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ブックマーク / yonezawakoji.com (246)

  • 井上成美記念館を訪ねて2022年 後編 

    井上成美記念館を訪ねる記念館への道のり井上記念館、彼が戦後に終生の地として選んだ長井という地区は、上の地図のとおり三浦半島の南端部にあります。アナログ地図ではかなり見つけにくいですが、現在では文明の利器Google mapで「井上成美」と検索すればすぐに見つかり、場所の特定は難しくありません。 しかし、言うは易く行うは難し。実際に行くとなるとこれがなかなか厄介なのです。実際に現場まで来てみると、現在でも交通不便な地なのに戦前にここまで来るのはかなり困難だったのではないかという疑問が沸いてきます。というか、よく「こんな場所」に別荘を建てたなと。 現在の地図を見ると、京急の三崎口駅が最寄り駅のように見えます。が、京急がここまで開通させたのは昭和50年(1975)。つまり井上がこの世を去った年なのです。 一瞬途方に暮れてしまいましたが、冷静になって調べてみると、長井地区にはかつてバスが通っており

    井上成美記念館を訪ねて2022年 後編 
    yaneshin
    yaneshin 2022/12/22
    このような貴重な歴史遺産が風化していくのは寂しいですね。
  • 井上成美記念館を訪ねて 前編 井上成美とは

    先月、潮が巷に香る街、横須賀へ行ってまいりました。 その旅の目的は、ある人物の故居を訪ねるもの。 横須賀は言わば軍都。旧帝国海軍による鎮守府開設から始まり、戦後も海上自衛隊はや米海軍の根拠地、そして防衛大学校や自衛隊の各種学校が集まる「軍の街」なのは現在も変わっていません。 そんな旧帝国海軍の中で、異彩を放った一人の軍人がいました。 その名は井上成美。 私の横須賀入りは、彼が晩年を過ごし、そこで亡くなった家を訪ねるもの。そこで

    井上成美記念館を訪ねて 前編 井上成美とは
    yaneshin
    yaneshin 2022/11/27
    井上大将は人材を育てたという意味では戦後の我が国の恩人の一人でもあるのではないかと思いました。
  • 川崎のドヤ街 日進町・貝塚をゆく

    と地元民であればあるほどこう思ってしまいがち。 ただ、一般世間的には知られていないというのが正解と思います。 今回は、そんな隠れた(?)ドヤ街へご案内。 川崎ドヤ街① 日進町川崎のドヤ街案内その1は、川崎駅から南西の方向にある「日進町」という街区の一角。JR線と京浜急行線にはさまれたエリアです。 日進町は、もともと「堤根」「上並木」「見染町」などの町を統合した町で、「日進月歩に町が発展しますように」という願いを込めて名付けられました。 松尾芭蕉の句碑川崎は東海道の宿場町として栄えた都市ですが、日進町界隈は旧東海道も含んでいます。松尾芭蕉は東海道を西行し川崎宿で門人たちに見送られる際、 『麦の穂をたよりにつかむ別れかな』 という句を作りました。芭蕉が生きていた時代、ここあたりは麦畑か、野生の麦が生える無人の地だったのでしょう。 その数ヶ月後、芭蕉は大坂で亡くなりますが、ここが芭蕉と門人たちと

    yaneshin
    yaneshin 2022/11/18
  • 札幌白石遊郭の歴史(北海道札幌市)|おいらんだ国酔夢譚|

    白石遊廓の歴史札幌の白石は伊達家の仙台藩の支藩、白石藩の士族が移住し開拓した地でした。その不屈の開拓精神から、薄野遊郭の生みの親である岩村通俊が彼らの労をねぎらう意味で、「白石」と名付けました。 遊郭がのちに作られる菊水地区、旧上白石地区は、白石を開拓した旧士族の一部が移住したのが始まりでした。 ところが、北海道の気候はただでさえ過酷なのに、病気や虫による被害や慣れない農業でかなり苦戦を強いられていました。そんなところに、遊郭移転の話が舞い込んでくることに。 白石の民は大手を振って土地を提供、おそらく札幌市議会などへの政治工作も行ったことでしょう、大正6年(1917)に移転先が白石に決定します。 移転が始まったのは翌年からで、当時薄野にあった33軒のうち、31軒1が移転したそうです。 前回の薄野遊郭編でも書きましたが、遊郭の移転は町おこしのカンフル剤。 遊郭が移転→人が集まる→(飲み屋など

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    yaneshin 2022/11/02
  • 札幌薄野(すすきの)遊郭の歴史|おいらんだ国酔夢譚|

    空前絶後!薄野遊郭の奇「東京楼」この薄野遊郭、開拓使という官が旗振り役となって作られた特性から、他の遊郭とは少し違った特徴を備えていました。 それが「東京楼」という存在。 『薄野百年史』より、東京楼の花魁、芳子(真ん中)と世話係(禿)とされる写真1872年(明治5)9月、薄野にできた妓楼の一つなのですが、なんとこれ、開拓使が建設費から遊女の斡旋まで行った官設遊女屋。「御用女郎屋」とも呼ばれました。 と岩村人が開拓使の予算から調達した異例の妓楼で、東京の吉原から遊女をスカウトしたりとこちらも急ピッチで展開。隗かいより始めよと公の予算から捻出され建設された妓楼は、日遊郭史において空前にして絶後の存在。それほど事態が逼迫していたのでしょう。 ただし、官設・ではあっても官営・というわけではなかったようで、器だけ作って実際は松弥左衛門、城戸弥三郎という民間人にレンタルされていたようです。 東京

    yaneshin
    yaneshin 2022/09/23
    今はグルメの街でもありますね。以前行ってきましたがジンギスカンが美味しかったです。
  • 札幌すすきの 地名の由来を探偵する

    北海道、いや、東京以北では名実ともに最大の歓楽街だろう札幌のすすきの。「すすきの」という名前を聞くだけで心が小躍りしそうな脈動感に苛まれる人も少なくないと思います。 先月に念願の初北海道上陸を果たした私ですが、もし酒豪だったら、いや下戸じゃなかったらここで飲み明かすぞ~と財布のひもがgdgdに緩んだことでしょう。酒が飲めないので余計な金が飛ばず幸と出たのか、せっかくすすきのまで来て酒を一滴も飲まず全く遊ばないのはもったいない不幸と出たのか…。 ちなみに、「すすきの」や「ススキノ」と表記されることが多いここ、漢字では「薄野」と書きます。ひらがなやカタカナ表記の方が馴染みがあるで、漢字なんてあったんやと驚く人も多いかもしれません。 それはさておき、このすすきのの歴史は、明治初期にさかのぼります。 明治初期の北海道開拓は、開拓というと聞こえはいいが自然という敵を相手にした戦争。人間なら「話せばわ

    札幌すすきの 地名の由来を探偵する
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    yaneshin 2022/09/07
  • 外国人特集番組は何故欧米人ばかり取り上げるのか?疑問に思うなら番組に聞け!

    コロナ禍でとん挫してしまいましたが、2019年の訪日外国人観光客数は3,000万人を突破。最初は国でさえ、2000万人超えればいいんじゃないと考えていたのですが、予想以上の増加ぶりに対策が追いついていないほどでした。 故郷の沿線が関空の近くだったので、JRの関空快速や南海の空港急行に乗る機会がよくありました。その時の車内は無国籍料理の寄せ鍋状態。日語が全く聞こえないことも多々ありました。 それによる軋轢もあるにはありますが、外国人観光客の増加は個人的には良い傾向だと思います。 マイナス要素ばかりのコロナ禍ですが、実は日にとってプラスに働いていることも。 コロナによるロックダウンはまだ記憶に新しいですが、それによってブームが再燃したのが漫画やアニメ。 『週刊少年ジャンプ』などを発行している集英社は、海外での日サブカル人気を受け2019年から外国人向け漫画アプリを展開しています1。『少年

    外国人特集番組は何故欧米人ばかり取り上げるのか?疑問に思うなら番組に聞け!
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    yaneshin 2022/08/28
    実際にテレビ局に質問をぶつけているのが良いですね。 それをせずに批判だけをする人がいるのは、自分自身の結論が正しいと思い込んでいて、違う結果が出ても見えないし聞こえないという感じになってるんでしょうね
  • 和歌山市鼠島の新開地(湊新地)|おいらんだ国酔夢譚|

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    yaneshin 2022/08/06
    南海フェリーを利用するのに何度か和歌山港へ行きましたが、あんなところにもあったんだと思いました。
  • 南海鉄道大浜駅-短命に消えた幻の駅【南海電鉄歴史紀行】

    という話は歴史を調べているうちに気付いていました。実際、調べてほしいという依頼はTwitterでもあったのですが、試しにググってみても出てくるのは軌道線(現在の阪堺電気軌道)の大浜支線のことばかり。調べるといってもその種すらないまま、月日だけが過ぎていきました。 そんな幻のような駅、龍神駅の乗客推移を『大阪府統計書』で調べていくと、奴は唐突にその姿をあらわしました。 奴の名前は大浜(大濱)駅。 堺市の近代史を綴った『堺旧市雑史録』によると、大浜駅は明治40年(1907)に開業しました。統計書にもその年から登場するので、これは間違いないと思います。 絵はがきの右にある多角形の建物は、駅舎でしょうか。この駅については、「あった」ということはわかったものの、それ以上の資料に乏しく詳細は不明です。 この駅の設置理由は、ずばり大浜海岸への海水浴客。 大阪湾の海水浴場と言えば浜寺が有名ですが、大浜も夏

    yaneshin
    yaneshin 2022/07/17
    阪堺病院の近くですね。仕事でこの辺りはよく通りましたが、確かに痕跡はなかった記憶はあります。連続立体交差工事で完全に痕跡が消えたのかなとは思います。
  • ガマ将軍南喜一から見た玉の井|おいらんだ国酔夢譚番外編|

    玉の井の惨状昭和5年(1930)、南は保釈され1寺島の地に戻ってきます。寺島とは今の向島の地で、そこを拠点にして労働運動を始めることとなりました。場所は玉の井の駅前、現在の東向島駅の目の前にあったといいます。 いちおう「働き方改革」を求める労働運動の事務所なものの、世話好きな南のもとには家賃トラブルから夫婦げんかの仲裁まで、色んな相談が持ち込まれました。 その中には、玉の井で起こる事件も少なからずありました。 昭和8年(1933)の正月、南の事務所にある女が飛び込んできました。彼女を仮にA子としましょう。 彼女は服や髪が乱れ、裸足で明らかにどこかから逃げてきたのは明らかでした。 南が事情を聴くと、彼女は目の前の玉の井で働く「酌婦」でした。「酌婦」とは、辞書とおりに述べると「客の横についてお酌をする女」ですが、そんなものはただの文字にすぎない、実態は娼婦・売春婦の代名詞でした。この女性も例に

    yaneshin
    yaneshin 2022/07/02
    玉の井の話だけではなく、赤旗と産経新聞に関わった人物やヤクルトの話など、意外な繋がりが楽しめる話でした。縁は新たなものを生み出す源泉なのかなと思いました。
  • 焼津の赤線(静岡県焼津市)ー嗚呼、銀水楼|おいらんだ国酔夢譚|

    焼津とくれば、真っ先に思いつくのが遠洋漁業の街というイメージ。焼津という漢字を見ると「焼」という文字の存在感がなくなってしまうほど、潮の香りを感じる街であります。実際、焼津市のイメージソング名は「今、潮騒のまちへ…」であり、やはり海辺の漁業の町というイメージを前面に出しています。 マグロとカツオの漁獲高は日一であり、ここに住むと毎日マグロがえそうな魚好きにとってはこの世の極楽。魚介類大好きな私も、老後は魚市場がある海辺の街に移住して毎日魚をって死にたいなと思うことがあります。 漁業の町焼津には、そのイメージに反するようなものが存在します。それは天然温泉。 駅前には足湯があり、 街中には格安天然温泉まであります。焼津に温泉のイメージなんて全くなかったので、駅前に足湯があるのにはおっかなびっくりでした。 温泉は地下1,500m以上から湧き出たもので、港町らしく塩分多めなのが特徴です。富士

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    yaneshin 2022/06/23
    売春防止法施行下のせめぎ合いを見ていると、現在のAV新法と重なる点があるなと思いました。人の欲望を単純に規制だけで済ませても闇に潜るだけですし、何ら問題の解決にはならないとは思いますけどね。
  • なぜ日本人は英語が話せないのか。歴史・文化的な5つの理由

    「日人はなぜ英語が苦手なのか」という永遠のテーマ通訳として働いていた頃、外国人によく聞かれた質問がありました。 英語に限ったことではありません。日人は何故外国語が苦手なのか?ある意味我々にとっては永遠のテーマです。 いろんな人がいろんな要因を挙げて語っていますが、よく挙げられる説を。 1.日語は他の言語と比べて文法構造がうんぬん この理屈が成り立つのであれば、英語と文法構造が違う韓国人やモンゴル人、フィンランド人なども苦手でないと理屈が成り立ちません。日語だけが特殊なのではありません。 実際は、モンゴル人は英語(以前はロシア語)のバイリンガルが多いし、フィンランドの英語普及率は政府が「100%宣言」しています。 これで論理が破綻します。 2.日は島国だからうんぬん 同じ島国のアイルランド人が英語とアイルランド語のバイリンガルという理屈は? フィリピンがタガログ語(や他の言語)+英

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    yaneshin 2022/06/01
  • 玉の井の赤線跡を歩く(東京都墨田区)|おいらんだ国酔夢譚|

    私娼窟の代名詞でもあり永井荷風の小説墨東奇譚の舞台となった「玉の井」の歴史を、戦前から赤線時代まで資料を豊富に用いて解説。これで玉の井から「ぬけられない」。 項では実際に玉の井を歩き、現在の玉の井はどうなっているのかを書いていきたいと思います。もちろん、戦後の赤線時代のものです。 実は、ここは2009年に一度探索しているのですが、その時と比較しながら歩いてみました。 最寄り駅は、現在は「スカイツリーライン」という愛称が振られている東武伊勢崎線の東向島駅。かつての駅名は「玉ノ井」、ある意味そのまんまです。現在でも括弧で「旧玉ノ井」と書かれており、これは地元住民の切望による特例です。 なお、この裏話によると「玉の井の名前を残してもらうために東武の偉いさんをすごく接待した」と玉の井側当事者が述べております(笑 現在の地名は「東向島」となっており、玉の井が現役時代も「寺島」という地名だったのです

    yaneshin
    yaneshin 2022/05/26
    玉の井と言えば濹東綺譚ですが、しっかり永井荷風の言葉を入れられているのはさすがです。
  • 釜ヶ崎のオカマと男娼の話|おいらんだ国酔夢譚 番外編|

    釜ヶ崎…現在はあいりん地区という玉虫色の名前で呼ばれていますが、あまりに人工的すぎて現在でもその地を釜ヶ崎と呼ぶ人がいます。 日でも有数の人間の刺激臭を肌で感じることができる場所として全国でも有名となり、存在に蓋をされた「大阪の暗部」として、現在も独特の存在感を示しています。 「あいりん地区」と聞いて、事情がわからない人が真っ先に思いつくイメージが、 だと思います。大阪人として不意ではありますが、時には大阪の悪いイメージを強調する材料としても、ここが取り上げられることもあります。 確かに、3~40年前は子供が徘徊するような場所ではありませんでした。高校生の頃に友人と夜に徘徊したことがありますが、確かに雰囲気はあまり良くなく、酔っ払っているおっさんが道ばたで横たわり、歩いている人も目つきが異様な光景。 これは怖いなとジャンジャン横町あたりに逃げると、怖いおにーさんに呼び止められ、 とやさ

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    yaneshin 2022/05/22
  • 旧東海道 御油宿に眠る飯盛女の墓

    徳川家康の故郷、旧三河国を走る旧東海道の、お江戸日橋から数えて35番目と36番目に、御油宿と赤坂宿がございました。現在はどちらも愛知県豊川市に属しています。 赤坂と御油宿の距離は非常に近く、実は16丁(約1,800m)しか離れていません。電車でも一駅の距離に宿場があるのは、日の街道のなかでも非常に珍しく、数ある日の街道の中で宿場間の距離がいちばん短いと言われています。普段から歩いている人は、軽いウォーキングの程度の運動量で到着。ママチャリでも所要10分くらいじゃないでしょうか。あまりに近すぎるため、赤坂と御油は「赤坂=御油宿」として一つの宿場とみなす人もいます。 また、両宿の間には松の木が道の両側をアーケードのように囲っています。この松並木は、弥次喜多道中でお馴染みの『東海道中膝栗毛』にも登場し、 と茶店の人に言われた弥次さんが、松並木の前で待っていた先行の喜多さんを化け狐と勘違いし

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    yaneshin 2022/05/15
  • 女郎買道(愛知県岡崎市)ー日本のヘンな地名をゆく

    とにわかには信じられない気分でした。 女郎買道…その謎と歴史女郎買道…「女郎」とは遊女のこと、つまり身体を売る女性の総称です。なので、地名は「女郎を買う道」と字そのまま。そんな直球ストレートな地名は、愛知県岡崎市にあります。 近世の東西の大動脈街道、東海道でもある国道1号線から南へ外れた位置に、その珍地名は存在します。地図で見るとかなりの山奥ですが、なぜこんな場所にこんな地名が? その謎を解くべく、私はある場所へ。 岡崎市立中央図書館(Wikiwandより)そこは岡崎市立中央図書館。現在、女郎買道は岡崎市に属している地名なので、ここに行けば何か資料があるに違いない。 地元の地誌や地名一覧を館員のおねーさまに探してもらうと、いくつか「女郎買道」についての記述がありました。それによると、「女郎買道」の由来は以下の通り。 それ以上のことは、私を含め数人で資料と格闘しても何もわからずでした。ああい

    yaneshin
    yaneshin 2022/05/08
    解説があるからこそ分かりますが、くずし字を読むのはなかなか難しいですね。文献を読む上では必須のスキルなのですが。
  • 鳩の街赤線街(東京都墨田区)|おいらんだ国酔夢譚|

    敗戦後の東京、占領軍として日に君臨したGHQは、良くも悪くも日に数々の改革を実施しました。大地主制度や財閥など、解体・廃止したものも多かったのですが、その中の一つに「公娼の廃止」がありました。公娼って何ぞや?と説明するのも面倒臭いので、ここでは「遊郭」と理解していただいて結構です。 そう説明すると、遊里史をかじった人はこう疑問符がつくはず。 そう、戦後には「赤線」があったはずだと。 しかし、厳密に言うと赤線は遊郭の延長ではあるけれども、公娼ではありません。赤線は警察などの公的機関は「黙認」していたけれども、認めていたわけではない。対して遊郭は「公認」。だから”公”娼なのです。黙認と公認は、天と地の開きがあります。 研究者によっては、 と主張する人もいますが、私個人としての考えは、赤線は「私娼窟」としています。 昭和20年代〜30年代前半の東京には、赤線だけでも10ヶ所以上が存在し、夜な

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    yaneshin 2022/04/23
  • トーチカからの思考

    ロシア語を勉強するということ日人は、「一所懸命」「一心不乱」というように、「一」が大好き。一つのことを極めることを美学とします。ただし、それが生理的に合わない人もいます。それが私なのですが。 あくまで語学屋としての「」は中国語。他の外国語はすべて「愛人」です。実用としての英語は、「第二夫人」といったところでしょうか。 と誰かが言ったそうですが、「浮気」で視野が広がり、回り回って「」の肥やしとなって彼女がより綺麗になる。こんな良い「浮気」はありません。ただし人間世界でやっちゃダメよ。 私の「愛人」の一つに、ロシア語がありました。現在は英語に全外国語エネルギーを集中しているため過去形ですが、外国語の勉強は、上述した「もう一つの目を養う」ためでも、「脳の防腐剤」よろしくボケ防止でも目的は自由。「ペラペラ」なんてただの飾りです、偉い人にはそれがわからんのです。 ロシア語というと、2月から

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    yaneshin 2022/04/17
    言語を学ぶということはまるでパズルを当てはめるが如しという印象を受けました。
  • 外行語-海を越え外国語になった日本語

    という声をよく聞きます。20年前も、10年前も、そして今も(笑) 特によく聞かれるのが、 「カタカナ語が多い」 ということ。特に最近は英語の氾濫で日古来のことばが滅んでしまうのではないか・・・そう声高に主張します。 別にカタカナ語は今に始まったことではありません。 明治時代の学生の話し言葉を忠実に描いた「当世書生気質かたぎ」には、こんな会話があります。 「我輩のウォッチではまだテンミニッツ位あるから急いで行きよったら大丈夫じゃろう」 坪内逍遥『当世書生気質』お前はルー大柴かと突っ込みたくなりますが、当時はこういう英語ドイツ語混じり会話がインテリの間で流行していました。 だから、そんなに神経質にならなくても言葉は自然に駆逐されるものだし、仮にカタカナ語に駆逐されたとしても、文書として残るので滅びはしません。 日語は、外来語を柔軟に受け入れるソフトな言語に入ります。英語歴史的経緯から、

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    yaneshin 2022/04/14
  • 黒磯遊郭(栃木県那須塩原市)|遊郭・赤線跡をゆく(おいらんだ国酔夢譚)|

    黒磯と言うより、那須と表現した方が万人にわかりやすいと思います。 那須と言えば、高原でハイソなイメージを持つ方が多いのではないでしょうか。 それもそのはず、天皇家や皇族方の別荘として使われている那須御用邸の最寄駅として、駅には皇室専用出入り口や貴賓室も備えられています。手前の扉が皇族の方専用、奥が侍従などお付きの者用だそうです。ただし、東北新幹線と那須塩原駅開業後はもっぱらそちらを使うようになり1、こちらが使われることは滅多になくなったとのこと。 貴賓室は非公開ですが、気まぐれに公開されることがあるようです。 なんでこんな話から始まったのか?この話をしないと、黒磯の遊郭の話、なぜ黒磯に遊郭ができたのかが説明できないので。 那須の歴史と黒磯の遊郭成立黒磯駅ができるまでの那須野は、駅前ですら人間がほとんど足を踏み入れていないような、うっそうとした原生林が広がる未踏の原野だったと言います。現在の

    黒磯遊郭(栃木県那須塩原市)|遊郭・赤線跡をゆく(おいらんだ国酔夢譚)|
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    yaneshin 2022/03/29