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扶桑「軟禁されている間、私はずっとあの戦いのことを考えている。提督が口にした裏切りの言葉。その邪悪な笑み。けれど今思えばその目は・・・とても悲しくて暗い色をしていた。提督?あなたはどうしてわざわざ私にだけ、裏切った事実を伝えたのかしら。どうして私は、生きているのかしら。その点と点を結べば、答えは・・・おのずと浮かんできます。提督?あなたはあの時言ってくれた。山城を失い、自暴自棄になる私に、生きて償いの道を歩めと。その道を歩き切った時私は私を許してもいいのだと。提督?その言葉・・・あなた自身にも届いていますか?あなたは、その道を歩き切った時ちゃんと自分を許せますか?あなたは――」前 sm30074923 次 sm30299109 マイリストmylist/46293193
実力派復活!齋藤なずなは遅咲きの、しかし、大人の読むに耐えるマンガを描く実力派作家である。デビューしたのが一九八七年一月十日号(実際の発売は前年十二月)「ビッグコミック」であった。新人賞佳作として掲載された「ダリア」は驚異的なまで上手く、私はただちに切り抜いてファイルした。しかも、デビュー時、四十歳であり、それまでイラストルポのたぐいしか描いたことはなかった。 その後、「ビッグ」各誌、また、今は廃刊となった「話の特集」で齋藤なずなの作品をしばしば目にするようになった。ほとんどが短編で、その無駄のない構成と人物描写の巧みさにいつも感心した。女性マンガ家は、少女マンガは別にして、多く身辺雑記風エッセイマンガを得意とするが、遺憾ながら大人をうならせる作品は少ない。齋藤より八年早くデビューした近藤ようこは、その少ない実力派マンガ家の代表だが、素晴らしい好敵手が出現したと思った。『鳥獣草魚』『片々草
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「終戦」 “戦後の丸山眞男” レッドパージ ファシズム 「日本の思想」(1957年) 留置場体験、思想弾圧 丸山眞男の敗北 (講談社選書メチエ) 作者: 伊東祐吏 出版社/メーカー: 講談社 発売日: 2016/08/11 メディア: 単行本(ソフトカバー) この商品を含むブログを見る 「終戦」 丸山は、戦争についてある程度正確な見通しを持ち、ソ連の参戦や、終戦後に事態収拾のため皇室関係者が総理となることなどを的中させて上司や同僚を驚かせたが、内地で血みどろの決戦になることは必至と考えていた。(略) 最後のひとつは、母親の死である。母セイは八月十五日に亡くなり、その知らせは十七日に広島の丸山のもとへと届いた。母の死を知った丸山は、船舶司令部内の武道場に隠れ、転げまわって泣いたという。丸山には、「何のための戦争終結か」とのやるせない思いが沸々とこみあげてくるのであった。病床にあった母セイは、
時々講演だの講義だのをしていますが、それらはお坊さん限定のものもあれば、一般向け(もちろんお坊さんも含む)のものもあります。 そんとなき、話の流れで、日本の伝統的な仏教教団(檀家制度を基盤とする宗派)のゆくえ、みたいな話になるときがあります。 そういうとき、よく話していたのは、これからの僧侶は、ゴータマ・ブッダと自分、自派の宗祖と自分、ブッダと宗祖、それぞれの関係を根底から考え直して自分の考え方を確定し、その上で教え(考え方と修行法)を語らないと「自分の言葉」を持つことは出来ず、聴衆をインスパイアできない、ということでした。 つまり、今後の伝統教団の「布教」の成否は、僧侶それぞれが、自分に本当にブッダの教えが必要なのか、宗祖の教えのどこに共感と確信を持つのか、ブッダと宗祖の教えの核心をどう把握しているのかを、クリアに語るだけの修練にかかっているということです。 そうして話の終わりに、「僧侶
いわゆる「ダイエット依存症」とボクサーの減量とは、何が違うのでしょうか? 後者は試合への出場という目的があり、それが果たされれば終了します。つまり、減量は純然たる手段です。ところが、「依存症」は減量自体が目的なので、終わりがありません。 私はこの「依存症的」な印象を、最近の「捨てる」ブームに持つのです。必要のなくなったものを捨てるというなら当たり前の話ですが、「捨てる技術」「断捨離」などの、捨てること自体に価値があるかのように語るフレーズを頻繁に耳にするようになり、その象徴的なイメージとして、例のスティーブ・ジョブズのほとんど何も無い部屋の写真を見せられたりすると、私はここにある錯覚を感じるのです。 以前、「ゴミ屋敷」の記事を書きましたが、あれは言うなれば「所有依存症」です。 しかし、よく考えてみれば、「所有」という行為の実質は、対象を「思い通りにできること」であり、ならば「思い通り」の中
次期アメリカ大統領に決まった人が、選挙期間中に言ったことを今後額面通りそのまま実行するとしたら、我が国にとっては、 ・憲法9条を変えて、徴兵制や核武装を含む「自主防衛」路線に転換し、 ・「戦前」回帰的ナショナリズムを強化して、現憲法が保証する「基本的人権」に制限をかけるイデオロギー装置を準備する、 そういう勢力が台頭する可能性が大きくなるでしょう。 しかし、その勢力は、現自公政権を含む現体制側からは出ないと思います。なぜかというと、 現政権的「ナショナリズム」は、日米同盟と経済成長(グローバル化が基本条件)を前提としているから、次期大統領の基本方針(自国第一主義と反グローバル主義)と相反する以上、そのまま通用しないはずです。つまり、「ナショナリズム」として上半身と下半身がねじれていて、機動力が乏しいわけです。 したがって、私が予想する「勢力」は、欧米に遅れて、かつ欧米同様に、世間の「アウト
恐山で「坐禅と講話の会」を行いますので、よろしければご参加くださいというご案内を、今年始めに当ブログでしました。6月・8月・10月の3回、一回につき30名定員という募集です。 この会を、私は平日に1泊2日で行ったのですが、結果は3回で30名ほどのご参加でした。やはり平日に下北半島までおいでいただくのは、大変なことなのだと、改めて感じました(坐禅指導や講話をするには、実にやりやすい人数でしたが)。にもかかわらず、全国各地からご参加いただいた方々、ありがとうございました。また、お疲れ様でした。 実は、ずいぶん前に、かなり厳格なスケジュールで2泊3日の参禅会を行ったときは、土日など休日の募集で、定員20名が2、3日で埋まりました。その経験があったので、もっと余裕のあるスケジュールなら平日でどうかと、「実験」してみたわけです。 しかし、実際には、わざわざお仕事の都合をつけて来ていただくことになりま
打ちすぎて効かなくなった麻薬さながら、いよいよ収拾がつかなくなりつつある金融緩和の後に、今度は博打で「経済成長」させようなどと、いつまでアブク銭をあてにしたら気が済むのだ。 本音は一時の「景気刺激」(あるいは「なんかいいことないかな」的国威「小」発揚)であるにもかかわらず、「被災地復興」などと言い募り、邪な動機で始まったオリンピックは、今や無様な迷走を続け、もはやこの先何が起こるかわからない。その上、万博だの冬季五輪だの、どこまで能天気な昔話を蒸し返すつもりなんだ。 すでに時代錯誤的存在となりつつある原発を再起動し、その上核廃棄物の再処理サイクルを強引に延命して、ますます問題を将来に先送りしようというのでは、見通しの暗い年金制度同様、若い世代に申し訳がないだろう。 だいたい国内においては、少子高齢化と人口減、具体的には子育て・教育と介護・看取りの問題に政策的財政的資源を思いきって注ぎ込まな
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