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ブックマーク / ish.chu.jp (21)

  • 送り火と年賀状

    京都にいた頃、入り浸っていたカフェのマスターがこんなことを言っていました。 「お盆過ぎたら年末や」。 さすがに、お盆過ぎから年賀状の準備を始めたら気が早すぎるでしょうが、いかにも京都人らしいです。 実際、お盆が終わると、年末まではあっという間です。 南中高度からすれば「一年の真ん中」は夏至ですが、気温や四月で年度を切る日の風習のお陰で、八月くらいにピークがあるような気がしています。「まだ折り返し」な気分でいると、実は三分の一しか残っていません。気を引き締めていかないと、それこそ年賀状シーズンまで一瞬です。 京都のお盆と言えば、五山の送り火。 長いこと京都に住んでいながら、京都の文化も祭も大嫌いだったワタクシですが、五山の送り火だけは良いイベントだと思っています。 祇園祭なんて、人を見に行くようなものです。オマケに、祭りで集まると言えばヤンキーです。文化だの伝統だの言っていますが、要するに

  • 『聖典「クルアーン」の思想』大川玲子

    『聖典「クルアーン」の思想――イスラームの世界観』 大川玲子 良書です。 なぜ今まで手にとっていなかったのか、不思議なくらいです。 第一章はクルアーン(コーラン)およびイスラームの概説、第二章はキリスト教・ユダヤ教の聖書とクルアーンの関係。第三章では、クルアーンのアーキタイプとして天にあると想定される「天の書」が論じられます。そして第四章が、日人とクルアーンの関係に充てられています。 特に第四章は、戦前亜細亜主義におけるイスラーム理解が論じられているほか、各種日語訳の比較・紹介等があり、大変興味深く読めました。これからクルアーンを学びたい、とりあえず日語訳を読んでみたい、という方にとって絶好のコンシェルジュとなっています。 「天の書」の想定には大きく二つの機能があり、一つは「運命」、つまり「すべては既に書かれている」ということ。もう一つは、例えばモーセがいわゆる「十戒」を一度に「下ろ

  • 『生物と無生物のあいだ』福岡伸一

  • 空気が読めない者、その罪状と判決 : ish☆サイボーグだから電気羊の夢は見ません

    今まで何度か「ブログを非-mixi的・非-お付き合いの道具的に使うこと」について書いてきました(※1)。コメント欄の敷居の高さや、ブログ全体で用意しておく殺気や「壁」についてです。 ところが、中には「壁」そのものが見えない人がいます。いわゆる「空気が読めない人」です。 防壁を突破してくる人というのは二極分化していて、片方は侠気と知性に溢れた好人物、そしてもう一方が防壁を認識する能力すらない「空気が読めない人」です。真ん中のメインストリームはバッサリ切り捨て、という問題は脇に避けておくとして(笑)、この「壁が見えない人」の威力は凄まじいです。 「壁が見えない人」も大別すると二種類いて、一つは古典的なパラノイア。 昔からリアルでも壊れている人になつかれる傾向が強いのですが、このブログのテクストが彼・彼女の宇宙に突然ヒットしてしまったらしく、「それは冥王界で言うところの下位の神ですね!」的な熱烈

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    ushiwatat 2007/07/23
    |正論なのですが、そういうことを「正義の言説」として振りかざす者は、イヤイヤ相槌を打つ「か弱き権力」以上に醜悪||大学人の言説によく見られることですが、要するに安全圏から「正義の判決」を下しているだけ|
  • 「わたしのことどう思う?」という問いは何を隠すのか

    「わたしのことどう思う?」。 この問いを受けた男性諸氏はさぞかし煩わしいことでしょうが、もちろん、男女を問わずこの問いは発せられます。つまり、「他人にとってわたしは何なのか」系の質問です。 こうした質問が大変魅力的なのは、心理テストに夢中になる人々からもわかります。また「外国人から見た日」といった語らいが衆目を惹くのも、同じ魅惑によるものです。 「わたしのことどう思う?」の問い-答えの反復は、大変楽しいです。特に「外国人から見た日」系には、わたしもかなり惹かれます。 しかし、この問いは決して<わたし>のことを明らかにしませんし、それゆえにこそ独特の快楽をもたらします。そしてこの気持ち良さは、「寛容さと共存の何が問題なのか」で触れた「寛容」の気持ち良さと欺瞞につながっています。 「わたしのことどう思う?」の気持ちよさは、ナルシシズムに由来します。 ただし、ここで言うナルシシズムとは、問い

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    ushiwatat 2007/07/19
    意味を剥ぎ取られしモノ。
  • 恋愛と郷愁

    ある男友達(もうずっと連絡も取っていませんが、厚かましく友人とさせて頂きます)から、すごいセリフを聞いたことがあります。 「子供は要らないけれど、自分のクローンを作りたい」。 わたしは「クローンを作りたい」という人の気持ちがまったく理解できないので、「なぜ?」と尋ねたところ、返ってきたのが、 「今まで人生で色々な選択をしてきた。あそこでああしていれば、と思うこともある。別の選択をしていたらどうなっていたのか、それが知りたい」 という答えでした。 そもそも、仮に遺伝子がまったく同じであったとしても、それは<わたし>とは全然関係のない人間なわけで、クローンに「パラレルワールドの自分」を託すことは馬鹿げた空想ではあるのですが、そのことは脇に置いておきましょう(当の彼もわかった上で「自分大好きっぷり」の半偽悪的表現としてこう語ったのではないかと思います)。 今、気になるのは、「あり得たかもしれない

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    ushiwatat 2007/07/18
    |「あり得たかもしれない自分」とは、単にオプションの一つとして想定できた、ということではなく、<わたし>があるためにどうしても「あってはならなかった」が故に、「今のわたし」以上に「わたしそのもの」なモノ|
  • メールを出さなければ電車に乗り遅れられるのか、誰が電車に乗ったのか、愛は終着駅で致命的出会いにたどり着くのか

    文学・思想 / メールを出さなければ電車に乗り遅れられるのか、誰が電車に乗ったのか、愛は終着駅で致命的出会いにたどり着くのか 「虚空に向かって書くからこそ丁寧に書く」「なぜコメントの敷居を高くするのか」で、このブログのスタイルが「一方通行」であることについて考えてみたのですが、そもそも私信というものをほとんど書かなくなった気がします(件のエントリで「特定の誰か」という表現をしたため、公開私信的なものと誤解されてしまった方がいるようですが、これは定冠詞の総称的用法というか、「死者への手紙」のような意味で、まったく交通可能性のないものです)。 何度も同じ言い訳をしますが、「やりとり」のすべてを拒否しているわけではまったくありませんし、壁を作った上でその壁を認識できる人が乗り越えて来てくれた時には、面白い出会いになることもあります(つい最近もありました)。世の中には、壁そのものが見えない恐れ気な

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    ushiwatat 2007/07/12
    知らなんだ。>|ブルース・リーが「わたしはあなたの結果である」と言いました|
  • 「めちゃモテ」と世界最強

    内田樹さんの「めちゃモテ日」というエントリが、ちょっと前に注目を浴びていました。 弱者が生き残る道はあまり多くない。論理的に導かれる回答は二つしかない。 一、「強い個人の庇護下にはいる」。 いわゆる「玉の輿狙い」戦略だが、「乗ったつもりの玉の輿」の意外な信頼性の低さに人々は気づき始めている。JJが退けられ、CanCamが選ばれたのは、「玉の輿」戦略のリスクの高さがしだいに知られてきたからであろう。 二、「周囲のみんなからちょっとずつ愛される」 結果的に選ばれたのが、このCanCam的「めちゃモテ」戦略である。みんなに愛される、ラブリーな女の子になること。若い人々はさしあたりもっとも有利なオプションとしてこの方向を採択した。 なるほど、合理的です。 大変納得できました。だからわたしは友達がいないんですね。友達いなくて当に良かったです。 この議論でストンと抜け落ちているように見えるのは、「

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    ushiwatat 2007/07/01
    「虫」という表現に爆笑。虫って…。(笑)
  • 寛容さと共存の何が問題なのか

    「オルテガ『大衆の反逆』、空地、国家」でオルテガを話題にしたところ、しあわせのかたちのsho_taさんより、「自由主義デモクラシーの賛美こそオルテガの真骨頂であり、これを取り上げるべき」とのご指摘を受けました。 そこで「美しい」として引用されていたのが以下の下りです。 政治において、共存への最も高度な意志を表明した形態は、自由主義的デモクラシーである。自由主義的デモクラシーは、隣人を考慮しようとする決意を極端に示しており、「間接行動」の典型である。政治権利の原則は自由主義であり、社会的権力はその原則に従って、全能であるにもかかわらず自分自身を制限する。つまり、最も強い人たち大多数の人たちである社会的権力は、自分が犠牲を払っても、自分が支配している国家のなかに、自分たちと同じように考えたり感じたりしない人びとが住めるような場所を残そうと努める。今日このことを思い出す必要があるが、自由主義とは

  • オルテガ『大衆の反逆』、空地、国家

  • アンドリュー・パーカー『眼の誕生』と対象aとしての眼差し

    『眼の誕生――カンブリア紀大進化の謎を解く』アンドリュー・パーカー 突然ですが、生物学が苦手です。 文系のくせに高校の理科で物理・化学を選んでしまった時点で脱落(ちなみに理由は、生物の先生が下品で嫌いだったから)。等脚目だの顎脚綱だの言われても、わたしから見れば全部「虫」です。 一般向けとは言え『眼の誕生』も生物学のですから、ナンヤラ科カントカ目の類が沢山登場するのですが、正直、最初から最後までさっぱりイメージできませんでした。 にも関わらず投げ出す気になれなかったのは、書のテーマが素晴らしく魅力的だからです。 以下、「ネタバレ」になってしまうかもしれないので、気にする方は読まないで下さい(推理小説ではないですし、結論はわかっているのですが、ワクワク感を演出する構成なので、念のため)。 『眼の誕生』の主張する「光スイッチ説」とは、「カンブリア爆発」と呼ばれるカンブリア初期における生物の

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    ushiwatat 2007/05/21
    生物学的な眼をラカンの眼差しとのアナロジーから考えている。
  • 外山恒一さんと会う

    ビンラディンのTシャツを着て、箸でお誕生ケーキを頬張るファシスト外山恒一氏(秘書田中嬢とおそろいの初代京ぽんCMOS11万画素カメラにて撮影)。 どこからツッコんでいいやらわかりません。 「さておかれない冗談、外山恒一」で話題にさせて頂いた外山恒一さん。とりあえず会ってみなければなにもわからない、と思っていたところに再上京の知らせを受け、コンタクトを取ってみたところ、「面会」を果たすことができました。 まずは、ご多忙中一度も会ったことのないわたしを個人的な集まりに誘って下さった外山さんに、御礼申し上げたいです。ありがとうございます。 以下、予想より随分色々お話できた上でのファースト・インプレッションです。 まず大雑把な人物像、「ファシズム」に対するスタンスについては、概ね期待通り。 ゴリゴリの党派的人物でもパラノイアでもなく、気の気だからこそ機知を発揮する(※1)。そして質的に「優し

  • 「敢えてファシズム」

    ファシズム関係のエントリをいくつか立ててきましたが、この辺で一度「わたしにとってのファシズム」をまとめてみます。 そもそもファシズムとは何なのでしょうか。 何度も書いていますが、現在「ファシズム」という語は「悪」の同義語で、ほとんど僭称としてしか使われていません(外山恒一さんも「ファシズムは誤解されている」で指摘されています)。これはもちろん、第二次大戦戦勝国によるプロパガンダの産物で、非道な一面があったにせよ、当時のイタリアやドイツがそんな単純に「悪」一色に染まっていたわけがありません(非道なことなら連合国だって沢山やっていますし、今もやっているでしょう)。 世間的に流布しているイメージとしては、ファシズムは「民主主義」の反対で、時々「自由」と対置されていたりもします。 歴史背景を見れば、広義の「ファシズム」が流行ったのは帝国主義諸国の中の「二等国」。大戦後見られた「ファシズム」とされる

  • ファシズム・全体・死者とネットの人間関係

    『ムッソリーニ―ファシズム序説』 木村裕主 アマゾンで「ムッソリーニ」を検索すると、一番ヒットするのがこの木村裕主さんの著書。先日紹介したロマノ・ヴルピッタさんの『ムッソリーニ―一イタリア人の物語』が「人間ムッソリーニ」に焦点を当てていたのに対し、政治的行動を中心に当時のヨーロッパ情勢解説を交えた、直球ド真ん中の「入門書」です。 です。 面白いのは、『ムッソリーニ―一イタリア人の物語』と合わせて読むと、同じ「歴史的事実」が恐ろしく別物に見えてくることです。ヴルピッタさんのとは対照的に批判的なスタンスから語られてるのですが(むしろそれが普通)、もう笑えるくらい正反対の評価です。「歴史的事実」なるもの(ひいては「事実」なるもの)がいかにフィクショナルで政治的な存在なのかが、戯画的なまでに鮮明になります。 「読み物」としては断然『ムッソリーニ―一イタリア人の物語』をプッシュしますが(わたしたち

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    ushiwatat 2007/04/29
    |国家はまず他の国家に対して国家|である(柄谷行人)に基づいた国家と国民、あるいはネットの人間関係について。 |主体とは呼びかけに対し振り向くこと(うっかり振り向いてしまったこと)により生まれるもの|
  • 『ムッソリーニ―一イタリア人の物語』 ロマノ・ヴルピッタ

    『ムッソリーニ―一イタリア人の物語』 ロマノ・ヴルピッタ 外山恒一さん(※1)もファシズムは誤解されているで書かれていますが、「ファシズム」という語のイメージは第二次大戦戦勝国による誘導で大きく歪められています。ほとんどの場合、「ファシズム」と言えば単に「悪い」ということで、多くの人が蔑称としてしか用いません。 かなりの期間、連合国側がファシストに対し融和的な政策を取ってきたこと、ファシズムが大衆的支持を得ていたこと、多くの非道と共にいくつかの素晴らしい政治目標を達成していること、これらは高校の教科書でも取り上げられることです。単に頭のおかしい独裁者が好き放題やっただけなら、ムッソリーニが二十年にもわたり政権を維持できたわけがありません。 とはいえ、具体的なムッソリーニの思想や政策となると、恥ずかしながらまるで無知です。。 知悉し尽さなければ批判も許されない、とは思いませんが、ある程度の基

    ushiwatat
    ushiwatat 2007/04/29
    ファシズムをその「物語性」を軸に再検討・再評価する試み。
  • ish☆走れ雑学女ブログ さておかれない冗談、外山恒一

    統一地方選後半戦も選挙期間が終了したところで、外山恒一さんさんについてメモします。 彼の政見放送が話題になっているのは知っていたのですが、そういう「ネットで話題の」一般が煩わしく、敢えて距離を置いていました。そもそも都知事選自体、出来の悪い芝居を見せられているようで、とても積極的な関心を持つことができないでいました。 政見放送を拝見したのは都知事選投票日直前になってからで、ちょっと後悔しました。今回ばかりは「話題」に乗っていた方が正解でした。 一見パラノイア風ですが、最後の「わたしもビビる」からもわかる通り、機知に富んだ人物です。パラノイアにああいう台詞は操れません。 ではまったくの「ネタ」としてやっているのかというと、そうではない。むしろ気の気だからこそ、機知を発揮する。 この態度は美しい。 冗談はしばしば「冗談はさておいて」、その後「当」が始まるものですが、「さておかれ」た後にリ

  • 自閉症、統合失調症、「人間のフリをする」

    さらに続いて私信より転載。 全然音楽の話ではなく、話がズレてズレまくってすごいところまで行ってます。 いつもと口調が全然違いますが、この連想の流れは、珍しくかなりわたしの「素」が表れていると思います。機嫌よく喋っているときはこんな感じです(笑)。 ## Nujabes / Metaphorical music 今回の分iPodに全曲入れて、「見慣れないアルバム名」を目印に片端から聞いていた初回、「Nujabesみたい・・・てか、Nujabesやん」と思った。 こういう体験は面白い。 アスペクトが転換するのだけれど、「見知らぬもの」として現れたものが、いくつかの属性から既知のものと結び付けられ、続いて既知の何かとしてカテゴライズされる。 この「既知のものと結び付けられる」と「カテゴライズされる」の間は、一見連続的に見えるけれど、実は決定的で質的な差異がある。 「既知のものと結び付けられる」と

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    ushiwatat 2007/04/22
    丁寧に読まないときつい。
  • ish - 『火星の人類学者』 オリヴァー・サックス

    『火星の人類学者―脳神経科医と7人の奇妙な患者』 オリヴァー・サックス 『レナードの朝』で知られるオリヴァー・サックスが七人の患者について綴る医学エッセイ。 大変有名なのであまり期待せずに読んだのですが(天邪鬼)、予想に反して素晴らしいでした。 「面白かった」というより「素晴らしかった」と書きたい。そういう作品です。 個人的に特に惹かれたのは、五十歳を過ぎてからほぼ初めて視力を手に入れたヴァージル、病気をきっかけに故郷ポンティトについてしか語らなくなり、写真のような正確さでポンティトの絵を描き続けるフランコ・マニャーニ、そして書のタイトル「火星の人類学者」、つまり「異星から人間を観察するようにして人間たちのありようを理解するしかない者」として自らを評する自閉症の動物学者テンプル・グランディン。 ヴァージルは「見える」世界に馴染むことができず、再度の発病により視力のない世界へと帰っていき

  • 虚空に向かって書くからこそ丁寧に書く

    「なぜコメントの敷居を高くするのか」で手前味噌な感じに触れた「くるさりんど」さんのエントリについて、ふと思い出して今頃書きます。 件のエントリに「交流らしい交流もなく、虚空に向かって書いているようなのに『ですます』調」ということが指摘されていていました。わたしが比較的丁寧な文体で書くいくつかの理由については前にも書いたのですが、突然、そんなアレコレの理由以前に、そもそも「虚空に向かって書く」からこそ形を整えようとしている、ということに気付きました。余りにも当たり前になっていて、意識することもできていなかったようです。 一般的には「顔の見える対象」を相手にしたとき、人は丁寧になるものなのでしょうか。場合によりけりでしょうし、容易に断じることはできません。ただ少なくともわたし自身について言えば、むしろ「顔の見える対象」ではない場合に、より真剣に向き合っているように思います。 逆に言えば「顔の見

    ushiwatat
    ushiwatat 2007/03/28
    論文作法とはまた別の読者への見方。自己説明としての物語。目に見えない存在としての他者・神。見えないものだから信じられるということもある。
  • 交流、直流、コミュニケーション

    「なぜコメントの敷居を高くするのか」について、某所で「書き言葉の敷居とコミュニケーションの敷居が一緒くたになっている」というツッコミをみかけました。こっそりツッコんだものをネタにしてしまって申し訳ないですが、この指摘にはちょっとハッとするものがありました。 確かにごっちゃになっています。 書き言葉の問題はそれとしてあるのですが、これをクリアしてなお、コミュニケーションの敷居というのがあるように思います。 それを書き言葉の敷居に還元するような書き方をしてしまったことには、いくつか理由があるでしょう。 一つは、わたし自身がこの還元を意図せず行っていたこと、つまりこの問題をコミュニケーションの問題として取り上げることに対する心的防衛、という要素です。この背景にはおそらくわたしの深い心の闇が横たわっているのでしょうが、そんな痛い話を公開してしまってはせっかくの無意識的防衛が無駄になってしまうので、

    ushiwatat
    ushiwatat 2007/03/08
    「『交流』は賭けです。リスクを伴うのです。にもかかわらず、『コミュニケーション』『交流』という言葉が使われる時には、どうもこのリスクが度外視されているというか、軽んじられている気がするのです。」