タグ

ブックマーク / www.hajou.org (9)

  • 波状言論>情報自由論>第14回

    text 情報自由論第14回 不安のインフレスパイラル(後編) 著者:東浩紀 初出:『中央公論』2003年10月号、中央公論新社 未来はユートピアなのか悪夢なのか。情報化の波がサイバースペースを飛び出し、あらゆる物理環境にコンピュータが埋め込まれ、消費者の利便性が飛躍的に上昇し、セキュリティも確保されるユビキタス社会において、人々は自由になるのか、それともより管理されやすくなるのか。この問いに対する筆者の答えは、それは両方とも並行して進む、というものである。私たちが足を踏み入れつつある「環境管理型社会」では、個人レベルの自由の拡大と社会レベルの管理の徹底は、対立するのではなく、分かちがたく結びついている。この両義性については、連載中で幾度も繰り返してきたので、もう説明する必要はあるまい。したがって、未来の情報社会を個人のエンパワーメントが進んだユートピアと捉えるか、悪夢的な管理社会と感じる

    twainy
    twainy 2007/05/11
    私たちが足を踏み入れつつある情報社会は、全体主義ではなく、個人の欲望を原理としている。
  • 波状言論>情報自由論>第13回

    text 情報自由論第13回 不安のインフレスパイラル(前編) 著者:東浩紀 初出:『中央公論』2003年9月号、中央公論新社 筆者がこの連載を始めたのは二〇〇二年の七月号である。その後わずか一年強しか経過していないが、それでも、振り返ると状況の変化の早さに驚かざるをえない。このあいだには、住基ネットの稼働に始まり、個人情報保護法と出会い系サイト規制法の成立や2ちゃんねるの方針転換、アメリカでは、国防総省の『一九八四年』を想起させる国民データベース計画やP2Pネットワークの規制強化など、情報技術の自由を警戒する動きが国内外でつぎつぎと報じられた。ここ数ヵ月だけ見ても、運転免許証のICカード化、パスポートへのバイオメトリクスの導入、ICタグ(ユビキタスID)とインターネットの接続技術の標準化など、ヒトとモノの動きを隈なく把握し、効率のよい秩序維持を図ろうとする構想が相次いで発表されている。い

    twainy
    twainy 2007/05/10
    不安が監視を呼び、監視がまた不安を呼ぶという「不安のインフレスパイラル」
  • 波状言論>情報自由論>第12回

    text 情報自由論第12回 ネットワークに接続されない権利(後編) 著者:東浩紀 初出:『中央公論』2003年7月号、中央公論新社 「ゲイテッド・コミュニティ」の伸張 (前回の続き) ここで障害者の例を挙げたのは、今後だれもが直面するはずの普遍的な問題を浮かび上がらせるためである。連載の前半部分で強調したように、現代社会は、中心となる規範意識(大きな物語)が失われたため、新たな統合性を技術的な手段で確保する方向に動いている。ポストモダン論や社会学の成果は、その延長線上にある社会が、構成員ひとりひとりの信条や価値観には手を出さないかわりに、危険な人物をあらかじめ排除する「環境管理型社会」になるであろうことを教えてくれる。 そして、この変化は、公共空間の性質も大きく変えてしまう。二十世紀の公共空間はだれもがそこに入れる広場をモデルとしていたが、二十一世紀の公共空間は、入口にIDカードの読み取

    twainy
    twainy 2007/05/09
    厄介な選択を自分に強いるすべての状況をリセットし、無名で匿名な存在に戻りたいという原初的な希求の感覚があって、それこそが、私たちがいま近づきつつある第三の自由=匿名性の自由の観念を支えているのである。
  • 波状言論>情報自由論>第11回 ネットワークに接続されない権利(前編)

    text 情報自由論第11回 ネットワークに接続されない権利(前編) 著者:東浩紀 初出:『中央公論』2003年6月号、中央公論新社 情報技術の二面性 情報技術は、私たちの自由を拡大し、同時に脅かす。繰り返すが、この二面性は、国家対市民や抑圧者対非抑圧者といった単純な図式で捉えられるものではない。つまり、市民が情報技術を手にすれば豊かなコミュニケーションが開け、逆に国家や企業が技術を手にすれば市民は管理下に置かれる、といった表面的な話ではない。問題はもっと原理的なのだ。 たとえば、近い将来、多くの携帯電話にGPSが付けば、事前に友人や同僚の番号を登録しておき(むろん先方の承諾を取る必要がある)、一定の距離以内に近づいてくると自動的に告知が来るようなサービスが現れるかもしれない。このサービスは、思わぬ出会いを用意し、待ち合わせの自由度を上げ、人々のコミュニケーションを大幅に豊かにするだろう。

    twainy
    twainy 2007/05/08
    同じ人間が状況により、人間的(能動的)であったり、動物的(受動的)であったりするわけで、決してフルタイムに能動的な人間と受動的な人間がいるわけではない
  • 波状言論>情報自由論>第10回 労働=消費の場を覆うネットワーク

    text 情報自由論第10回 労働=消費の場を覆うネットワーク 著者:東浩紀 初出:『中央公論』2003年5月号、中央公論新社 私たちの社会は、単一の価値観(大きな物語)を強制することによってではなく、複数の価値観(小さな物語)を容認し、かわりに情報管理を強化することで秩序を維持し始めている。言い換えれば、イデオロギーではなく、セキュリティを軸として秩序を組み立て始めている。それは、イデオロギーが崩壊し、国民国家の境界が流動化し、伝統が解体したあとに可能な、ほとんど唯一の秩序モデルである。その変化は、抽象的には七〇年代にポストモダニズム系の思想家たちに先取りされていたが、具体的にだれの目にも明らかになったのは冷戦体制崩壊以降のことだ。 たとえば、最近邦訳され、随所で大きな話題を呼んでいるアントニオ・ネグリとマイケル・ハートの共著『〈帝国〉』は、まさに、ポストモダン論を冷戦以降の世界理論と接

    twainy
    twainy 2007/04/29
    アーレントは、ひとは活動の領域(公共空間)でこそ顕名的な存在になれると論じていた。裏返せば、労働=消費の場(市場)とは、ひとからその固有名を奪うものだと考えていた。
  • 波状言論>情報自由論>第7回

    text 情報自由論第7回 自由と交換される匿名性 著者:東浩紀 初出:『中央公論』2003年1月号、中央公論新社 私たちは、ポストモダン化が進み、規律訓練型権力が弱体化した社会に生きている。それは言い換えれば、中心的な規範や価値観の存在が信じられなくなった社会である。結果として、いまの消費者は、消費財の選択から犯罪防止や医療行為にいたるまで、大量の情報を考慮したうえで、さまざまな判断を自己責任で下す必要に迫られている。しかし、このような状況は、実際には、自由の感覚を拡大するどころか、むしろ人々を麻痺状態に陥らせるものである。このため現代社会では、消極的自由(選択肢の数)の飽和と積極的自由(動機付け)の消失がともに進行している。大澤真幸は、この逆説を、「あまりにも完全な消極的自由は、自由の反対物に変じてしまう」と表現した。 そのうえで前回指摘したのは、積極的自由のその空洞化が、いま情報技術

    twainy
    twainy 2006/12/03
    規律訓練型社会には「個人」と「群れ」という二つの極があったが、管理型社会ではその対立が消滅する?
  • 波状言論>情報自由論>第5回 サイバーリバタリアニズムの限界

    text 情報自由論第5回 サイバーリバタリアニズムの限界 著者:東浩紀 初出:『中央公論』2002年11月号、中央公論新社 9・11以降、共産主義ならぬテロリズムの亡霊が徘徊している。そしてその亡霊に怯えるあまり、人々はセキュリティの強化へと殺到している。だからこそ、私たちは、イデオロギーなきセキュリティの暴走、価値観なき秩序維持、理念なき情報技術の暴走を警戒しなければならない。これが筆者の考えだが、他方、そのような暴走がなぜ生じてしまうのか、そのメカニズムも知っておく必要がある。前回までの議論で登場した「セキュリティ化」「環境管理型権力」「多様性の層と情報管理の層の乖離」といった概念は、その見通しを良くするためのツールだと理解されたい。 このように、私たちのテーマは理念なき情報技術の暴走である。しかし実は、情報技術の歩みそのものは、決して「理念なく」辿られてきたものではない。連載冒頭で

    twainy
    twainy 2006/08/10
    『しばしば、規制の正当性を問う前に、規制そのものの実効性をシステムの分析やハッキング(犯罪的なクラッキングではなく)によって検証する戦略に短絡してしまう。』ごめん、それまさに俺!!
  • 波状言論>情報自由論>第4回

    text 情報自由論第4回 イデオロギーなしのセキュリティの暴走 著者:東浩紀 初出:『中央公論』2002年10月号、中央公論新社 私たちの社会はますます複雑になっている。この社会を運営するためには、もはや法や規範の内面化は役に立たない。多様な市民の共存が私たちの社会の原理だし、そうである以上、価値観や規範意識の差異もそのまま放置するしかない。そこで登場したのが、法や規範に期待するかわりに、たとえ規範意識の欠片もない人間(その象徴がテロリストだ)が現れても制御を失わない社会を作るという、新たな目的である。それは具体的には、市民活動の透明性を高め、個人情報を集積し、犯罪の可能性をあらかじめ最小化するようなアーキテクチャを整えることで、制度工学的に実現されると考えられている。前回の連載では、この変化を、「規律訓練型権力」から「環境管理型権力」へ、「内包社会」から「排除社会」へ、というキーワード

    twainy
    twainy 2006/08/08
    イデオロギーの拡散による当然の帰結としての環境管理型権力
  • 波状言論>情報自由論

    text 情報自由論 html version index 情報自由論ってなに? 「情報自由論 データの権力、暗号の倫理」(以下「情報自由論」)は、批評家・哲学者の東浩紀(僕)が、情報社会と自由の関係を主題として書き記し、『中央公論』2002年7月号から2003年10月号にかけて、14回にわけて発表した論考です。このサイトでは、そのすべての原稿が公開されています。 「情報自由論」の構想は、遠く、1990年代後半に『InterCommunication』で連載されていた論考、「サイバースペースは何故そう呼ばれるか」(未刊)に遡ります。2000年代はじめの僕は、第1章でポストモダンの理論的な問題を扱い、第2章でその情報社会における展開を扱い、第3章でそのサブカルチャーにおける展開を扱う大部の著作を夢見ていたことがありました。『動物化するポストモダン』はその第3章が、「情報自由論」は第2章が変形

  • 1