タグ

関連タグで絞り込む (0)

  • 関連タグはありません

タグの絞り込みを解除

kihamuに関するsphynxのブックマーク (12)

  • 震える思考 - on the ground

    twitterから。 3月11日 余震の不穏さというのは,特筆すべきものがある. posted at 15:20:11 今回の件でustはじめ,ソーシャルメディアの認知度と受け入れ・積極利用が広まるのは確実だろうな.自治体など公共団体のtwitterでの情報発信もますます増えるのだろう.10年ぐらいすると,あれが「〜元年」だった,みたいに言われるのかも. posted at 19:34:21 政局への影響もどう出ることか.都知事選へは,あんまり関係ないかもだけど. posted at 19:38:42 3月12日 暗闇に,絶えざる余震か.精神面も心配になるな. posted at 00:15:44 善意が凄いな.氾濫してる.善意が交錯したり,衝突したり,擦れ違ったり.twitterばかり見ていると,酔いそうになる. posted at 00:40:32 これが社会ですね. posted a

    震える思考 - on the ground
  • 差別はなぜ許されないか――区別との区別 - on the ground

    「風評被害」の虚飾の下に、差別が拡がっています。差別は昨日今日、生まれたのではありません。レイシズムもセクシズムも、宗教差別も出生地差別も、疾病・障害や能力その他の特徴による差別も、過去から現在まで一貫して存在しているものです。起きたことは、新たな材料が手渡されたというだけです。この事態に私たちができることは、「差別はよくない」とお題目を唱え、お説教をぶつぐらいしかないのでしょうか。 人は差別をするものです。そして多くの人は、自分が差別をしていることを認めたがりません。非難を避けるためには、「これは差別ではなく区別である」などと主張されることがあります。不当な別ではない、と言いたいわけです。 辞書的な意味を言えば、複数の対象をそれぞれ違うものとして分けることが、「区別」と呼ばれます。そして、それら異なるものの間で取り扱いに差を付けること、特に一方をとりわけ不利に扱うような類の差を付けること

    差別はなぜ許されないか――区別との区別 - on the ground
  • 来るべきステークホルダーへの応答――政治の配分的側面と構成的側面 - on the ground

    過去は到来する。未来は構成される。私たちが構成する未来が、誰かにとっての過去として、決定された形で到来するのである。原子力発電所と、それがもたらすコストとリスクについての思考は、私たちの視野に、ヒトの一生を超えるタイムスパンを要求する。もし政治が「価値の権威的配分」(D. イーストン)であるとするなら、その配分が同時に次の「政治」の条件を構成することへの視座も欠かすことができないだろう。それは、配分(分配)としての性格とは一応区別される、政治の構成的側面である。 法外なものとリークの射程――ウィキリークスをめぐって 「受益者負担」と言われながら、負担が未来へと先送りされるとき、私たちはどう考えればよいか。主要な問題は、システムの「持続可能性」などではない(それは二次的問題である)。コストとリスクを負わされる者に発言が可能でないことが問題なのだ――「代表なくして課税なし!」。今・ここで、語り

    来るべきステークホルダーへの応答――政治の配分的側面と構成的側面 - on the ground
  • クジ引きは民主的か? - on the ground

    クジ引きは民主的だと言われる。デモクラシーにとっての理想は、人民の中からクジで選ばれた人々が公職を担当することだと考えている人は多い。古代ギリシアの実例に範を採りながら、クジ引きこそ政治的平等と人民主権を究極的に実現する方法だと見なすのである。しかし実際には、クジ引きに民主的な要素など何もない*1。 デモクラシーと多数決の関係を考えてみれば解る*2。多数決は何らかの決定を行うための一方式であり、それ自体は民主的でも何でもない。有力貴族の間で次の国王を選ぶ際にも多数決は使えるのであって、多数決を行えば民主的と言えるわけではない。同様に、独裁者が次に誰を銃殺しようか決める際にもクジ引きは採られ得るから、クジ引きそのものが民主的な性格を有しているわけではない。 それにもかかわらず、クジ引きが民主的な方法だと見なされがちなのは何故か。錯覚がもたらされる経路を、デモクラシーの2つの構成要件である政治

    クジ引きは民主的か? - on the ground
  • デモクラシーを可能にする「オウム的なもの」――森達也『A3』から - on the ground

    A3 作者: 森達也出版社/メーカー: 集英社インターナショナル発売日: 2010/11/26メディア: 単行購入: 2人 クリック: 89回この商品を含むブログ (30件) を見る オウム側の視点から日社会を映した『A』『A2』の監督・著者による、『月刊PLAYBOY』連載(2005年2月号〜2007年10月号)に基づく単行化。今回の「A」は明確に「麻原」の「A」であるとして、2004年2月に一審判決が下り、2006年3月に高裁が控訴棄却、同年9月に最高裁が特別抗告を棄却して死刑が確定した麻原彰晃氏の裁判(2010年9月に再審を求める特別抗告を最高裁が棄却)と並走しながら、彼の実像に焦点を当てて書かれている。 教祖の生い立ち、家族、人となり、宗教家としての実際、法廷および拘置所での姿、教団の形成過程、教義の解釈と変遷、教祖と信者・幹部との関係、警察・検察・裁判所を含む社会の側の反応

    デモクラシーを可能にする「オウム的なもの」――森達也『A3』から - on the ground
  • アナーキーの3つの意味 - on the ground

    「アナーキー」の概念には、その語義・用法からして、おおよそ3つの意味が見出せる。第一の意味は、(1)無秩序である。これは秩序が失われた状態として否定的に言及される一般的用法のほか、特にヒエラルキーと呼ばれるような階統的な秩序の反対概念として、もっぱら記述・分析に用いられることがある。例えば、統一的な政府機構を持たない国際社会を指してアナーキーと言う場合が、これに当たる。したがって、記述・分析概念として用いられる場合のアナーキーは、無‐秩序なる否定的現象ではなく、一定の均衡状態≒秩序の現象形態を階統的/非階統的の軸上で分類する際の、一方の極を占める術語である。 第二の意味は、(2)無権力ないし無支配である。「an+archy」の由来からすると、もっとも原義に近いのはこの意味である。権力や支配の不在を指す、こうしたアナーキー概念に基づくなら、アナーキズムは無権力主義・無支配主義を意味することに

    アナーキーの3つの意味 - on the ground
  • リバタリアンな制度は児童虐待を解決するか - on the ground

    最近、世間では児童虐待の問題が大きな注目を集めている。こうした時勢を受けて、リバタリアニズム・ジャパン・プロジェクト(LJP)のサイトに相次いで興味深いエントリが挙がっている*1。リバタリアン経済学者として知られる蔵研也氏は、「児童保護警察(NPO)が必要だ」と題する記事で、虐待被害を受けている児童を保護するための案として、親権者の住居に無断で踏み込むことも辞さないような過激な「児童保護NPO」の活動と、「警察の分割・民営化」の2つを挙げている。この提案に対してanacapさんは、「子供売買を合法化しよう」と応じている。いずれも相当に刺激的・挑発的な議論である。 これらの提案に対して、強い反発を覚える向きも少なくないだろう。だが私自身は、これらが検討にも値しないような類の暴論だとは思わない。かといって賛成するわけでもない。どれだけ、そしてどのように値するのか、順に検討しよう。 とはいえ、そ

    リバタリアンな制度は児童虐待を解決するか - on the ground
  • ハンナ・アレントの「一般意志」論 - on the ground

    ルソーの「一般意志」論について考える上で、以下のような読解を引いて多くの人の目に触れやすくしておくことが、あるいは多少の意味を持つこともあるかもしれない。いささか長くなるが、ご容赦を願いたい。 このような多くの頭をもつ一者をつくりあげるためにルソーは、もっともらしい単純な仮説に頼った。彼は、相争う二つの利害は、この両者に同じように対抗する第三者に直面したとき互いに同盟を結ぶという一般的な経験にその手掛かりを求めた。政治的にいえば、彼は国民共通の敵が存在することを前提にし、その敵が味方を統一させる力に頼ったのである。敵が存在するばあいにのみ、フランス人やその他のすべての国民の理想、すなわち一つの不可分の国民のような事柄は実現されうる。したがって国民的統一は、国際関係における少なくとも潜在的な敵対関係のもとでのみ自己を主張することができる。この結論は十九世紀と二十世紀における国家的政策の暗黙の

    ハンナ・アレントの「一般意志」論 - on the ground
  • エドマンド・バーク『フランス革命についての省察』抜粋 - on the ground

    フランス革命についての省察〈上〉 (岩波文庫) 作者: エドマンドバーク,Edmund Burke,中野好之出版社/メーカー: 岩波書店発売日: 2000/07/14メディア: 文庫購入: 1人 クリック: 10回この商品を含むブログ (21件) を見るフランス革命についての省察〈下〉 (岩波文庫) 作者: エドマンドバーク,Edmund Burke,中野好之出版社/メーカー: 岩波書店発売日: 2000/08/17メディア: 文庫この商品を含むブログ (9件) を見る この王家を特定して継承を認めた法律は、ウィリアム王第十二年、十三年の法である。この法律の条項は以前に我々をウィリアム王とメアリ女王の子孫に結びつけてきたあの権利宣言と全く同じ文言のもとに、「我々とその子孫ならびに後継人を、彼らとその子孫ならびに後継人」がプロテスタントである限り、未来永劫にわたって結びつける。それは、世襲的

    エドマンド・バーク『フランス革命についての省察』抜粋 - on the ground
  • セックスは自己責任でよいのか――性のケイパビリティとセックスワークの原則自由化を考える - on the ground

    このブログでセクシュアリティの問題を扱ったことは、あまりない。採り上げるほどの興味を持っていないということもあるが、セクシュアリティについて語ると、多かれ少なかれ個人的経験と結び付けて考えざるを得ない部分が必然的に出てくるので、ややためらわれるということが大きい*1。ただ、以前から考えていることはあるので、一度まとめて書いておくのもいいだろう。多分に問題提起的な性格の記事で、ほとんど何も調べずに書くことになるので、ツッコミどころは多いかもしれない。批判は歓迎するが*2、十分にお返事できるかどうかはわからないので、悪しからずご了承あれ。 人間の三大欲求は欲・性欲・睡眠欲だとよく言われるが、欲や睡眠欲の充足は社会的な手当てが必要だと考えられているのに対して、性欲の充足は倫理学や社会政策が問題にする人間の基的「必要need」からも除外されていると言っていい。これは実に深刻な問題である。とに

    セックスは自己責任でよいのか――性のケイパビリティとセックスワークの原則自由化を考える - on the ground
  • 哲学的想像力と政治学的想像力 - on the ground

    東浩紀の議論に絡めて色々書き散らしてきたので、この辺りで一旦整理。国家や民主主義などに直接かかわるものだけ、まとめておく。時系列にする意味はあんまり無いと思うので、改めて載せておきたいところを拾いながら(注は省略)、その結び付きで並べていく。とりあえず全体を概観できるものから。 「現代日社会研究のための覚え書き――ネーション/国家」、2008年10月27日 以上のような認識に立つと、ポストモダン社会では、「共通の行政、共通のデータベース、共通のネットワークのうえに、異なった価値観を抱えた無数のサブカルチャーが林立するという、一種の二層構造」が採用されざるを得ないとする東浩紀の議論は、説得力を増す。東によれば、象徴的統合が不可能になった現代では、複数の象徴的共同体(「小さな物語」)の層における利害衝突が、その下にある非理念的なシステムの層――「大きな非物語」――で工学的に解決されるという「

    哲学的想像力と政治学的想像力 - on the ground
  • 暴力の定義について - on the ground

    http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20091008/p1 「文化的暴力」というのは概念的には半端で、無くてもいいものだと思う。政治的には重要なんだろうが。 それにしても、「暴力」の語に反発を覚える人は多い。以下はまず、ご参考までに。 「暴力とは何か」(2008年6月15日) この記事で引用されている箇所の前段も少し長めに引いておく。 それでは、再び「暴力violence」についての議論に戻ろう。管見の限り、暴力概念についての厳密かつ独立した定義として検討に値するのは、ほとんどJ.ガルトゥングによる定義しかない。ガルトゥングによれば、暴力とは、「可能性と現実の間、すなわち、可能であったことと今ある状態との間の差異を生じさせた原因」である。すなわち、「暴力が存在するのは、人々が実際に肉体的・精神的に実現したものが、彼らが潜在的に実現し得たものより低水準になるような形

    暴力の定義について - on the ground
  • 1