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hituzinosanpoに関するsphynxのブックマーク (15)

  • 本が でました: かどや/あべ編『識字の社会言語学』生活書院 - hituziのブログじゃがー

    かどや ひでのりと共編著を だしました。 「識字」と「非識字」を どのように認識するかという問題、日の識字率に まつわる幻想について、文字を かくということ/よむということの身体性と社会性について、識字運動を 障害者運動や障害学の視点から とらえなおし再検証する こころみ、識字問題への公共図書館の役割について、文字が よみかきできなくても社会生活で こまらないような社会にするには どうすれば いいのかについて かいてあります。読書案内と さくいんもあります。 識字の社会言語学 生活書院Amazon 第1章 日の識字運動再考 第2章 均質な文字社会という神話―識字率から読書権へ 第3章 てがき文字へのまなざし―文字とからだの多様性をめぐって 第4章 識字率の神話―「日人の読み書き能力調査」(一九四八)の再検証 第5章 近世後期における読み書き能力の効用―手習塾分析を通して 第6章 識字

    本が でました: かどや/あべ編『識字の社会言語学』生活書院 - hituziのブログじゃがー
  • だれも孤立させない。同時に、集団のインチキで ごまかさない。 - hituziのブログじゃがー

    かかわること。 - hituziのブログじゃがー つづきです。 最近、死刑についてのや 刑務所/拘置所[こうちしょ]についてのを じっくり よんでいます。あるいは、ミルグラムの心理実験についての(「心理学の、おすすめリスト」)。 社会問題を かんがえていて、差別感情で あふれている ひとを みると、そのひとと 自分は ずいぶん ちがうように感じられます。 あるいは、だれかを ケアするという福祉の しごとと、刑務官の しごとというのは、ずいぶん ちがうように感じます。 けれども、そんなに ちがわないのではないかと、ふと感じたとき、冷静では いられなくなります。こころ おだやかで いられなくなります。 きのう だったのか、もう わすれてしまいました。『私たちの幸せな時間』という韓国映画を みました。死刑囚と、面会する ひとの映画です。 日で出版されているでも そうですが、死刑囚と

    だれも孤立させない。同時に、集団のインチキで ごまかさない。 - hituziのブログじゃがー
  • 民族についての基本文献。 - hituziのブログじゃがー

    民族について、あるいは国民国家論。 小坂井敏晶(こざかい・としあき)『民族という虚構』東京大学出版会 酒井直樹(さかい・なおき)『死産される日語・日人』新曜社 ましこ・ひでのり『日人という自画像』三元社 アンダーソン『定 想像の共同体』書籍工房早山 田中克彦(たなか・かつひこ)『ことばと国家』岩波新書 西川長夫(にしかわ・ながお)『増補 国境の越え方』平凡社ライブラリー 花崎皋平(はなさき・こうへい)『増補 アイデンティティと共生の哲学』平凡社ライブラリー スチュアート・ヘンリ『民族幻想論』解放出版社 エリクセン『エスニシティとナショナリズム』明石書店 アイデンティティについては、つぎの4冊を。 石川准(いしかわ・じゅん)『アイデンティティ・ゲーム―存在証明の社会学』新評論 石川准『人はなぜ認められたいのか―アイデンティティ依存の社会学』旬報社 上野千鶴子(うえの・ちづこ)編『脱ア

    民族についての基本文献。 - hituziのブログじゃがー
  • 責任を ひきうける。 - hituziのブログじゃがー

    いくつかのはなし。「悪意ある責任論」の問題、いわゆる「たち位置(ポジショナリティ)」について、「おまえだって」という批判について。 差別について。 - hituziのブログじゃがー たとえば、わたしは知的障害者の施設で しごとをしてます(「あたえることには 意識的。うばいとることには 無自覚。」)。わたしの職場はグループホームも いくつも運営しているのですが、わたしの部署は入所施設です。社会の都合で、制限された空間を いきているひとがいます。そこで しごとを している わたしは、毎日の業務で なにを どうしようとも、正義などではありえないのです。これは社会全体の問題ですから、社会をつくりなおさないかぎりは、胸をはれる日など、おとずれはしないのです。それまで わたしは、差別者でありつづけるのです。 でもだからといって、わたしが自己批判をつづけて絶望して、無気力になって、死んでしまえば正義にな

    責任を ひきうける。 - hituziのブログじゃがー
  • 差別について。 - hituziのブログじゃがー

    差別。「差別はいけません」。「なくそう差別」。 うーーん。どうなんでしょうね。ちょっと、小山エミ(こやま・えみ、macska)さんの解説を みてみましょう。 macska dot org 差別についての、ごく基的な考え まず、一番大事なこと。わたしは「差別」という言葉で社会の諸制度や、それを含んだ社会システムのことを指す用法を取り、一般に「差別」と呼ばれる個別の行為や発言などは「差別的」と呼んで区別している。つまり、特定の人々に対して「不利益・不平等な扱いをすること」という行為のレベルではなく、特定の人々が「不利益・不平等な扱い」を受けるような社会のありかたを「差別」と呼び、個々の不平等な扱いは「差別的」もしくは「差別行為」として区別している。それは、「差別」とは主に社会のありかたの問題であり、個々の行為や発言などのことではないと考えているから。 いやあ、すばらしい。そのとおりですよね。

    差別について。 - hituziのブログじゃがー
  • 人間は自由だ。だから、かなしくなるのだ。でも、 - hituziのブログじゃがー

    ああ すれば よかったのに。こう すれば よかったのに。そうね。そうでしょうよ。 あなたさ、あいては一個人だ。ひとりの人間だ。 あなたの おもいどおりには、なりませんよ。なるわけが ないじゃないですか。 だから、かなしいんだ。でも、その かなしさを、うえから ふってくる権力で解決しようと しては、だめなんだ。 かってに ふってこらせては、だめなんだ。 人間は自由だ。だから、かなしくなるのだ。だから、なくんだよ。ないたりすることも あるんだよ。なにも いえなくなったりも、するんだよ。 けど、自由は たいせつじゃないですか? わたしは おもうのよ。自由は不安で かなしくて、でも、たいせつだから。だから、わたしたちが生活している、この社会を、もっともっと よりよくしていかないと いけないんだ。 そういうふうに かんがえましょうよ。 こたえの でない こたえに こだわるよりも、ゆるがない理念を た

    人間は自由だ。だから、かなしくなるのだ。でも、 - hituziのブログじゃがー
  • 『あれは自分ではなかったか―グループホーム虐待致死事件を考える』 - hituziのブログじゃがー

    きのう、ねるまえに『閉鎖病棟』という小説を よもうと おもったのですが、ひょっこり よみかけで放置していた下村恵美子(しもむら・えみこ)/高口光子(たかぐち・みつこ)/三好春樹(みよし・はるき)『あれは自分ではなかったか―グループホーム虐待致死事件を考える』ブリコラージュが でてきました。 今年の読書を ふりかえると、いくつか すばらしい であいが ありました。なかでも、『ケアという思想―ケア その思想と実践 1』収録の 三好春樹「ブリコラージュとしてのケア」に すばらしく感動しました。 三好さんのは、『ウンコ・ シッコの介護学』は もっていましたので、すこし意識していたのですが、「ブリコラージュとしてのケア」は、ほんとうに よく まとまっていて 衝撃的だったのでした。 それ以来、三好さんのを あれこれ よんでいますし、三好さんが発行している『月刊ブリコラージュ』も購読しています。それ

    『あれは自分ではなかったか―グループホーム虐待致死事件を考える』 - hituziのブログじゃがー
  • なみだ かれることなく(「人が支え合うとはなにか」)。 - hituziのブログじゃがー

    ねるまえに西原理恵子(さいばら・りえこ)さんの『毎日かあさん 5 黒潮家族編』を よんでいた。ないて、わらって、ないていたのだけど、あまりに なけてしまって、よんでいる途中で パソコンのまえに いま すわったところ。 金曜日は当直でした。きのうの土曜日は9時に しごとが おわり、どっぷり つかれていました。ちょっと ひるねして、最近わたしが ふかく尊敬している高口光子(たかぐち・みつこ)さんの『介護びっくり日記』を よんでいました。60ページを すぎたあたりから、もうだめでした。わんわん なきじゃくってしまった。このまえ はげしく ないたのも、高口さんたちの介護のでした(『あれは自分ではなかったか―グループホーム虐待致死事件を考える』)。 『介護びっくり日記』から一部を 紹介します。 日頃、排泄(はいせつ)の世話をいい加減にして、いい加減な事介助をして、いい加減な入浴介助をしている職員

    なみだ かれることなく(「人が支え合うとはなにか」)。 - hituziのブログじゃがー
  • ごまかしてきたのは自分の孤独だった。 - hituziのブログじゃがー

    なみだ かれることなく(「人が支え合うとはなにか」)。 - hituziのブログじゃがー 高口光子(たかぐち・みつこ)さんの『介護びっくり日記』を よんでいます。うえの記事にも かいたとおり、わたしは このを よみながら なきじゃくっています。いまさっきも このの後半を よんでいて むせびないていました。あまりに なけてしまうので、なんでだろうと おもえてきました。どうして ないてしまうのか。なんなんだ。この感情は なんなのだ。わからない。わからないけど、ことばにしたいと おもいました。つきとめたいと おもいました。 あたえることには 意識的。うばいとることには 無自覚。 - hituziのブログじゃがー 『あれは自分ではなかったか―グループホーム虐待致死事件を考える』 - hituziのブログじゃがー うえの ふたつの記事を かいたときも、ないていました。 わたしは、「あたえることに

    ごまかしてきたのは自分の孤独だった。 - hituziのブログじゃがー
  • べてるの家の「弱さの情報公開」。 - hituziのブログじゃがー

    べてるの家 べてるの家を ご存じですか? わりと有名ですね。 であれば、つぎの2冊をおすすめします。 『べてるの家の「非」援助論―そのままでいいと思えるための25章』医学書院 『べてるの家の「当事者研究」』医学書院 さて。きょうは『安心して絶望できる人生』生活人新書の一部を紹介します。「弱さの情報公開」という視点です。 …「問題」を起こさないことよりも、相談する力を身につけることと、浦河[うらかわ]流のいい方をすると「弱さの情報公開」が、地域の中で生き抜く大切な条件となるのです。 世は「個人情報保護」の時代です。しかし、個人の持つ情報の中で秘匿[ひとく]すべき情報はごく一部で、ほとんどが地域で暮らす一人の市民の有用な生活体験として共有すべき大切な情報なのです。ですから、早くから浦河ではそこに着目して、「弱さの情報公開――困った体験、失敗の体験、苦労の体験の公開」を提唱してきました。 「弱

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  • なんのための構築主義か(少数派のアイデンティティについて)。 - hituziのブログじゃがー

    「われわれ」を想像する権利 - Danas je lep dan. うえの記事の、最初の部分に違和感がありました。全文は うえのリンク先を よんでください。一部分だけ引用します。 前に書いた 真に他民族を尊重するということ - Danas je lep dan. の補足のようなもの。 ぼくは前々から構築主義※1を支持しながらアイヌなど少数民族の民族復興運動をも同時に支持している事について矛盾があるのではないかと感じていて,その二つの立場の整合性を取ろうとしたのが前掲エントリなんだけれど,図書館で雑誌をパラパラとめくっていたらしっくりくる表現を見つけた。 ※1:構築主義と源主義の違いについては,質主義と構築主義 - Danas je lep dan.を参照。 「構築主義を支持」するなら、「アイヌなど少数民族の民族復興運動をも同時に支持」するのは「矛盾」でしょうか。そんなことはありません。

    なんのための構築主義か(少数派のアイデンティティについて)。 - hituziのブログじゃがー
  • 朝鮮人差別について。 - hituziのブログじゃがー

    三浦耕吉郎(みうら・こうきちろう)編『構造的差別のソシオグラフィ』世界思想社 「私たちがある種の関係性のなかにおかれると、個々人のなかの偏見や差別意識の有無とは無関係に、差別に荷担させられたり、差別を引き起こしてしまうことがある」(みうら「序章 〈構造的差別〉のソシオグラフィにむけて」3ページ) マイノリティについて - hituziのブログじゃがー マイノリティは、ただマイノリティなのではない。マジョリティ(多数派)との関係において、マイノリティであるのだ。 日国籍を 一方的に おしつけ、うばいとる。 さて、かんたんに歴史的事実から。在日コリアン弁護士協会 LAZAK編著『裁判の中の在日コリアン』現代人文社より。 1910年のいわゆる日韓併合によって、朝鮮は日の領土とされ、朝鮮人は一律に日国籍を取得しました。その後、日による朝鮮半島の植民地支配が行われていた間、日国籍を有し、日

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  • わしもスターダストや(福祉労働者のために)。 - hituziのブログじゃがー

    京都大学時間雇用職員組合 Union Extasy : 個人ビラ(挑戦状)作りました(文責:unagi) わたしは、ユニオンエクスタシーのストライキに、心から賛同します。 わたしも、福祉の現場に身をおくスターダストです。 やっすい給料で、慢性的な人手不足で、かんがえつめたら ゆーうつになり、けれども やめるということが できないくらいに たくさんの笑顔に ひきとめられ、けれども いつも笑顔なわけじゃないという当然なことに胸を しめつけられ、ただ、いろんなことを ごまかすことで、毎日の しごとを こなしていく。 福祉労働者は、ゆーうつになるヒマもない。 社会が排除した。その排除とセットにあるものが、福祉施設だ。 どう かんがえても、おかしい。施設で 利用者の生活を 制限する。管理する。うばいとり、あたえる。それを させているのは社会だ。 けれども、現場に いないことで、だれもが わすれてしま

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  • 食料危機は なぜおきるか。 - hituziのブログじゃがー

    その地域での主は、その地域で つくるのが重要なことです(ここでいう「地域」は、国家などの規模だと かんがえてください)。なぜか。 そして、この世界では主である穀物を 輸入に 依存している地域がある。それは なぜなのか。 ここに、南北問題がある。 日でも、コメ騒動がおきた。1993年のことだ(1993年米騒動 - ウィキペディア)。タイ米が おいしくないという、たいへん失礼な声が でてきたのを、よく おぼえている。 ひとつ、しらなかったことがある。それは、あのとき、タイ米の輸入に せりまけた地域があったということだ。日が 突然 輸入した あの米たちは、いつもは どこに とどいていたのか。佐久間智子(さくま・さとこ)「糧自給と自由貿易」『オルタ』2008年 7・8号を みてみよう。 冷夏によってコメ不足に陥った日は国際市場からコメを買い漁り、挙句の果てにタイ米などを大量廃棄していた

    食料危機は なぜおきるか。 - hituziのブログじゃがー
  • ケーサツ権力と精神障害。 - hituziのブログじゃがー

    あたえることには 意識的。うばいとることには 無自覚。 - hituziのブログじゃがー うえの記事を かいたとき、わたしは ほとんど 頭が まわっていませんでした。かなしくて しかたが なかったのですね。 わたしは、知的障害者の施設で しごとを しています。きのうは当直でした。2時間くらいは ねむりました。けれども、ずっとずっと かんがえごとを していました。決着が ついたのか。結論は でたのか。なにも わかりません。 その夜、ずっと かんがえごとを しながら、ある フレーズが 頭を まわっていました。そのフレーズが、どうしても はなれなかったのです。ただ、そのフレーズを かいてしまっても、どうにも ならないではないかと 感じられたので、かくのは やめたのでした。けれども、きょうは かきます。冷静な いま、かいておきます。 それは、「わたしは ケーサツの テサキだ」ということでした。 こ

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