誌この商品を含むブログ (2件) を見るこの試合は、実力が伴っていないレスラーを無理に売り出そうとしたこと、また信頼関係ができていないレスラー同士を無理に戦わせたことによる事故でしたが、「こんなのプロレスじゃない」という批判が、プロレスファン内外から多く集まりました。とはいえ、プロレスが人間と人間のぶつかり合いである以上、最大限避けなくてはいけない事態であるにしろ、これもまたプロレスの

    オスプレイで賛否両論(軍事ではない) - 男の魂に火をつけろ! ~はてブロ地獄変~
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    sphynx 2016/06/03
  • 龍を継ぐ男 - 男の魂に火をつけろ! ~はてブロ地獄変~

    ツイッターをうろうろしておりましたら、なぜか「フラッシュモブ」について賛否両論、というか「否」のほうがだいぶ勝っているようすが目に入りまして。 「フラッシュモブ」という言葉を知らない人もいるかもしれませんが、街頭などの公共空間で、通りすがりを装った人たちが突然踊り出したり演奏したりして、終わったら何事もなかったかのように立ち去るというゲリラ的パフォーマンスのことをそう呼びます。 有名なのはこの辺でしょうか。 スペインの広場で男性がコントラバスを弾いていると、次々に楽器を持った人たちが現れてオーケストラになり、ベートーベンの第9を演奏するという動画です。 こういう演奏の催しは世界各地で広まりましたが、音楽に合わせたダンスのパフォーマンスもあります。これが有名でしょう。 ドゥー・ワップス&フーリガンズ(生産限定スペシャル・プライス盤) アーティスト: ブルーノ・マーズ,シーロー・グリーン,ルー

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    sphynx 2016/06/03
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    ●「計算」というもののことをずっと誤解したいたのかもしれない。あらかじめ目的があり、その目的に向かって最適化をめざすものだけが計算ではない。あるいは、なにかを管理し、調整することだけが計算の目的ではない。なぜ計算するのかといえば、計算しなければ解が得られないからするのだとすれば、計算するということはまさに解を創造するということだ。 計算というのは、計算を実行するということだ。だから、計算と物語は異なる。夏休みを15532回繰り返すという計算は、実際にそれを15532回繰り返して実行するということであり、15532回繰り返しましたとさ、という物語を語ることは違う。そして、計算を実行することによってしか、未知の解を導くことはできない。物語は、既知の解しか導かない。 (物語とはいわばコンセプトであり、我々は新鮮なコンセプトを常に求めているが、コンセプトは何かしらの計算として実行されなければ、未知

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    sphynx 2016/06/03
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    ●お知らせ。「note」に「秋幸は(ほとんど)存在しない――「岬」(中上健次)について」の (4)と(5)を公開しています。次の(6)で完結です。 https://note.mu/furuyatoshihiro ●いろいろ追い詰められてテンパっているのだが、YouTubeで、かなり画質が悪いのだけど、中国語字幕付きの『1999年の夏休み』(金子修介)を発見してしまって、しばらく見入ってしまった(「世紀末暑假」というタイトル)。何もかもが八十年代的だ。あまりに八十年代的だ。そして、八十年代はこんなにも遠いのだ、と思った。 (『1999年の夏休み』は、萩尾望都『トーマの心臓』を原案とする1988年の映画。少年の役を女性が演じ、さらに別の声優が声を当てるというつくりになっている。深津絵里の映画デビュー作。)

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    sphynx 2016/06/03
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    ●電車のなかにを置き忘れた夢をみた。あっ、忘れた、と気付いて目が覚めた。電車のなかにあのを置いてきてしまったと気付く夢はみたが、その前に電車に乗っていた夢をみていたかどうかは分からない。

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    sphynx 2016/06/03
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    ●熊谷守一美術館に行ってきた。 クマガイが背景を具体的に描かない時に用いられる背景の単色の広がり、多くの場合に黄土色(オーカー、シェンナ)で、時にグリーンだったりブルーだったりピンクだったりもするあの広がりは、マティスの「赤い部屋」や「赤いアトリエ」の赤の広がりと同様に、空間以前であり空間以上でもあるようなもの、二次元であり、三次元であり、四次元でもあるようなもので、ヴァーチャルな原空間としての平面性であるように思われた。 平面的な絵画の単色の広がりは、画面の情報量としては少ないのだけど、その情報量の少なさを、脳にどのように補填させるのかという仕掛けとして用いられているのではないかと思う。画面そのものの情報量を上げるのではなく、脳をより複雑に働かせるために省略を行う。脳のなかに複雑な幻影をつくりださせるための、単純な装置というか。 セザンヌの絵は、脳に複雑な共鳴状態をつくりだすために、画面

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    sphynx 2016/06/03
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    ●「ビューティフルドリーマー」と、「エンドレエイト」+「まどか☆マギカ」を比較して、インターネット以前と以後とで物語内部における「夢」と「現実」という対比構造がどのように変化したのか、という内容の文章を書いていて(6月1日に公開されます)、そのために『叛逆の物語』を観直して思ったのだけど、冒頭の「ビューティフルドリーマー」状態を成立させるために、かなりすごいロジックを使っている。 「ビューティフルドリーマー」状態は、魔女化したほむらの結界の内部に形作られる。そのためには、まどかの力によって魔女という概念がなくなったこの宇宙で、ほむらを魔女化(一歩手前に)させなければいけない。まどかは、「魔法少女が必然的に魔女化する」という法則自体を書き換えたのではなく、そこに「魔女化すると同時に消滅する」という新しい法則(円環の理)を追加することで、事実上、魔女を存在させられないようにした。そこでインキュ

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    sphynx 2016/06/03
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    ●過去の日記をみたら、熊谷守一についてけっこう面白いことを書いていたので、メモとして引用しておく。08/02/24(日)と 08/02/26(火)と 08/02/23(土)の日記から。埼玉県立近代美術館で観た「天賦の色彩 究極のかたち」についての感想の一部。 マティスでは、注目する部分によって空間の様相がかわり、そして、それら複数の空間に共通するような基底的な空間がないままで、複数の様相が重ねられるのだが、とはいえ、それぞれの空間は、最低限、三次元的な秩序の範囲内にあるように思われる。そしてなにより、そこには常に重力が感じられる。そのことは、マティスが決して抽象画を描かず、ぎりぎりのところで現実空間との繋がりを保っていることと、深く関係するように思われる。要するにマティスは物を「見ながら」描いている。最後の根拠はそこにある。しかしクマガイにおいて色彩は、三次元の空間を脅かす、ある強さとして

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    sphynx 2016/06/03
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    ●いろいろあって、今月はあまりを読めなかったのだが、そうこうしているうちに『フィクションとは何か ごっこ遊びと芸術』(ケンダル・ウォルトン)が発売された。大きい、分厚い、そして二段組み。 ウォルトンの「フィクションを怖がる」はとても面白いテキストだけど、突っ込みどころも多くて、例えば準-恐怖という概念はやはり成り立たないのではないかとか思ったりするのだけど、この大著ではどうなっているのだろうか。 「フィクションを怖がる」では、緑のスライムのような怪物が襲ってくるホラー映画という例が最初に挙げられるのだけど、それはホラーというよりむしろパニック映画のようなものなのではないか。例えばスピルバーグの『宇宙戦争』みたいなのをホラーとは普通言わないと思う。ホラーは、霊的なものに対する恐怖が基にあると思うのだけど、ウォルトンの準-恐怖では、身体に危険が迫ってくるというレベルの恐怖しか考えられてなく

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    sphynx 2016/06/03
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    ●お知らせ。水声社から出ている『小島信夫長篇集成(8)寓話』の月報(に挟んであるリーフレット)に、「誰が『寓話』を語るのか」という文章を書いています。 ●小島信夫のことを「訳が分からなくてすごい」とみんな言い過ぎると思っていて、でも、『寓話』は普通に読めるし、普通に無茶苦茶おもしろいのだということを強調したい。確かに、出だしは訳が分からない。でも、そこで挫折しないでそれを突き抜ければ、とんでもなくすごい世界が展開されている。「訳が分からない」のではなく「とんでもない」のだ。 月報にも書いたのだけど、『寓話』では、小説が進むなかで《登場人物のほとんどすべてが(自分がその内に属している)『寓話』という小説の読者である》というすごい状況が生まれてしまう。多くの登場人物が、自分が登場している連載中の小説(『寓話』)を読んでいて、それに対するリアクションを作者に手紙なり電話なりで伝え、それが次の回

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    sphynx 2016/06/03
  • 虚構世界はなぜ必要か? SFアニメ「超」考察第3回 ネットもスマホもなかった世界から遠く離れて

    ふるや・としひろ  画家、評論家。1967年、神奈川県生まれ。1993年、東京造形大学卒業。著書に『世界へと滲み出す脳』(青土社)、『人はある日とつぜん小説家になる』(青土社)、共著に『映画空間400選』(INAX出版)、『吉隆明論集』(アーツアンドクラフツ)がある。 現実は変えられないという「現実主義」に抗するためにフィクションは意味をもち得るか、SFアニメで考える骨太フィクション論。 科学、技術の急速な発展をうけて、現実主義者は、フィクションは意味がないしくだらない、あるいは、無責任で害悪でさえあるという。それに対し、そのような態度こそがわたしたちの現実を堅く貧しくしているのだと反論することはできるのだろうか。名作SFアニメを題材に、フィクション、現実、技術について、深く検討する。連載を大幅修正加筆し、2018年12月末刊行。 【ネット書店で見る】 古谷利裕 著 『虚構世界はなぜ必

    虚構世界はなぜ必要か? SFアニメ「超」考察第3回 ネットもスマホもなかった世界から遠く離れて
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    sphynx 2016/06/03