怒りなどと言う感情はなんの役に立っているのだろうか。いいことなんて無いじゃ無いか。という意見は時々見かける。(たとえば、怒るメリットって何かあるんだろうか - 諏訪耕平の研究メモ) そうでもないと私は思う。 怒りは、自分の存在を侵害するものに対して戦いを開始するための感情だ。 動物にとっては存在に対する侵害とは肉体を損壊することだ。それは危険な他の動物としてやってくる。そのとき動物はまず相手が勝てる相手か見極め、勝てないと判断したら恐怖を感じて逃げ出す。反対に勝てる相手だと判断したら、怒りを起こす。人間の場合は肉体の損壊が危ぶまれるような状況はあまり無く、存在に対する侵害というのは大抵の場合、精神的なものだけど。たとえば自分のプライドが傷つけられたり、自分の信念が揺らいだりだ。 だから 人は「怒っても大丈夫」と確認してから,怒る。 - 諏訪耕平の研究メモ の記事が言うように、怒りを発する一
まずはaskerとguesserについてのこの記事 言ってみる人と空気を読む人(経済学101) 世の中には、とりあえず聞いてみる人(Asker)と空気を読む人(Guesser)がいるという話。日本人には馴染み深い話題だ。 ... どちらかにくっきり別れるわけではなく、日本に比べると英米はとりあえず聞いてみる風潮が強いが、ロシア人に比べればまだまだということ。何か東欧系の知り合いの顔がぱっと浮かんだのも気のせいではあるまい。 というわけでアメリカ人というのは、日本人ほどではないかもしれないけど、世界の中ではどっちかと言うと空気を読む人たちのようだ。一方、私もロシア人のともだちがいたけど、確かに話していると本当に楽ちんで好き。なんも気を使わなくていいから。 この傾向はアメリカの元になったイギリスではより甚だしいようだ: 空気を読むイギリス人(脳と意識の最先端を目指そう) イギリスでの研究環境に
マクロ経済学のミクロ経済的基礎付け:フォーリー=シドラウスキによる試み(id:himaginary) すべての商品の市場があらゆる条件下のあらゆる将来時点において存在するという仮定の下で、マクロ経済の現実を単純な集計値で表すことができた。しかし、結果として描き出されたマクロ経済の現実には、幾つか問題となる特徴があった。例えば、競争的一般均衡は効率的なものなので、稼動すれば費用を賄えるだけの生産性を持つ資源が活用されないという状況とは相容れなかった。これでは、失業率や工場や設備の稼働率が大きく変動するという通常良く見られる現象が説明できない。 あー、そうか。近年マクロ経済学の論文では同時にミクロ的な基礎付けをすることを要求されているらしいのだけど、それはそう言う理由から始まったのか。 つまり、間違っているかも知れないけど、物理にたとえると、熱力学や平衡状態の統計力学では粘性や散逸なんかを扱う
ああ、これだ! ユークリッド幾何にあらわれるような「直線」の虚構性を例として使えばいままで説明しずらかったアレが説明できる: 「心のなかですべての物をしかるべき位置に正しい比率で配置する」ためには、外の現実世界とは切り離された形で、心のなかにレイアウト用のグリッドが存在している必要がある。そのグリッド空間は、「自然から切り離された視覚空間で」でも指摘したとおり、外の世界の物理的な制約も受けず、無限の空間をもつ。直線はどこまでも延長可能で、2本の平行線は無限に延長されても交わらない。そのような連続的な内面空間がアルファベット誕生以降の人間の頭にはインストールされているとするのがマクルーハンの論旨である。 インストールされた想像力:DESIGN IT! w/LOVE つまり、ユークリッド幾何にあらわれるような無限の直線などと言うものは本当は存在しない。我々の周りにあるのは常に有限な線分だけだし
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