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ブックマーク / josaiya.hatenablog.com (13)

  • 東亜相互企業の慰安旅行に参加した田辺茂一 - 定斎屋の藪入り

    『銀座ネオン街これだけ暴けば殺される』(粋川太郎、昭和60年6月、政界往来社)の表紙には「各界名士実名入り」「銀座夜の無頼帳控え」といふ文字も躍る。 1章「銀座を代表する�女狐�ママ列伝」から8章「匿名座談会 銀座夜のスキャンダル全公開」まで、政治家芸能人作家らの有名人が実名で暴露されてゐる。巻末には銀座クラブ・マダム名簿一覧があり、住所や電話番号がたくさん載ってゐる。 現役の関係者もゐるので引用にも困るものが多い。 7章は「シルクロード」系列の栄光と挫折。�銀座の帝王�町井久之が東亜相互ビル内にオープンしたクラブ「シルクロード」の内実が詳細に描かれる。有名俳優のいとこでスカウトマンの梅宮尚、営業部長の天野憲治、オープン屋の杉山一之など有象無象が登場する。高級クラブハウス「TSK・CCCターミナル」は東亜相互企業セレブリティーズ・チョイス・クラブの略。運営委員には岡太郎や桶谷繁雄、紀伊国

    東亜相互企業の慰安旅行に参加した田辺茂一 - 定斎屋の藪入り
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    sphynx 2017/03/28
  • 閑院宮家に玄米料理を奉仕した石野彦行・芳子夫妻 - 定斎屋の藪入り

    今年から始まった、建国記念の日におむすびをべようといふ試み。普通の誕生日はみんなケーキでお祝ひするけれども、日の誕生日だから日らしくおむすびをべようといふ趣旨。案内では2・11の11を蝋燭に見立ててゐる。これはやはりケーキを連想させる。誕生日にケーキなどの御馳走をべるのに、この催しのおむすびは海苔もない白米に具も梅干の質素なもの。今時いろんなおむすびがある中で、これで誕生日を祝ふ気分になるだらうか。 奉祝気分を盛り上げるためには、具を豪華にしたり地方の風習と結び付けたりとか、何か仕掛けでもほしくなる。米に注目するなら誰の・どこの・どんな米なのかといふ謂れも大事。 『神ながらの 附感謝と体験報告』は大日興国会発行。昭和11年6月発行で13年4月に6版。大日興国会は「玄米興国白米亡国」を掲げ、玄米を指導する団体。天照大御神が「五穀の中でも黒米(玄米)が此国に住む者の物として

    閑院宮家に玄米料理を奉仕した石野彦行・芳子夫妻 - 定斎屋の藪入り
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    sphynx 2017/03/28
  • 千頭光子が好んだ「亀の歳」 - 定斎屋の藪入り

    『千頭老刀自追遠録』(称好塾発行、明治44年5月発行)は同年2月12日に88歳で亡くなった千頭光子を偲んだ書。巌谷小波、山田新一郎などゆかりの人々が思ひ出を寄せてゐる。 千頭光子は文政7年8月生まれ。高知藩士、山田喜馬太の娘。弟の喜三之進は槍術の道場を継いだが洋学に熱中し閉鎖。長崎土産で人々を驚かした。 就中衆人の前に燐寸を擦りて忽然火を点じたるが如き十数人を珠数繋ぎに連結せしめて電流を通じたるが如き最も郷人の感興を惹きしと云ふ 千頭清雄と結婚し清臣と久寿猪子を産んだ。久寿猪子の夫が杉浦重剛。よって重剛の義母が光子。息子の清臣は留学後に神経衰弱で長く療養し、重剛も病弱で何年も床に伏した。その間も千頭、杉浦両家をよく守った。千頭光子といふフルネームは知られなくても、御隠居などと呼ばれて非常に親しまれた。山田新一郎曰く、当時の家塾は家庭と峻別するところが多かったが、称好塾は家庭と一体であるのが

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    sphynx 2017/03/28
  • 星一「妥協は悪魔の声」 - 定斎屋の藪入り

    新年度なので新しい抱負を持ちたい。星製薬の標語では「親切第一」が有名だが、星一は一時、「任務断行」を掲げ、機関紙も発行した。 『任務断行』は星製薬の任務断行期成団によるもの。「任務断行」の語が随所にちりばめられ、星製薬関連の記事や広告が紙面を埋めてゐる。1部5銭で毎月15日発行。手元にあるのは昭和9年2月15日発行の第3号で4頁建て。新聞のわりに紙質は厚くしっかりしてゐる。頭山翁の題字がすばらしい。 1面には満洲国皇帝即位を伝へる記事と皇帝夫の写真が載る。星一の原稿、見出しに「妥協は悪魔の声 子孫の住む此の世を美しく致しましよう」。小さく「悪い人も此世に必要」。当時の星の人間観、主張がはっきり表はれてゐて興味深い。杉山茂丸に会ったあと現れたのが星製薬を破産させた芝義太郎。芝は「妥協の用意がある」といふが、星は断固拒絶する。 「悪魔は妥協と云ふ、妥協は破滅だ 我々は神を信じ、神の命令の協力

    星一「妥協は悪魔の声」 - 定斎屋の藪入り
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    sphynx 2017/03/28
  • 竜虎相撃つ‐佐々木武行と闘った佐々木四郎 - 定斎屋の藪入り

    古書会館からもほど近い病院。創立者、佐々木東洋の胸像がある。その孫が佐々木四郎。北京から上海に渡り、得意の柔道で数々の難敵たちと闘った。岩田富美夫の跡目を継ぎ、大化会会長にもなった。 『武士(さむらい)・佐々木四郎』は佐々木四郎の数奇な半生を描いた稀書・奇書。平成3年11月発行、発行元は横浜の佐々木四郎米寿を祝う会。著者は山崎雅彦となってゐる。体の背は無地で、函の背に書名と著者名を記した紙が貼ってある。 写真には薬局を開いた父、佐々木東水の弓道着姿や、スタヂオで撮ったやうな四郎自身の近影、戦前の相撲やボクシング時代の様子もある。 文章は読み物風で、敵同士の会話も記してゐるので脚色もあるだらうが、迫真の描写は佐々木人からの聞き取りもあるだらう。 佐々木四郎は明治38年1月生まれ。慈恵医専を予科でやめてしまひ、父から義絶される。大陸に渡り得意の講道館柔道で頭角を現はし、警察署の柔道師範を務

    竜虎相撃つ‐佐々木武行と闘った佐々木四郎 - 定斎屋の藪入り
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    sphynx 2016/06/25
  • 『愚心の告白』感想 - 定斎屋の藪入り

    夢中で新刊を読んだのは久しぶり。面白かった。こののやうに、熱心な活動家が客観的に右翼を描いたものはさうない。 『愚心の告白 〜我が国家主義運動の事績〜』は平成28年1月、風詠社発行・星雲社発売。小松憲一著。 昭和の終はり、北海道出身の著者が上京し、赤尾敏の愛国党で過ごした日々をつづった回顧録。三島由紀夫の自決をきっかけにして右翼に興味を持ち、自衛隊入隊と除隊、愛国党へと進む。赤尾との死別、党の分裂後の様子もある。 三島についての世間・自衛隊・党内での評価がよく分かる。これは二・二六事件解釈の違ひにも関はってくる。 書き方は分かりやすく、注釈がなくても気にならない。この時点ではかう思ってゐた、今ではかう、など、思想の変遷が明瞭に描かれてゐる。党部での生活や用語、党員それぞれの性格や相性、部と地方支部との関係などは内部の人にしか分からないことばかりだ。 愛国新聞の論文がそのまま掲載されて

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    sphynx 2016/03/11
  • 天達忠雄「唯一の通風口は週刊の読物」 - 定斎屋の藪入り

    社会学者の天達忠雄が遺した歌集が『幽囚の歌』。昭和40年7月30日発行。発行所・出版社の記載なし。巻末に著作者の住所と電話番号だけが載ってゐる。 「豚箱の歌」「独房の歌」「文子のノートより」「あとがき」からなる。歌はすべて、天達が思想犯として捕まってからつづった、いはゆる獄中歌。戦争の最中で、東京Y警察署に昭和18年11月16日から19年5月28日まで、巣鴨拘置所に翌日から20年7月6日まで、豊多摩仮拘置所に翌日から、釈放の10月9日まで。 天達はよくや雑誌を読み、手紙ではほとんど毎回、差し入れについて触れてゐる。戦時下の署内・所内の日常や読書環境が窺はれる。技巧は少なく、文語で五七五七七に収めただけにみえるが、さういふ直叙が観照に徹したやうな印象を与へる。 読書に関するものを引くと、 唯一の通風口は週刊の読物なるに今日も来ざるか 待てど来ぬの差入規則変り三冊までとなりにけるよし 差入

    天達忠雄「唯一の通風口は週刊の読物」 - 定斎屋の藪入り
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    sphynx 2016/03/11
  • 丸山作楽の土曜日曜休暇論 - 定斎屋の藪入り

    今年は神武天皇が崩御してから二千六百年とされ、崩御日とされる4月3日(日曜日)に、橿原神宮で大祭が行はれる。 『随在天神 カムナガラ』は月2回、惟神学会から刊行。156号は明治23年7月12日土曜日発行。表紙には明治二十三年、紀元二千五百五十年、西暦千八百九十年と、皇紀も載せる。中に盤之屋作楽の「日の文字及文章に就て」がある。盤之屋は国学を学んだ政治家・外交官・歌人の丸山作楽。女といふ言葉の字義だとか、西洋インク禁止令について触れた中に、土曜日と日曜日の休暇論を述べてゐる。 これによれば、1・15・28日の休みだったのが、今は土曜日半休で日曜は一日休み。これは西洋との交際上さうなったので、西洋崇拝主義、他人の猿真似ではないかといふ意見があった。これではいけない。 そこで丸山は、日人が土曜日と日曜日に休む理由を考へ出した。神武天皇が即位したのは当時の暦の元日。今の太陽暦に直すと2月11日

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    sphynx 2016/03/11
  • 馬場譲が開いた豪傑飯屋「気安野」 - 定斎屋の藪入り

    『実業之世界』大正2年3月1日号(第10巻第5号)に、「馬賊式の豪傑飯屋」といふ記事が載ってゐる。 神田駿河台の一膳飯屋、「気安野」は、5銭で腹いっぱい飯をへる。欄間には、頭山翁と観樹三浦梧楼の書があるが、それだけではない。 振つてゐるのは左右前後さては土間の格子に張紙して迄も書なぐつた一面の落書である。一句千金に値する罵倒文字破れ壮士が双肩を怒らしたやうな痛快文字がベタに惜気もなく書捨てゝある。 店の中一面に、壮士が肩を怒らせて書いたやうな落書きがうち捨ててある。田中舎身、半井桃水、江見水蔭らが書いてゐる。半井も豪傑組だったのか。 蒙古王・佐々木照山は「しんこ焼海苔、酒屋を叩き、アんこうせんを豚汁勿れ、時に煮肴無きにしもあらず、アサク心を味噌で煮る」。「天莫空勾践 時非無范蠡」のもぢりで、当時は誰もが知ってゐた南朝の忠臣、児島高徳を気取ってゐる。 舎身居士は宣言といふ名で「銭がないなら

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    sphynx 2015/11/07
  • 下山京子に求婚した野依秀市 - 定斎屋の藪入り

    続き。豪傑飯屋に続いて「美人記者の料理店」で紹介されてゐるのが元新聞記者、下山京子とその築地の料理店、一葉。鼓を持った写真もある。 『実業之世界』記者に対する下山の受け答へは粋なものばかり。 『私はもう噴火しない死火山ですよ、さらりと過去の生涯は捨てゝ了つて、妙なことには、此頃は静かに静かに、仏信心などがしたくなつてきました。』 野依社長は大々的に求婚広告を出したことがあり、同時に大阪に来て、下山に結婚を申し込んだといふ。 『妾もヒョットしたら、行つてみたい気になつたかも知れません』といふ、何故行かなかつたかと尋ねると『でも阿母さんが、アンナ狗の子でも貰ふやうに思つてゐる人には行つては不可ないと、それはそれは八釜敷かつたのです』は何処までも変つた女なり。 求婚広告が飼い犬のやり取りみたいだから駄目だと、母親が反対した。それで京子人もやめたといふ。京子人の気持ちはなんだか曖昧だ。 「世の

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    sphynx 2015/11/07
  • 辰野九紫「されば虚業家は好んで彼等を使嗾するのである」 - 定斎屋の藪入り

    『虚業春秋』は双龍子著、思潮社刊、大正15年11月発行。著者はユーモア小説の辰野九紫の別名。 書は世上実業と称するものゝ中に、如何に多くの虚業の潜めるかを例示しつゝ、金儲けに手段を擇ばぬ悖徳漢が、紳士紳商として横行闊歩してゐる都大路の四ツ辻に立ち、西すべきか、東すべきかに迷へる、善良なる我国民に対して「進」(ゴー)「止」(ストツプ)の信号を発する、交通巡査の役を買って出たものである。 世間で実業といってゐるものの中には、実は虚業が多いといふ。直接には武藤山治の『実業読』に刺激されて執筆された。当は五ヶ月早い6月には発行される筈だったが、引き受けてくれる出版社が見つからずに難航した。 目次を見たゞけでも「これは面白さうだ。」とはいふが、さて自分の所から出版するのは都合が悪いと、どこの屋もイヤに尻込みする。その筈である。――A社の守り尊の如き実業界の元勲がコツぴどくやツけてある。B書

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    sphynx 2015/11/07
  • 中島健蔵「本を買うのも気合いである」 - 定斎屋の藪入り

    九月も半ばを過ぎ、こんな天気ならもう秋と言ってよい。秋は読書である。 中島健蔵『アサヒ相談室 読書 読み方・そろえ方・扱い方」は朝日新聞社のシリーズの一。ほかに「法律」「買い物」「信仰」などがある。 手元のものは初刷の記載なく、昭和28年7月20日第4刷。 相談室といっても質問に答へるのではなく、読書入門とか読書指南の趣。材料提供者として庄司浅水の名があり、初めのの種類・管理法など一般的なものから、次第に著者独自の経験や見解があらはれてくるのが面白い。 初めの方でも「新しいのあけ方」で「表紙を百八十度以上に開くことはよくない。ことに大切なや、古いでもろくなっているものを開く時には、決してむりをしないで、自然に開く程度にとどめる」と指南してゐる。 蔵書の問題ではマイクロカードの普及を理想とする。 わたくしは、将来、マイクロカードを中心にする図書室が、津々浦々にできることを空想する。現

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    sphynx 2015/10/24
  • 川面凡児が夜外出できなかった理由 - 定斎屋の藪入り

    月刊『大日世界教』第22年第3、4号は『川面先生追慕録』として、昭和4年4月に発刊された。同年2月23日、川面凡児の帰幽を受けたもので、裏表紙に五十日祭のスタンプがある。葬祭の様子、小伝、諸家寄稿からなる。全170頁。 4月7日の追慕会発起人として頭山翁、床次竹二郎、平沼騏一郎、馬場愿治の4人、賛同者として今泉定介、筧克彦、吉田茂、鵜沢総明、牧野元次郎、松宮春一郎、葦津耕次郎、綾川武治、北吉ら20人、当日の来会者として秋山定輔、野間清治、神崎一作、牧口常三郎、星野輝興ら37人の名が挙がってゐる。 松宮は、杉浦重剛と川面の交友を述べてゐる。杉浦が、今度は夜に来てほしいといふと、川面はそれはできないと言ふ。 実はお恥しい極みであるが、家貧にして何らの備へなく、蒲団も充分ないので、老いたる母は一人では眠れず、毎夜私が同衾して、私の体温で温めてやらねばならぬから、夜分は外出することが出来ないと

    川面凡児が夜外出できなかった理由 - 定斎屋の藪入り
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    sphynx 2015/10/24
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