ブックマークしました ここにツイート内容が記載されます https://b.hatena.ne.jp/URLはspanで囲んでください Twitterで共有
このページでは,地理空間情報の視覚化手法の一つである『カルトグラム』について,新しい作成手法を提案した研究に関して紹介をしています.提案した作成手法の概要は,研究紹介ポスター(@CSIS DAYS 2005)をご覧ください. カルトグラムとは? 『統計データに基づき地図を変形し,地域の特徴を視覚的に表現する地図』 カルトグラムは,距離カルトグラ(distance cartogram)・面積カルトグラム(area cartogram)の2種類に大別されます. 距離カルトグラムとは? → 詳細情報 『地図上の距離で統計データを表現するカルトグラム』 距離カルトグラムは代表的な利用例は,地点間の所要時間を視覚化する時間地図です. 下図のように地理的配置との比較により,交通整備水準の地域格差を視覚化することができます. 例) 1965年 鉄道所要時間 距離カルトグラム と 地理的配置 (データ出
前の記事 アーマー・コスプレの傑作ギャラリー 売上げ急増につながったバイラル動画、その実例 次の記事 「昔」を見ることができるカメラ・ソフトウェア 2010年7月28日 IT コメント: トラックバック (0) フィードIT Charlie Sorrel Photo: Nomad Tales/Flickr 地元の慣れ親しんだ街角の、何十年も前の写真を見るのは魅力的だ。さらに、その場所の新しいバージョンを撮影してくれる人がいると、それまでわからなかったような違いを見て楽しむことが可能だ。『Flickr』や『Historypin』といったサイトでは、新しい画像の上に昔の写真が重ねられた、窓から過去をのぞき込むような作品を見ることができる。[以下は、Historypinを紹介する動画。Googleストリートビューと連動しており、年代ごとの変遷なども見ることができる] マサチューセッツ工科大学(M
読むべきものを探すなら、本屋でも、アマゾンでも、図書館でも、ましてやブログの書評でもなく、自分の本棚をつぶさに見た方が良い。 本棚は事実を、時に受け入れ難い事実を、あなたにこう告げている。「とどのつまり、おまえはこの程度の人間なのだ」と。それはあなたの知的好奇心の履歴であり、その挫折のアーカイブだ。 痛みを伴うことだが受け入れよう。この先一生かけて磨きつづけても、あなたの知性は悲しいくらい変わらない。 だが、愚か者はただ愚かなのではなく、自分よりいくらかマシに見える別の愚か者に憧れ、真似たりしようとするが故に、救いようがないくらい愚かなのだ。 どこかのこけおどしの混じった利口ぶったブックリストでなく、自分の身銭と時間と知性(アタマ)をふり絞ってできあがった本棚を信頼しよう。無理でも、せめて「認知」してやろう。 本棚の中には、繰り返し手にとったものもあれば、買い求めたまま一度もページを繰るこ
日本人は目に見えないものにお金を払わない--少し前の『日本人論』では、よくソフトの値段をめぐる文脈の中で、こう言い放つ人がいたものだ。この言葉自体はやや言い古されて、もはや警句としての切れ味を失ったが、内容は真実だと考える人は、まだ多いだろう。 いくつかの国で仕事をしてきた経験から、とくにこれは日本人に限ったことではない、と私は感じている。程度の大小や傾向に差はあれども、人間は具体的事物以外には対価を払うのを渋る。そこには、所有権では制限しようのない「情報」やら「仕組み」なるしろものに、売買の対価がありうるのか、という感情的な疑念があるからだ。 結局のところ、現在の会計制度は実物経済の原理で成り立っている。これを無形資産にむりやり外挿して財務諸表を作っているのだが、目に見えない情報の棚卸しなど不能である。製品倉庫で数が合わなければ、財務諸表にすぐ現れるから、みなが大騒ぎするだろう。しかし、
TwitterがNHKで紹介されたみたいだ(私は見ていないのだけれど)。Twitterを使っていない人にTwitterを紹介することはとても難しいような気がする。たとえば「それはmixiとはどうちがうんですか」などと聞かれた場合。スカっとした答えが見つからない。Twitterを使っている人どうしでもよくわからない。番組ではどうやって説明したのだろう。 私が最初にtwitterを知ったときにまず思ったのが、これはWorldbeam(ワールドビーム)の実装第一号なのではないか、ということだった。正確にいうと、ラボのミーティングでworldbeamについて議論していたら、「それによく似た概念のサービスがはじまったよ」と教えてもらったのがtwitterだった。 Worldbeamはあまり知られていないかもしれないが、Tuplespace, LifestreamsやMirrorworldsで有名なD
クラシックCD検索に便利!バナーをクリックして下さい! 昨日の記事を受けて、アーノンクールの著書の一部を読んでいきたいと思います。 先に申し上げますと、私はアーノンクールが率いて行なった録音の「すべて」のファンではありません。感覚的に「好きな」ものもあれば「嫌いな」ものもあるし、「素晴らしい」と感じるものもれば「とても受け入れられない」と拒絶反応を起こすものもあります。 でありながら、なぜアーノンクールの著書を読んでいこうか、と考えたのか。 彼の『音話としての音楽----新しい音楽理解への道』(邦題は「古楽とは何か(言語としての音楽)」ですが、昨日申し上げました通り、これは訳者が・・・そのお言葉をそのまま借りれば「日本の読者の理解を得ることを優先し」てつけたもので、私も最初はそちらにつられて購入し、読んだのでしたが、再読するとこの邦題は内容を誤解させる原因になっていて望ましくないと思われま
Frauという雑誌の取材がある。 20-30代の働く独身女性が読者層のヴォリューム・ゾーンであるような雑誌で、今回のお題は「結婚したいけれど、できないのはどうして・・・」という切実なるものである。 どうしてと訊かれて即答できるなら、苦労はない。 というのはシロートで、私はどんなことを訊かれても即答することでお鳥目を頂いている身であるから、もちろん即答する。 それはみなさんがたが「他者との共生」を「他者への妥協」というふうに読み替えておられるからである。 「共生」と「妥協」は見た目は似ているかもしれないが、まるで別のことである。 これは武道をやっていると実感的によくわかる。 「妥協」というのは「まず、私がいる」というところから話が始まる。 そこに他者が干渉してきて、私の動線を塞ぎ、私の可動域を制約し、私の自己実現を妨害する。 私はやむなく、自由を断念し、狭いところで我慢し、やりたいことを諦め
小泉義之さん、blogを中止してしまうのか。その最後のエントリーから、 時間との関連で言えば、おそらく現在主義者・現前主義者とでも分類されるであろうが、現在・今の〈同時性〉が気にかかった。今ここで、パソコンを操作している。と同時に、隣の部屋では家人が何かをしている。と同時に、向こうの道路を車が通り過ぎていく。ここには、情報の速度、感覚の範囲、想像の広がる「速度」が入り込んでいる。と「同時」に、距離が入り込んでいる。そして、と同時に、遠くでは、誰かが生まれ誰かが死んでいく。その知らせは遅れて届くにしても(「後で」というより「遅れて」である。このひと事だけで、〈逆向き因果〉論は物足りないことが明らかである)、きっと何かが遠くで同時に起こっている。しかも、こんな同時性が、ギクシャクと音を立てるでもなく、変わってゆく。あるいは、移ってゆく。それとともに(?)、この私も移ってゆく。ところが、「持続」
このドメインは お名前.com から取得されました。 お名前.com は GMOインターネットグループ(株) が運営する国内シェアNo.1のドメイン登録サービスです。 ※表示価格は、全て税込です。 ※サービス品質維持のため、一時的に対象となる料金へ一定割合の「サービス維持調整費」を加算させていただきます。 ※1 「国内シェア」は、ICANN(インターネットのドメイン名などの資源を管理する非営利団体)の公表数値をもとに集計。gTLDが集計の対象。 日本のドメイン登録業者(レジストラ)(「ICANNがレジストラとして認定した企業」一覧(InterNIC提供)内に「Japan」の記載があるもの)を対象。 レジストラ「GMO Internet Group, Inc. d/b/a Onamae.com」のシェア値を集計。 2023年5月時点の調査。
SB新書6月の新刊は3タイトル! 試読版も公開中!! 2018年6月のSB新書は、『AI時代の子育て戦略』(成毛 眞 著)、『「発達障害」と言いたがる人たち』(香山 リカ 著)、『飲んではいけない認知症の薬』( 浜 六郎 著)の3タイトル! 試し読み版も公開中です!! >>試し読み版の一覧ページはこちら
岡田斗司夫『いつまでもデブと思うなよ』から、情報社会について考える(3) 2007年10月25日 社会カルチャー コメント: トラックバック (1) ■ その3-1. 「岡田ダイエット本」と「鈴木カーニヴァル本」のエンディング比較 前回論じたように、岡田ダイエット本で提唱される「レコーディング・ダイエット」という手法は、鈴木カーニヴァル本で論じられている「情報社会の自己モデルの変化」に関する命題、すなわち「反省から再帰へ」という流れに沿ったものとして捉えることができます。しかし、――ようやくここからが筆者の関心の中心になるのですが――興味深いことに、「再帰から反省へ」という点で共通する両書は、結果的にそれぞれ異なる結末へと向かっていくのです。それはどういうことでしょうか。ややアクロバティックというか、強引な引き付けになってしまうのですが、以下に説明してみたいと思います: まず鈴木カーニヴァ
ある男友達(もうずっと連絡も取っていませんが、厚かましく友人とさせて頂きます)から、すごいセリフを聞いたことがあります。 「子供は要らないけれど、自分のクローンを作りたい」。 わたしは「クローンを作りたい」という人の気持ちがまったく理解できないので、「なぜ?」と尋ねたところ、返ってきたのが、 「今まで人生で色々な選択をしてきた。あそこでああしていれば、と思うこともある。別の選択をしていたらどうなっていたのか、それが知りたい」 という答えでした。 そもそも、仮に遺伝子がまったく同じであったとしても、それは<わたし>とは全然関係のない人間なわけで、クローンに「パラレルワールドの自分」を託すことは馬鹿げた空想ではあるのですが、そのことは脇に置いておきましょう(当の彼もわかった上で「自分大好きっぷり」の半偽悪的表現としてこう語ったのではないかと思います)。 今、気になるのは、「あり得たかもしれない
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