Sometimes life just isn’t fair. Mark Zuckerberg created Facebook and is now worth an estimated $48bn (£33bn). James Goodfellow also invented something used by millions of people around the world every day – the cash machine – but it didn’t make him rich. In fact, on the eve of the 50th anniversary of his invention, the 79-year-old told Guardian Money that he earned just $15 (around £10) from the p
Loach, Ken. (dir.) 2012. The Angel's Share. Sixteen Films, Why Not Productions, & Wild Bunch. http://info.movies.yahoo.co.jp/detail/tymv/id344306/ 貧困とそれとセットになっている暴力的文化から抜け出すのが、 いかに難しいかという話を、 幻のウィスキーの競売をネタに描くドラマ。 奇跡的な能力とインチキの両方が必要というのが、しんどい。 抜け出す気になっても、並の能力では出口がない。 樽から蒸発していく「天使の分け前」程度は、 インチキがあってもいいだろうというとなってもしかたない気になる……。
閉館してしまう銀座テアトルシネマでケン・ローチの最新作『天使の分け前』を見てきた。 舞台はスコットランドでも幸せ度が低い街として有名なグラスゴー(『NEDS』の舞台)。暴力犯罪で猛烈な前科がある若者ロビーがガールフレンドとの間に子供をつくり、父親として真面目になろうとするが、昔からの悪評のせいでなかなかうまくいかない。しかし社会奉仕サービスのボスであるハリーにウイスキーのことを教えてもらい、テイスティングの才能が開花。真面目に生きたいのに過去のしがらみのせいでなかなか安全な暮らしを手に入れられないロビーは、この才能を生かして仲間と組んで一発逆転のための大勝負に出る…という話。 とりあえず、ケン・ローチとは思えないほど明るい話なので全くびっくりする。ケン・ローチじゃなくても90年代より前のUK映画なら、ロビーが幸せになりそうになったところで敵対するヤクザに襲われて死亡という悲劇だろうと思うの
Margaret Connel Szasz, Scottish Highlanders and Native Americans: Indigenous Education in the Eighteenth-century Atlantic World (『スコットランドのハイランダーとアメリカ先住民:18世紀大西洋世界における先住民教育』), University of Oklahoma Press, 2007 を読んだ。あまり私の専門領域に近くはないのだが、面白かったのでご紹介。 タイトルからするとなんじゃそりゃという感じだが、よく考えるとスコットランドのハイランダー(北の高地のほうに住んでる人たち)とネイティヴアメリカンはどっちもBravesとか言われてなんとなくロマンティックで勇敢な先住民扱いされている人々であり、そういうイメージがどう形成されてきたか、ということを含めてこの二つ
本年度2回目のロンドンアイリッシュセミナーに行ってきた。カルロ・デニーナという18世紀イタリアの比較文学者の話で一見全くアイルランド文学とかには関係ないように見えるのだが、なんでもデニーナはEnglish writersとIrish, Scottishの作家たちを切り分けて分析した非常に早い例らしい。とくにデニーナはアイルランド文学を大変高く評価しており、とくにスウィフトやフランシス・ハチソン(アイルランド生まれのスコットランド人)なんかを褒めていて、ハチソンをスコットランドではなくアイルランドの書き手と見なしていたそうだ。あとデニーナはアーガイル公爵をパトロンとしていたのでスコットランドの文学にも非常に興味があったらしいのだが、コリン・マクローリン(たぶん数学者)のニュートン的な思想とライティングスタイルを評価してたとかいう話をしていて、どうも文学をかなり広く考えていたようである。 で、
ニール・ゴードン・マンロー ニール・ゴードン・マンロー(Neil Gordon Munro、1863年6月16日 - 1942年4月11日)は、イギリスの医師、考古学者、人類学者。 エジンバラ大学で医学を学び、インド航路の船医として29歳で日本にやってきた[1][† 1][2]。横浜で横浜ゼネラルホスピタルで医師として、その後長野県軽井沢でサナトリウムの院長として働く。 考古学にも深い造詣があり、日本の先史時代の研究をつづけ、1905年(明治38年)には横浜市神奈川区沢渡・三ツ沢付近にて、三ツ沢貝塚を発見し、発掘調査をしている。考古学の知識は母国で培われた。旧石器にかなり精通していたであろうことは、彼の遺品のフリント(燧石)製の旧石器(槍先形ハンドアックス)数点、エオリス(曙石器)一点などから推測できる。マンローは、ジャワ原人(現在はホモ・エレトウスに分類)の化石情報に接し、その一派が大陸
紹介 西洋に紹介された東北というと、まず英国人女性旅行家イザベラ・バードの名前があげられるでしょう。1878年に来日したバードは、新潟、福島から東北地方の日本海側を北海道へと旅します。途中宿泊した山形の内陸盆地の自然の美しさを「東洋のアルカディア」と称賛し、その旅行記『日本奥地紀行』(Unbeaten Tracks in Japan)は、今日も版を重ねるバードの代表作となりました。しかし、英米で広く読まれたこの旅行記の成功にもかかわらず、その後東北地方を訪れ、記録を残した西洋人は少なく、日本を広く扱った英文概説書や旅行ガイドに触れられた短い記述を除けば、この明治から昭和初期に、東北を海外に紹介した本格的英文書はほとんど知られていません。このように、近代日本と西洋の接触で、この地方が表舞台に立つことは一般にはあまりなかったといえますが、1880年代に来日し、仙台神学校、宮城女学校の創立に尽力
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く