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  • [ヒロシマの空白 街並み再現] 帰還兵もてなす「婦人会」 「軍都広島」の宇品港

    「愛国婦人会」ののぼりを立てた着物姿の女性たちが、日の丸を手に並んでいる。満州事変から1年余り後の1933年1月、中国大陸から宇品港(現広島港、広島市南区)の軍用桟橋を渡って帰還した兵士たちを出迎えている写真だという。 梶矢祥弘さん(84)=同=が保管してきた。祖母の故マエさんの遺品のアルバムにあった16枚の中の1枚だ。野外で茶を振る舞うカットには、日髪を結ったマエさん自身が写る。兵士の襟の記章を拡大すると「30」の数字。新潟県に駐屯した歩兵第30連隊が同時期に宇品港に到着しており、事実関係は符合する。 梶矢家は当時、三篠町(現西区)で筆の製造・販売をしていた。41年に太平洋戦争が始まると、マエさんは古里の今吉田(現北広島町)に疎開。アルバムは原爆で焼けずに残った。軍港は原爆投下後、大勢の負傷者を沖合の似島に運ぶ拠点となった。 梶矢さんは最近まで、いずれの写真も市中心部の西練兵場だと思

    [ヒロシマの空白 街並み再現] 帰還兵もてなす「婦人会」 「軍都広島」の宇品港
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    torly 2022/05/23
  • [ヒロシマの空白 街並み再現] 旧猿楽町 生き生き 爆心直下 写真14枚見つかる

    原爆ドーム(広島市中区)を残して壊滅した爆心直下の旧猿楽町で、戦前に撮影された写真が相次ぎ計14枚見つかった。原爆資料館(同)によると猿楽町の写真は珍しく、特に相生通りの北側で撮られたカットはほとんど確認されていない。いずれも商店がひしめく街並みなどを生き生きと捉えている。(桑島美帆) 路上にしゃがみ込んでほほ笑む子どもたち。現在は「メルパルク広島」の辺りで、1940年ごろ撮影された。持ち主は元住民の細野澄子さん(91)=西区。「とび職の細工さんの倉庫の前です。かくれんぼか何かをしよった時でしょう」 実家の「松電機商会」は、撮影場所の南斜め向かいにあり、父親の松房之助さんがラジオの修理を手掛けていた。周りには、しょうゆ店や旅館、眼科などが並んでいた。「みんな仲が良く、にぎやかだった」。原爆により一瞬で破壊され、住民の多くが亡くなった。雑魚場町で建物疎開作業中だった房之助さんも犠牲になっ

    [ヒロシマの空白 街並み再現] 旧猿楽町 生き生き 爆心直下 写真14枚見つかる
  • 軍都の広島史 カレンダーに 平和教育研究所

    広島県内の教職員たちでつくる広島平和教育研究所(広島市東区)は、2021年度版のヒロシマ平和カレンダーを作った。「軍都だった広島」をテーマに、加害の歴史にもスポットを当て、平和の尊さを訴える内容に仕上げた。 日清戦争を機に軍隊を送り出す拠点として発展した宇品港のほか、広島城(中区)にあり原爆投下の第一報を伝えた中国軍管区司令部について、写真や振り仮名付きの説明文で紹介。軍服を供給した「旧陸軍被服支廠(ししょう)」や大久野島(竹原市忠海町)の毒ガス製造工場なども取り上げた。 阿部直文事務局長(57)は「軍都としての広島を学ぶ機会は多くない。歴史を多面的に学ぶために役立ててほしい」と話している。 B4判で2800部を印刷。県内の学校に配り、希望者には1部千円(送料別)で販売する。広島県教育用品☎082(264)1750。 (2020年12月15日朝刊掲載)

    軍都の広島史 カレンダーに 平和教育研究所
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    torly 2022/04/17
  • 被爆と復興の社史を写真で 広島トヨタが図録

    広島トヨタ自動車(広島市中区)は被爆75年に合わせ、原爆による壊滅と戦後復興を経た社史を紹介する写真図録「ヒロセキタマチ物語」を発行した。1946年ごろから50年代にかけて撮影されたカットが中心だ。 58年に市内で開かれた広島復興大博覧会の宣伝カー。地場企業に納めたトラックや特装車の横で、生き生きとした表情を見せる整備士たち。雑草に覆われた舗装前の平和大通りやバラックが並ぶ平和記念公園など、街並みを捉えた写真を地図の周りに配した「想い出マップ」も掲載している。 計80枚ほどのうち約50枚が、車体の板金加工などに長く携わった故中川輝義さんの遺品。今夏、長男太芽雄(ためお)さん(87)=廿日市市=からアルバムの寄贈を受けた際、藤井一裕社長(56)が「逆境に立ち向かった人びとの底力を感じる。会社と従業員たちが地域に寄り添ってきたことを伝えたい」と思い立った。 同社は、藤井社長の祖父巌さん(89年

    被爆と復興の社史を写真で 広島トヨタが図録
  • [ヒロシマの空白 被爆75年 街並み再現] 踊り子や宴会 心弾む世界 壊滅前の羽田別荘

    広島市中区舟入町の料亭「羽田別荘」は戦前、子どもも大人も楽しめる、いわばテーマパークだった。原爆で壊滅後、焼け野原から再起した。女将(おかみ)の羽田悦子さん(71)が先代から受け継ぐアルバムや、「羽田別荘少女歌劇団(ハダカゲキ)」にいた故松永勝子さん寄贈の写真などから戦前戦後をたどる。(桑島美帆) カメラを構える男性たちの前で、踊り子たちがポーズを決めている。1938年ごろ庭で撮影されたとみられ、当時のにぎわいが伝わってくる一枚だ。 羽田別荘は、故羽田謙次郎氏が1900(明治33)年に茶屋として始めた。近くに西遊郭がある立地。周辺の田畑などを買収し、最盛期は約1万3千平方メートルの敷地を有した。ヒョウやラクダがいる動物園や、桜の名所としても知られた。 29年に市内で開催された昭和産業博覧会のパンフレットには「簡易な堂もあり半日夜にかけて遊ぶも飽かず」「子供連れは、博覧会と羽田動物園が一番

    [ヒロシマの空白 被爆75年 街並み再現] 踊り子や宴会 心弾む世界 壊滅前の羽田別荘
  • 被爆地広島 復興たどる 西区で「明田弘司写真展」

    被爆地広島の戦後を追い続けた写真家明田弘司さん(1922~2015年)の歩みをたどる特別展「没後5年 明田弘司写真展 昭和を歩く」が23日、広島市西区の泉美術館で始まった。復興していく街の活気や営みを今に伝える。 未発表作を含む約250点が並ぶ。1950~60年代を中心に、駄菓子を選ぶ子どもや三輪トラックに荷物を積む男性、混み合う広島駅など、復興期の日常風景を切り取る。たくましく生きる人々の笑顔が際立つ。64年の東京五輪で相生橋を渡る聖火ランナーや、61年に開通した音戸大橋といった歴史的場面も活写する。 明田さんと親交があったという西区の名柄堯さん(86)は「どの被写体も自然体。明田さんの温かな人柄がにじむ」と見入っていた。12月13日まで。月曜休館(11月23日は開館)。同館と中国新聞社の主催。(福田彩乃) (2020年10月24日朝刊掲載)

    被爆地広島 復興たどる 西区で「明田弘司写真展」
  • 戦前 教員オケの情熱 広島高等師範の「丁未音楽会」 1930年代写真残る

    広島高等師範学校(現広島大)の教員たちが結成したオーケストラ「丁未(ていみ)音楽会」が1930年代に開いた演奏会やラジオ出演の様子を撮影した写真4枚が残っていた。広島でのクラシック演奏の普及に貢献した竹内尚一氏(05~58年)の姿も捉えている。広島大文書館(東広島市)に「丁未」の戦前の演奏会の写真はなく、原爆で一度途絶えた初期の広島音楽史を記録する貴重な史料だ。(桑島美帆) 聴衆が見守る中、学生服や背広を着た男性たちがバイオリンを奏で、ステージの横にはグランドピアノも見える。34年に広島高等師範学校付属中(現広島大付属中)に音楽教員として赴任した竹内氏が東千田町(現中区)の講堂で初めてタクトを振った演奏会だ。 広島大文書館などによると丁未音楽会は、音楽教育を研究し、西洋音楽を広めるため、06年に広島高等師範学校の教員と生徒の有志で結成した。楽団名は格的に演奏活動を始めた翌年の干支(えと)

    戦前 教員オケの情熱 広島高等師範の「丁未音楽会」 1930年代写真残る
  • 天満屋八丁堀ビル、ネオン塔や屋上遊園地 懐かしの姿 | 中国新聞デジタル

    広島市中心部、中区胡町の天満屋八丁堀ビルには解体の計画がある。いまは家電量販店などが入る複合商業ビルだが、長らく百貨店だった場所だ。関連ニュースを伝えるたび、会員制交流サイト(SNS)かいわいには往時を懐かしみ、故郷の変貌を惜しむ声が広がる。(奥田美奈子) ▽1980年、百貨店の隆盛物語る1枚 百貨店が並ぶ広島市中心部。手前から三越、天満屋、福屋。天満屋の屋上にはシンボルタワーが見える(1980年) 1980年の胡町一帯をとらえた1枚は、百貨店の隆盛を物語るようだ。相生通り沿いに手前から三越、天満屋、福屋と三つの百貨店が並んでいる。さらに約500メートル先には、そごうも店を構え、全国有数の激戦区だった。 百貨店や量販店が密集する広島市中心部(1975年) 天満屋八丁堀ビルの屋上付近に注目したい。いまと異なる光景がある。山紋に「天」を組み合わせたロゴマーク上に、高さ約29メートルの「シンボル

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    torly 2021/08/16
  • [ヒロシマの空白 被爆75年 街並み再現] 写真が刻む被爆前の慈仙寺

    現在の平和記念公園(広島市中区)内にあった慈仙寺の堂内部を、被爆前に撮影した写真が残っていることが分かった。爆心直下で壊滅する前の寺の内部を捉えたカットは、これまで確認されていない。二家睦雄さん(92)=岩国市=が、ここで寝泊まりした記憶とともに大切に保管してきた。(新山京子) 寺の堂に机を並べて、事を前に手を合わせる44人の少年たち。当時15歳だった二家さんは、旧鉄道省広島鉄道局の新人研修を受けていた。旧中島町にあった寺の堂や別棟を間借りして約2カ月間、鉄道業務を学んだという。「広い堂に枕を敷き詰めて、同僚たちと雑魚寝したのを覚えています」。写真は1942年5月、修了記念に撮影された。 慈仙寺は爆心地から約200メートル。45年8月6日、原爆に焼き尽くされ、境内にいた梶山仙齢住職=当時49歳=とヒサエさんたち家族5人が犠牲になった。直後から境内は臨時の火葬場となり、おび

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  • 「ウェブギャラリー」開設 広島市公文書館 第1弾絵はがき 所蔵資料の無料ダウンロードも

    広島市公文書館(中区)は、所蔵資料をホームページから無料でダウンロードできる「ウェブギャラリー」を開設した。第1弾として「絵はがきに見る戦前の街と市民の暮らし」をテーマに、原爆投下前の広島の街並みを写した絵はがきのデータを公開している。 所蔵する3673点の絵はがきから閲覧が多い100枚を選んだ。スズラン灯が並び、買い物客でにぎわう昭和初期の通り商店街や、向宇品海水浴場で泳ぐ子どもの姿などで、当時の暮らしぶりがうかがえる。 今後も、終戦翌年の市勢要覧などの行政資料をはじめ、原爆投下前の広島城や県産業奨励館(現原爆ドーム)の絵はがきの画像を掲載する予定。向久保亨館長(59)は「絵はがきは戦前の広島を知る貴重な資料。ギャラリーを通じて当時の様子を知ってほしい」と閲覧を呼び掛けている。(猪股修平) (2020年9月11日朝刊掲載)

    「ウェブギャラリー」開設 広島市公文書館 第1弾絵はがき 所蔵資料の無料ダウンロードも
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    torly 2021/04/20
  • 基町に「復興」色濃く 中区 市営アパートで写真展

    広島市中区の市営基町アパートと周辺の街並みの変化や歴史を伝える「基町写真展」が、同アパートで開かれている。芸術やデザインを生かして地域ににぎわいを生む「基町プロジェクト」の一環で、市と市立大(安佐南区)が共同で企画した。30日まで。無料。 戦時中に現在の場所にあった広島第二陸軍病院の写真をはじめ、戦後に建設が始まったアパートの完成予想図を眺める市民、完成後の盆踊り大会など、街の歴史や住民の日常を写した約60枚。住民や元住民が提供した。 6回目の今回は、作品を見ながらアパート周辺を巡ってもらおうと、空き店舗や建物の柱など9カ所に分散して展示した。 基町中央商店会会長で精肉店を約35年営んでいる吉田武さん(77)は「昔の活気があった頃を思い出して懐かしい」としみじみ。プロジェクトスタッフの同大非常勤特任教員増田純さん(31)は「原爆からの復興の歴史が詰まった基町の移り変わりを見てほしい」と話し

    基町に「復興」色濃く 中区 市営アパートで写真展
  • エリザベト音大開校 ゴーセンス神父 戦時中 抑留の姿記録

    エリザベト音楽大(広島市中区)の初代学長で戦後の音楽教育に尽力した故エルネスト・ゴーセンス神父の写真の複写を、被爆者の森重昭さん(83)=西区=が同大に寄贈した。戦時中、三次市の民間人抑留所で撮影されたカットで、同大は「当時の関係資料は少なく、貴重」と話す。 森さんによると、写真は1942年ごろ抑留所の建物前で撮影。ゴーセンス神父の他、同じく収容されていた煉獄(れんごく)援助修道会三篠修道院(現西区)のシスター4人らも写っている。米兵捕虜などの原爆犠牲者について研究を続ける森さんが10年ほど前、抑留所を警備していた元警察官の遺族から複写を入手したという。 抑留所は太平洋戦争の開戦後に開設。幟町教会(現中区)の司祭だったゴーセンス神父も「敵国」のベルギー国籍であることから収容され、その後、移送先の埼玉県内の抑留所で終戦まで過ごした。戦後に広島へ戻って48年、復興に取り組む市民に音楽で希望や夢

    エリザベト音大開校 ゴーセンス神父 戦時中 抑留の姿記録
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    torly 2021/01/07
  • 被爆後の日常 生きる強さ写す 県立美術館特別展 広島の6人 切り取った街

    広島県出身の写真家6人の作品を集めた特別展「日常の光 写し出された広島」が、広島市中区の広島県立美術館で開かれている。「日常」を切り口に、被爆直後から現代までの広島の写真がそろう。(福田彩乃) 作家ごとに計約130点を紹介する。冒頭には、当時中国新聞社のカメラマンだった松重美人(1913~2005年)が、被爆直後の御幸橋一帯や翠町を撮影した5枚が並ぶ。髪の毛は焼け縮れ、服はぼろぼろになり、立ちすくみ、へたりこむ人々。一瞬にして日常を奪われたあの日の広島の記録だ。 続く明田弘司(1922~2015年)の作品群から、展示の印象はがらりと変わる。水着姿で平和大橋の欄干にまたがる少年、カキいかだの竹材で遊ぶ子どもたち…。終戦から10年前後、明るくたくましい人々の姿が印象的だ。「復興への希望が被写体に託されている」と山下寿水学芸員。「地元の写真家だからこそ撮れる日常の情景」が広がる。 原爆で家族を失

    被爆後の日常 生きる強さ写す 県立美術館特別展 広島の6人 切り取った街
  • [ヒロシマの空白 被爆75年] 仲良し家族 生きた証し 資料館寄贈のアルバム。6人みんな笑顔だった

    被爆前に広島市中心部で理髪店を営んでいた鈴木六郎さんが残し、原爆資料館(広島市中区)に託された計3千枚以上の写真アルバム。一家全滅を強いられた家族の生きた証しが刻まれると同時に、被爆前の街を伝える写真資料の「空白」を埋める貴重なカットだ。資料館は整理を進め、来年の新着資料展などで紹介する。(水川恭輔) 百貨店の福屋などが立ち並ぶ繁華街の八丁堀(現中区)、通り商店街の近くの店先で遊ぶ六郎さんの子ども…。写真は被爆前の市内のにぎわいや笑顔にあふれる家族の日常を伝える。写真を張ったアルバムには六郎さんが「僕の子供時代ソツクリだ」などとわが子への思いも記している。 しかし、原爆で6人家族の日常は奪われた。六郎さん=当時(43)、長男英昭さん=同(12)、長女公子さん=同(9)、次男護さん=同(3)、次女昭子さん=同(1)=が犠牲に。重傷を負い、家族が誰も助からなかったらしいと知らされたフジエさ

    [ヒロシマの空白 被爆75年] 仲良し家族 生きた証し 資料館寄贈のアルバム。6人みんな笑顔だった
  • [ヒロシマの空白 被爆75年] 投下前の写真3000枚寄贈 理髪店主ら撮影 資料館が整理

    被爆前の広島の街や市民生活などを記録した写真3千枚以上が原爆資料館(広島市中区)に寄贈された。現在の中区の通り商店街の近くで理髪店を営み、被爆死した鈴木六郎さんが残していた。資料館は、原爆で壊滅させられる前の広島の姿を伝える貴重な資料として整理を進めている。 1920年代前半から40年代前半にかけて、通り商店街など市内の繁華街をはじめ、広島県産業奨励館(現中区の原爆ドーム)、広島駅、広島城などで、家族や市民の姿を表情豊かに撮った。大半はカメラが趣味だった六郎さんの撮影。多くはアルバムに撮影日や場所を記してあった。 六郎さんと子の家族6人は、米国の原爆投下で一家全滅した。写真は、おいの鈴木恒昭さん(88)=広島県府中町=が保管していた。2014年に一部の写真データを資料館に提供したが、将来への保存を願って今回、プリントの全てを資料館へ託した。(水川恭輔) (2020年8月5日朝刊掲載)

    [ヒロシマの空白 被爆75年] 投下前の写真3000枚寄贈 理髪店主ら撮影 資料館が整理
  • 被爆前の街 色鮮やかに 戦前・戦争 355枚をAIでカラー化 写真集 東京大の庭田さんら出版

    戦前から終戦直後までに撮影された写真を人工知能(AI)技術でカラー化して収録した写真集を、東京大1年庭田杏珠さん(18)=広島市東区出身=が同大大学院の渡邉英徳教授(45)との共著で出版した。爆心直下の被爆前の街並みなどを、色鮮やかに「再現」している。 新書判の「AIとカラー化した写真でよみがえる戦前・戦争」で、これまでに手掛けた千枚以上の中から355枚を選び掲載している。太平洋戦争中に空襲で焼け野原と化した東京と大阪、地上戦が行われた沖縄の惨状、終戦後の市民の生活―。色付け後、持ち主に見せたり資料を調べたりして綿密に取材し、実際の色に近づけようとした。 庭田さんは広島女学院高の在学時から、渡邉教授の指導で写真の収集とカラー化に取り組んでいる。広島関連の約50枚は旧中島地区が中心で、元住民から原爆に奪われた家族や季節の行事の思い出などを聞き取り、編集に生かした。カラー化写真の一部は被爆建物

    被爆前の街 色鮮やかに 戦前・戦争 355枚をAIでカラー化 写真集 東京大の庭田さんら出版
  • [ヒロシマの空白 被爆75年] 8・6前日 笑顔のわが家 広島の茶葉店、写真を展示

    広島市中区十日市町の茶葉専門店「綿岡大雅園」に、原爆で両親と妹3人を失った綿岡智津子さん(2011年に82歳で死去)が大切にしていた家族写真が保管されている。原爆投下の前日の撮影とみられる。「75年前に奪われた日常を伝えたい」。店を継ぐ長女の岩田美穂さん(62)は7月末、店内にささやかな展示スペースを設けた。(桑島美帆) ワンピース姿ではにかむ2人の女の子。口元から、生え替わり始めた歯ものぞく。智津子さんの妹の裕乃さん=当時(6)=と公乃さん=同(3)=だ。「戦争中とは感じさせない。今の子どもと変わらない笑顔です」と岩田さんが目を細めた。 綿岡大雅園は智津子さんの父・重美さんと母・光子さんが営む茶問屋だった。一家が郊外へ疎開するのを前に、写真館に頼んで自宅で数枚撮ったという。8月6日、爆心地から約740メートルの自宅と一帯は壊滅した。 16歳だった智津子さんが動員先の軍需工場から自宅跡に戻

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  • [ヒロシマの空白 被爆75年 街並み再現] 暮らし語る100枚 福山の遺族 写真保管

    被爆前の広島市内を収めた写真約100枚が、46歳で被爆死した故三島捨一さんの福山市に住む遺族から中国新聞に寄せられた。広島市中区の通り商店街近くの街並みや戦時中の運動会など、様々な生活風景を活写している。原爆資料館(中区)によると「当時の市民の日常が写されており、貴重な資料」という。 三島さんは通り近くの旧西魚屋町(現中区袋町)で「喫茶フラゥア(フラワー)」を営み、カメラが趣味だった。洋服店や旅館が軒を連ねた同町の通りが数多く撮影されている。戦地に赴く兵士を市民が見送る姿も記録。近くの白神社、広島県庁、劇場や火葬場などの写真もある。 裏面の検閲印などから1930年から44年ごろまでの撮影と推定される。写真はトランクに入っており、三島さんが古里の瀬戸村(現福山市)に疎開させていたとみられる。(水川恭輔) (2020年6月21日朝刊掲載)

    [ヒロシマの空白 被爆75年 街並み再現] 暮らし語る100枚 福山の遺族 写真保管
  • パルチコフ一家 被爆前の日常 白系ロシア人、1922~45年に広島で撮影 米在住の遺族、300枚所蔵

    広島女学校(現広島女学院中高、広島市中区)の音楽教師だった白系ロシア人被爆者、セルゲイ・パルチコフさん(1893~1969年)の22~45年撮影の写真約300枚を米国在住の遺族が所蔵していることが分かった。カメラが趣味だったパルチコフさん自身が街角で撮影した家族の写真も多数ある。(新山京子) 店の前でハトに餌を与える子どもたち。泉邸(現縮景園、中区)で記念撮影に収まる家族。幼い弟を乗せてベビーカーを押す長女カレリアさん…。市民生活に溶け込んでいた一家の日常が伝わる。カレリアさん(2014年に93歳で死去)の長男アンソニー・ドレイゴさん(70)=カリフォルニア州=が保管している。 広島女学院歴史資料館(東区)の西原眞理子さんは「人撮影の写真は所蔵していない。当時を知る貴重な資料」と話す。市公文書館(中区)や原爆資料館(同)もパルチコフさん関係の写真は持っていないという。 パルチコフさんが被

    パルチコフ一家 被爆前の日常 白系ロシア人、1922~45年に広島で撮影 米在住の遺族、300枚所蔵
  • 80年前の日常 輝く笑顔 現在の幟町小 東区の女性 写真保管

    80年前に撮影された幟町尋常高等小学校(現在の幟町小、広島市中区)の写真の複写を、同校に通っていた広島市東区の山之上弘子さん(87)が保管している。日が日中戦争から太平洋戦争へと突き進む中、まだ子どもたちの笑顔があった当時の日常を伝える。 写真には、校庭で女性教員と輪になって遊ぶ山之上さんの同級生たちが写る。山之上さんは当時7歳。写真は1940年3月、上流川町(現中区胡町)に社屋があった中国新聞社の従業員が撮り、教員が受け取ったという。山之上さんは30年ほど前、存命だった教員から借りて複写した。 被爆死した同級生の家族にも複写を贈った。南区の村上貞子さん(77)。写真に写る教員の右側でレンズに顔を向けている村上文子さんの義妹だ。文子さんはこの5年後、県立広島第一高等女学校(現皆実高)1年生になり、建物疎開中に原爆に遭った。 山之上さんは「この写真を撮った後は、学校もお遊戯どころではなくな

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