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ブックマーク / jyunku.hatenablog.com (64)

  • 西田幾多郎記念哲学館で中田邦造展開催中ー中田邦造や東田平治に関する講演会もー - 神保町系オタオタ日記

    今や「居場所としての図書館」の筆頭として脚光を浴びる石川県立図書館(田村俊作館長)。同図書館の戦前における館長(昭和6~15年)として中田邦造がいた。西田幾多郎の門下生でもあったので、現在石川県かほく市の西田幾多郎記念哲学館で「図書館社会教育の実践者ー西田幾多郎の弟子、中田邦造ー」が開催中(~9月29日)である。哲学館館長による中田に関する講座も予定されている。 また、中田と共に読書会運動を進めた東田平治に関する展示「かほく市における読書会活動ー東田平治と中田邦造ー」が、かほく市立中央図書館で開催中(~9月20日)である。こちらでは、元かほく市立七塚図書館館長による東田に関する講演会が予定されている。 中田といい東田といい、一般の人には知られていないだろう。私は書物蔵氏のブログや『文献継承』への寄稿を愛読したので、名前を覚えてしまった。更に東田の『わたくしの読書会経営』(有朋堂、昭和19年

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  • 本野精吾が設計した暁烏敏による幻の図書館「大日本文教院」ーー小林昌樹「宗教と図書館の近代史」への補足ーー - 神保町系オタオタ日記

    『近代出版研究』創刊号(皓星社発売)が大成功した近代出版研究所長小林昌樹君の「宗教と図書館の近代史」が、昨年2月から3月まで『佛教タイムス』に連載された。内容は、「小林 昌樹 (Masaki KOBAYASHI) - マイポータル - researchmap」の「MISC」で見ることができる。第7回は、「草の根的な寺院立図書館」である。そこでは、大正10年岡山に設立された「笠岡図書館」(浄土宗智光寺住職椋梨了我)と「中津図書館」(天台宗願興寺住職渡辺憲朝)が紹介され、「同様の例は他県でも多くあったはずだが、歴史の闇に埋もれている」としている。 ここに、臨川書店の古書バーゲンセールで入手した松田章一『暁烏敏 世と共に世を超えん』(北國新聞社、平成10年3月)がある。石川県松任町の明達寺住職だった暁烏が戦前に蔵書「香草文庫」を利用して計画した図書館に関する記載が下巻にある。 収集した書籍が四万

    本野精吾が設計した暁烏敏による幻の図書館「大日本文教院」ーー小林昌樹「宗教と図書館の近代史」への補足ーー - 神保町系オタオタ日記
  • 稲賀繁美『矢代幸雄』(ミネルヴァ書房)への補足ーー研究者は先ず「神保町系オタオタ日記」のブログ内検索をするべしーー - 神保町系オタオタ日記

    ミネルヴァ日評伝選は平成15年から刊行が開始され、令和元年に200冊に達した。その後も順調に刊行されている。年1月現在刊行が予定されているで、関心があるのは 樋口一葉、与謝野晶子、新島八重の3冊(佐伯順子) 泉鏡花(東郷克美) 萩原朔太郎(エリス俊子・栗原飛宇馬) 佐田介石(谷川穣) 西田直二郎(林淳) 石田幹之助(岡さえ) 宮常一(須藤功) 知里真志保(モコットゥナシ) 石母田正(磯前順一) 式場隆三郎(服部正) 先月には、稲賀繁美『矢代幸雄:美術家は時空を超えて』が刊行された。同書の刊行予定は、拙ブログの「『和田英作日記』から見た大正10年の柳田國男におけるフランス - 神保町系オタオタ日記」で言及したことがあって注目していた。『和田英作日記』に言及するだろうと予言していたが、やはり言及していた。しかし、私が「華北綜合調査研究所の内紛と大蔵公望 - 神保町系オタオタ日記」や「

    稲賀繁美『矢代幸雄』(ミネルヴァ書房)への補足ーー研究者は先ず「神保町系オタオタ日記」のブログ内検索をするべしーー - 神保町系オタオタ日記
  • 女衒村岡伊平治の電気治療師時代ーー村岡の実在を証明した寺見元恵「マニラの初期日本人社会とからゆきさん」に注目すべきーー - 神保町系オタオタ日記

    『近現代日の民間精神療法:不可視なエネルギーの諸相』(国書刊行会、令和元年9月)の吉永進一「序論」は、明治から昭和戦前期までの民間精神療法を5つに区分している。そのうち、第4期精神療法後期(大正10年~昭和5年)に続くものとして、第5期療術期(昭和5年~昭和20年)を設定している。第5期は、「民間精神療法の中心をしめていた精神療法は急速に勢力を減少し、電気、光線、指圧、整体などの物理的な療法が盛んになる」という。そして、電気療法の例としては杉田平十郎が挙がっている。 電気療法などの物理的療法が民間精神療法の主流になる直前に電気療法を行う電気治療師となった人物がいる。映画「女衒」にもなった南方で女朗屋を経営した村岡伊平治である。その自伝『村岡伊平治伝』(以下「自伝」という)は南方社から昭和35年12月*1に刊行され、講談社文庫にもなっている*2。しかし、未だに村岡の実在を疑う向きもいるよう

    女衒村岡伊平治の電気治療師時代ーー村岡の実在を証明した寺見元恵「マニラの初期日本人社会とからゆきさん」に注目すべきーー - 神保町系オタオタ日記
  • 名所旧跡の写真をバコバコ買う明治初期の写真コレクター斎藤月岑 - 神保町系オタオタ日記

    明治初期の日記は、まだ江戸時代の延長の感じがあって、私の好きな人物や事物が登場しないのであまり読んでいない。しかし、たまにはと言うことで『斎藤月岑日記』10(岩波書店、平成28年3月)を読んでみた。明治7・8年の日記である。印象に残るのは、戸長を辞めた明治8年は毎日のように「写真」や「写真絵」を買っていることである。たとえば、 (明治八年八月) 六日(略)虎の門へ参る、三省堂にて写真五枚、山王丁にて二枚買、楠公社・妙国寺・柳しま・一石橋・八百枩のうしろ・宮島・日光滝也(略) 七日(略)淡路町にて写真二買、浮御堂・ナホレヲン葬式図也(略) 三省堂は同年12月1日にも出てくるが、著名な三省堂書店は明治14年創業なので関係なさそうだ。斎藤は、店名と枚数だけでなく、写真の内容も記録している場合も多いので凄い記録だ。何枚持っていたのかと思ったら、 (明治八年八月) 八日(略)○写真四百四十八枚になる

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  • 内田文庫主任彌吉光長と霊感透視家山本精一郎の『民俗の風景』(朝日書房) - 神保町系オタオタ日記

    一昨年文庫櫂で『民俗の風景』2巻1号(朝日書房、昭和10年1月。以下「誌」という)なる雑誌を発見。表紙に霊感透視家山精一郎主宰というアヤシゲな表記があるので購入。32頁。昭和9年8月創刊の『古典風俗』を改題したようだ。目次の一部をあげると、 山村に残る古典風景 三田克彦 現代に於ける太古の遺風(二) 山精一郎随筆集 とはずがたり(二) 松晩翠 播磨の国の民謡二三 島田清 桃太郎の誕生 福田圭 山氏の霊感に就いて 吉田晴風 民俗後記 山の「現代に於ける太古の遺風」は『信仰と民俗』(朝日書房、昭和10年3月)に収録されている。そこでも山の肩書きは霊感透視家である。なお、松の「とはずがたり」も収録されているので、松は山の別名と思われる(追記:松幹一(号晩翠)に『とはずがたり』(泰山房、大正6年)があるので、別人のようだ)。 霊感透視家山の経歴は不詳。霊界廓清同志会編『破邪

    内田文庫主任彌吉光長と霊感透視家山本精一郎の『民俗の風景』(朝日書房) - 神保町系オタオタ日記
  • 三菱自動車工業が作った岩波文庫へのオマージュ、三菱文庫『志望暦』 - 神保町系オタオタ日記

    尚学堂の均一台を善行さんに代わってパトロール。林画伯や近所の某氏とか競合相手の多い場所だ。パラフィン紙がまかれた昔の岩波文庫がポンと置いてあった。全然拾うつもりがなかったが、「MMCリクルートルーム編」とあるのが目に入る。「岩波文庫にしては、変わった編者だなあ」とよく見ると、タイトルは『志望暦』。そして、タイトルの上に「三菱文庫」とあるではないか(◎-◎;) 「なんじゃこれは!」と奥付を見ると、発行所は三菱自動車工業株式会社、発行者は同社リクルート教育部で1985年11月第1刷・1986年2月第2刷。目次は、 就職活動の手引 上 昭和六十一年睦月(一月) 昭和六十一年如月(二月) 昭和六十一年弥生(三月) 昭和六十一年卯月(四月) 昭和六十一年皐月(五月) 昭和六十一年水無月(六月) 昭和六十一年文月(七月) 昭和六十一年葉月(八月) 昭和六十一年長月(九月) 昭和六十一年神無月(十月)

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  • 赤堀又次郎と田中稲城 - 神保町系オタオタ日記

    「書物蔵」氏が言及している赤堀又次郎という人物は、わしも「2008年10月29日」に三田村鳶魚と交遊のあった一人として言及していた。そのほか、どこかで見たと思っていたら、市島春城の日記であった。更に、森銑三『明治人物夜話』所収の「斎藤精輔氏の自伝」に出ていることを発見。森のは、斎藤*1の自伝『辞書生活五十年史』「第八章辞書編輯奮闘時代」の「(C)東五軒町時代」からの引用である。 「是より先、若宮町時代に、赤堀又次郎入所し、種々有益なる助言を与へ、東五軒町時代に引続き来所し、其薀蓄を傾けて余を援助せられたり。余一日帝国図書館長田中稲城氏に会したるに、氏曰はく、赤堀氏は頭脳明晰、博覧強記、当世に冠絶す。君が同氏を得たるは、劉邦の張良を獲、劉備の孔明を獲たる以上に君の事業に光明を与ふるならんと」 続いて、森は次のように書いている。 赤堀翁は、『百科大辞典』の執筆者の一人だつたのであるが、同辞典に

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  • 群馬県中学校初代卒業生の佐野友三郎 - 神保町系オタオタ日記

    群馬県ゆかりの図書館員は結構いるようで、小川徹「佐野友三郎のことー図書館の道を歩み出すまでー」『図書館文化史研究』29号で扱われた佐野もその一人である。同論考によると、1864(元治元)年川越に生まれ、後に山口県立山口図書館長となる佐野は、1882(明治15)年5月群馬県中学校(現・前橋高等学校)の最初の卒業生になったという。 また、『群馬県教育史』第一巻(明治編上巻)が典拠だそうだが、同期の卒業生とその後の地位は、次の通りとある。佐野に限らず、名を残した人が多いようだ。 大竹直四郎 渋川郵便局長、呉服業 沢玄三 前橋中学校教諭 寺沢精一 前橋女学校長、宣教師 豊田宣 三重県桑名郡立高等女学校長 降屋虎雄 私立横浜高等女学校長 山崎金四郎 高崎市助役

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  • 満鉄図書館長と中谷治宇二郎 - 神保町系オタオタ日記

    中谷治宇二郎『考古学研究への旅 パリの手記』の「シベリヤの旅」に、満鉄図書館長のK氏なる人が出てくる (昭和四年) 七月六日晴。朝八時ハルピン着、直ちに満鉄事務所にK図書館長を訪ねる。この地在住の露国考古学者Tolmatchoff氏と面会したいためである。同氏はこの博物館長であるが、目下支那が利権回収のためにその建物を押収して、月・火・木三日の他は開館しないという。しかし氏には会う事が出来た。 (略) 計らずK氏に招かれて日の馳走にあずかる。 初出は、『科学画報』13巻5号、昭和4年11月。このK氏とは、「満鉄哈爾濱図書館長栗栖義助と夫人つた子」で紹介した栗栖ではなかろうか。

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  • 小松左京と大正・昭和の挿絵画家 - 神保町系オタオタ日記

    小松左京研究会の『臥猪庵通信』2巻1号、1979年8月から「臥猪庵通信ジグソーパズル」連載開始。編集者から見た小松左京像だが、第1回は、実業之日社で『週刊小説』の編集をした後、集英社文庫の編集をしている三崎信一郎氏。最初にもらった原稿は『夜が明けたら』の「ツウ・ペア」で、その後の担当作品は、という質問に対し、 三崎 その『夜が明けたら』の中の作品と「題未定」(「題未定」の各章末にある「今週の怒り」等々は三崎氏の筆になるものだそうですーー編集部注)、それに「迷い子」とかの短編が三つ四つあります。 それから、小説ではありませんがーーこれは小松先生から話が持ち込まれてきたんですが、挿し絵を昔からやっている人たちに話をうかがって、資料としてのイラスト史みたいなものをつくっておこうとしたんです。たとえば、蕗谷虹児さん(代表作は「花物語(吉屋信子作)」の挿絵や雑誌『令女界』の表紙絵など)、小田富弥さ

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    wackunnpapa
    wackunnpapa 2012/05/20
    この連載,読みたい。
  • 黒岩比佐子蔵書が神奈川近代文学館へ - 神保町系オタオタ日記

    「古書の森日記」によると、黒岩比佐子さんの蔵書が神奈川近代文学館に寄贈されたとのこと。受け入れには、前館長の紀田順一郎氏の尽力もあったことだろう。蔵書が同館に納まればいいなとは、2011年2月7日にも書いたが、納まるべきところに納まってよかった。 『『道楽』の人 村井弦斎』の「あとがき」に、 平塚市博物館所蔵の資料は、四回通ってすべてを閲覧できたが、神奈川近代文学館所蔵の資料閲覧には、半年以上かけて計三十数回、二百数十時間を費やした。しかしながら、同文学館の特別閲覧室にこもって膨大な資料の山と向き合ったこの時間は、二度と体験できない貴重で贅沢なものだったという気がする。 何年か後、黒岩さんの遺志を継いだ研究者が、蔵書を活用して天国の黒岩さんを驚かせるような発見をする日が来るだろう。

    黒岩比佐子蔵書が神奈川近代文学館へ - 神保町系オタオタ日記
  • 「まるぺ」の起源 - 神保町系オタオタ日記

    「まるぺ」は、某君のみに通じる用語と思っていたら、ネット上に宇宙英雄ペリー・ローダン・シリーズの呼称と出ていたのであった。いつ頃から使われていたのか不明だが、手持ちのオドイ企画&PRCJO発行・企画・編集、井口忠利・狂頭不乱頭翻訳『ペリーローダン大95図解』(昭和54年6月)の裏表紙にでかでかと丸の中に「ペ」*1と書かれている。なぜそんなを持っているかというと、「若さ故の過ち」と認めます、はい(汗) (参考)「回想:日ローダンファンダム20年史」・・・ただし、PRFCの歴史については若干の事実誤認があると思われる。 *1:カタカナの「ペ」に見える。

    「まるぺ」の起源 - 神保町系オタオタ日記
    wackunnpapa
    wackunnpapa 2012/04/01
    1984年頃には,もう一般に流布していたかと>まるぺ
  • 帝国図書館の生き字引鹿島則泰 - 神保町系オタオタ日記

    篠田鑛造『明治開花綺談』の「牢内の阿辰弥太郎」に、帝国図書館の鹿島則泰が出てくる。 上野図書館の生字引といわれた鹿島則泰翁は、昭和十五年の春同館を勇退されたが、館内のあらゆる書籍に翁の呼吸のかからぬものはない。筆者はなにかにつけて翁をわずらわし、秘書の披閲に便利を獲ていた。今や翁同館を去られるについて、胸中一片の淋しみは、落花の夕にたたずむ心地である。 翁の先代は則文氏、号を桜宇、国学の大宗で安井息軒の門にも遊び、和漢の全籍に通暁し、朝典故に精しく、夙に勤王の士と交わり、皇室の式微を慨嘆する等、ついに幕府の嫌忌に触れて八丈島の流刑に処せられる。その裁断中、伝馬町の牢内に在り、青木弥太郎に推されて一番名主の畳の上に、読書吟咏の暗き日を送られたものと思う。 鹿島が昭和9年7月に開催された偽書偽作座談会の出席者であることについては、「書盗学者にして偽書作成者島田翰」参照。なお、同年10月1日現

    帝国図書館の生き字引鹿島則泰 - 神保町系オタオタ日記
  • [図書館][平井金三][森茉莉]国会図書館の「デジタル化資料(貴重書等)」のお得な使い方

    国会図書館のホームページの「電子図書館」の「デジタル化資料(貴重書等)」で「森茉莉」を検索(「館内限定公開資料を含める」にチェック)すると、全集未収録エッセイがザクザク見つかる。ついでに、「平井金三」も検索すると、精神学院の『心の友』という雑誌に明治42年1月から11月まで「心象研究」を連載していたことがわかる。この精神学院というのは、『難病患者の福音』(精神学院、明治44年7月8版)によると、「元精神学会長桑原俊郎の後を承けて新に立て」たもののようだ。 (参考)国会図書館のデジタル化資料の検索により従来の個人書誌の漏れを補う雑誌文献が随分見つかることについては、森洋介「雑誌記事索引の遡及擴張は成るか デジタル化事業に潜む副産物の功用」『文献継承』19号、2011年10月にも書かれている。

    [図書館][平井金三][森茉莉]国会図書館の「デジタル化資料(貴重書等)」のお得な使い方
  • 関根正二が利用した中和図書館 - 神保町系オタオタ日記

    『関根正二遺稿・追想』に関根の日記が収録されているが、そこに中和図書館という図書館が出てくる。なお、関根については、「大正6・7年の久米正雄と燕楽軒の時代」も参照。 大正5年1月6日 太平洋研究所今日から始まる。朝九時頃出てかく。十二時帰り。夜(の)来るのを待ち、行くべき所なき為め、中和図書館で七時頃迄で話しこみ、家に帰り夕をすまして、彼女の所に行くべき手段として、酒十五銭を買ひ持ち行く。 「中和図書館」への註として、「東京市立図書館分館のことで、大正三年に所区林町の中和尋常小学校内に開館」とある。帝国図書館や日比谷図書館は各種日記中にしばしば見ることができるが、このような小規模図書館を利用した記録が日記で見られるのは珍しいような。

    関根正二が利用した中和図書館 - 神保町系オタオタ日記
  • 2012-01-09

    小田嶽夫『文学青春群像』に、慶應の図書館員加藤元彦が出てくる。 翌昭和三年の五月に私は日へ帰った。「葡萄園」の編集者加藤元彦が郷五丁目の千代田館という下宿屋にいたので、まっ先に彼を訪ね、幸いそこに空室があったので、私はそこに落ちつくことにした。(略) ところで、加藤は編集の世話は焼いたが、自分では全然書こうとする気配がなかった。彼は慶大の図書館に勤めていたのだが、夜はいつもドイツ語を熱心に勉強してい、私が時たま訪ねても、文学談に熱を入れるようなことは全くなかった。新同人の連中の話では、彼は慶応のドイツ語の教師になるらしいとのことであった。 この加藤は、確かに慶應義塾大学図書館の職 員で、『慶應義塾図書館史』によると、同大学独文科卒、大正14年4月から昭和10年4月まで勤務し、その後慶應の予科教員になっている。『第十四版大衆人事録 東京篇』(昭和17年10月)を見ると、 加藤元彦 慶大予

    2012-01-09
    wackunnpapa
    wackunnpapa 2012/01/16
    オタさん復活してた。
  • 奥田啓市鹿児島県立図書館長と全日本科学技術団体聯合会 - 神保町系オタオタ日記

    柳田國男の年譜によると、柳田は、昭和11年4月28日鹿児島県立図書館で郷土資料を見学、5月1日には同図書館で講演している。これにより、柳田は当時館長だった奥田啓市と面識があったと思われる。奥田の経歴は、『簡約日図書館先賢事典』によると、 奥田啓市 おくだけいいち 1880−19?? 2.1908/早大 3.1910/東京市立日比谷図書館,長崎県立図書館,1921/鹿児島県立図書館館長,1944/退職 この鹿児島県立図書館長を退職した後の奥田らしい人物が、柳田の『炭焼日記』に出てくる。 昭和20年1月18日 奥田啓市君久々にて来る。技術団体聯合会にはたらくといふ。永井亀彦翁のことを話す。 「永井亀彦翁」は、昭和40年10月6日付読売新聞の訃報にある永井と思われる。記事を要約すると、 永井亀彦 エラブウナギ研究家 昭和40年10月5日、鹿児島県鹿児島市原良町の自宅で死去、87。鹿児島県出身。

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  • 2011-11-18

    浅野晃「大和の旅」(『祖国』昭和25年9月号〜26年12月号)*1によると、 これも後日談になるが、大和の旅から帰つてのち、やはり東京で柳田國男先生をお訪ねした。先生のお宅へは、終戦の年の五月ごろ、折しも空襲のまつ只中にお伺ひしたのが最後であつた。七十五歳の高齢の先生は、意気ますます壮んであつた。いまごろ北海道などでのんきに遊んでゐるなどとは飛んでもない心得ちがひだと、いきなり叱られたのには、内心すくなからずおどろいた。 「ちかごろはどんな勉強をしてるかね」 仕方がない。僕は正直に答へた。 「詩を書いてゐます」 「なに、詩だつて」 「はい」 「いまどき吟歎を事とするなんて、困つたもんだね」 吟歎を事とする−−はひどいと思つたけれども、どうしやうもない。 「先生と逆です」 僕はさう云つた。さう云つた意味は、先生も若い時は詩人であつたではないか。詩を書いてゐられたではないか。まあさういつたわけ

    2011-11-18
  • 日比谷図書館員佐々木周雄 - 神保町系オタオタ日記

    草野心平の年譜を見てたら、大正13年8月の欄に「広州に帰ってのち磐中時代の後輩佐々木(旧姓赤津)周雄(当時日比谷図書館勤務)から宮沢賢治の『春と修羅』が送られてくる。一読瞠目する」とあった。この佐々木だが、戦後の人事興信録にある佐々木と同一人物と見てよいだろう。 佐々木周雄 ささきかねお (株)日刊工業新聞社専務・出版局長 浅間観光(株)取締役 明治40年4月19日福島県赤津周助の三男に生れ、なをの養子となる。 昭和17年軍事工業新聞編集局長、20年9月日刊工業新聞専務に選ばれ、編集局長・業務局長を歴任。 この佐々木は、昭和39年12月22日に亡くなっている。館界では全く足跡を残していないと思われるが、新聞界では成功したようだ。 (参考)赤津周雄に関心を持つ福島県いわき市出身の秋田市立中央図書館明徳館館長北条常久氏によると、赤津は星一から奨学金を受給していたようだ→「http://www.

    日比谷図書館員佐々木周雄 - 神保町系オタオタ日記
    wackunnpapa
    wackunnpapa 2011/11/09
    おや,星一が。