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ブックマーク / call-of-history.com (261)

  • フィリップ1世(フランス王)

    「フランス王フィリップ1世の肖像画」(ジロー・サント=エヴルー画、1837年、ヴェルサイユ宮殿収蔵) Credit: Gillot Saint-Evre, Public domain, via Wikimedia Commons 諸侯との対立と王権の勢力拡大 1052年、西フランク(フランス)王アンリ1世と王妃アンヌ・ド・キエフの長男として生まれる。名前のフィリップ((Philippe)はフランス史上初めて登場するギリシア語由来の名前で、ビザンツ帝国との関係が深いキエフ大公家出身の母アンヌ・ド・キエフによって名付けられたと考えられている(2« Deux enfants naissent : Philippe et Hugues. Le premier, associé au trône en 1059, succède à son père l’année suivante. Voilà

    フィリップ1世(フランス王)
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    yaneshin 2024/04/29
  • アンリ1世(フランス王)

    「フランス王アンリ1世の肖像画」(メリー=ジョゼ・ブロンデル画、1837年、ヴェルサイユ宮殿収蔵) Credit: Merry-Joseph Blondel, Public domain, via Wikimedia Commons アンリ1世は1008年頃、カペー朝第二代のフランク(フランス)王ロベール2世と王妃コンスタンス・ダルルの次男として生まれた。1016年、ロベール2世がブルゴーニュ公領の継承権を獲得、アンリにブルゴーニュ公位が与えられた。1025年、ロベール2世の共治王だった長兄ユーグが亡くなるとロベール2世はアンリを後継としようとしたが、王妃コンスタンス・ダルルは三男ロベールの後継を望んで対立する。1027年5月14日、ロベール2世の意志が通ってアンリは共治王として戴冠した。 1029年から31年にかけて、アンリとロベールの兄弟は母コンスタンスに促されて父王に反逆、ドゥルー、

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    yaneshin 2024/04/29
  • カドワラ(ウェセックス王)

    大陸からブリテン島へのゲルマン系の人々の大規模な移住はローマ帝国のブリテン島支配体制が崩れた五世紀半ば以降格化したが、ウェセックス王国の建国に至るまでの過程は明らかではない。「アングロ・サクソン年代記」(九世紀後半)によれば、西暦495年、チェアディッチが五隻の船団を率いて現在のハンプシャー州南部に上陸したという。三代目のチェウリン王までの間にブリテン島南西部に勢力を拡大、後に王国の首都が置かれたハンプシャー州ウィンチェスター周辺に六世紀前半頃誕生したと見られていたが、「アングロ・サクソン年代記」以外に史料が無く、これらは疑問視されている。近年の考古学的な調査結果では、六世紀後半から七世紀前半にかけて、より内陸に入ったオックスフォードシャー南部のローマ時代の都市ドーチェスター・オン・テムズ(Dorchester-on-Thames)を中心としたテムズ川上流域に誕生したとみる説が有力となっ

    カドワラ(ウェセックス王)
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    yaneshin 2024/04/29
  • スコットランド王マクベスの虚像と実像 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    ローマ帝国のブリテン島支配が終わった五世紀頃からアイルランド北部のスコット人がカレドニア地方(現在のスコットランド)へと移住を開始し、九世紀頃までにスコット人と原住民のケルト諸語を話すピクト人やブリトン人、ノース人、デーン人などが混住するようになった(注1)。九世紀半ば頃、スコット人の王ケニス・マカルピン(Kenneth MacAlpin,810-858)の下に統合されたと伝わるが史料が少なくこの頃の経緯は定かではない(注1) (注2)。以後ケニス・マカルピンに始まる王朝はアルバ王国と呼ばれ、後にスコットランド王国へと発展した。 アルバ王国の領土は当初、現在の首都エディンバラやスターリングなどがあるフォース湾沿岸地域を中心にその北部に広がるスペイ川の南にかけての一帯に限られていたが、十世紀から十一世紀初めにかけて徐々に南下して拡大し、マルカム2世(Malcolm II,在位1005-34)

    スコットランド王マクベスの虚像と実像 | Call of History ー歴史の呼び声ー
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    yaneshin 2021/07/01
  • スコットランド王家ステュアート家のルーツについて | Call of History ー歴史の呼び声ー

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    yaneshin 2021/07/01
  • 北海諸島の覇者オークニー伯トルフィン・シグルドソン | Call of History ー歴史の呼び声ー

    トルフィンの一族は祖父の代にノルウェーからオークニー諸島に渡って同地で一族支配を確立、父シグルド(Sigurd Hlodvirsson,960頃-1014)はスコットランド王マルカム2世(Malcolm II of Scotland,在位1005-34)の娘をに迎えオークニー伯に叙された。1014年、クロンターフの戦い(注2)で父が戦死すると、幼かったトルフィンはスコットランド宮廷に逃れて庇護下に置かれた。 成人するとマルカム2世の後見を受けてオークニー伯位を継ぎ、現地を実効支配していた二人の異母兄と争って、1020年、オークニーの有力者トルケル・アムンダソン(Thorkel Amundason)と結び長兄エイナル(Einar Sigurdsson)を滅ぼした。1030年、宗主として君臨していたノルウェー王オーラヴ2世(Olaf II Haraldsson,995頃-1030,在位101

    北海諸島の覇者オークニー伯トルフィン・シグルドソン | Call of History ー歴史の呼び声ー
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    yaneshin 2021/07/01
  • 「モーマー(Mormaer)」――中世スコットランドに割拠した地方勢力 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    モーマー(Mormaer)はゲール語で「偉大な」を意味する”mor”と「執事」または「廷臣」を意味するmaerまたはmaorからなる語で、十世紀初頭から十三世紀にかけてのスコットランドで各地に割拠していた自立した地方勢力の支配者を意味し、その支配領域はMormaerdomと呼ばれた(注1)。 Dauvit Broun “Mormaer” The Oxford Companion to British Historyによれば、 史料に初めて登場するのは918年で、言語学的な一致からピクト人の王国の行政システムに属していたと考えられており、大陸のフランク王国における「辺境伯」などのように、900年頃、ヴァイキングの襲撃から守るために置かれ、後に自立勢力化した可能性が高い(注2)。 中世スコットランド史に関する書籍類を見るとMormaerの訳語として領主、地区知事、伯、王などがあるが、日語表記

    「モーマー(Mormaer)」――中世スコットランドに割拠した地方勢力 | Call of History ー歴史の呼び声ー
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    yaneshin 2021/07/01
  • 1,718年前の布告には、バシリカの壁に商品やサービスを含む1,400を超える品目の最高価格が記載されている。

    1,718年前の布告には、バシリカの壁に商品やサービスを含む1,400を超える品目の最高価格が記載されている。
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    yaneshin 2021/03/04
  • 「パヴィランドの赤い貴婦人(The Red Lady of Paviland)」 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    1823年2月15日、オックスフォード大学地質学講義室でパヴィランドの赤い貴婦人等について講義をするウィリアム・バックランド(ナサニール・ウィトック画、メトロポリタン美術館収蔵、パブリックドメイン画像) 「パヴィランドの赤い貴婦人(The Red Lady of Paviland)」は1823年1月、オックスフォード大学地質学教授ウィリアム・バックランド(William Buckland,1784-1856)によって発見された。現地で「山羊の穴(Goat’s Hole)」と呼ばれるこの洞窟からは「ウマ、ウシ、シカ、サイ、さらに、象牙や骨で作られた装飾品をともなう人骨の一部が発見」(注2)され、人骨と象牙製の杖とリング、貝殻などの装飾品は埋葬地の赤土の地層により赤く染まっていた。 ウィリアム・バックランドは最初期に発見された恐竜メガロサウルスの化石の発見・命名者としても知られる考古学・古生物

    「パヴィランドの赤い貴婦人(The Red Lady of Paviland)」 | Call of History ー歴史の呼び声ー
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    yaneshin 2021/02/23
  • 分析された八~九世紀頃のアングロ・サクソン人少女の頭蓋骨。

    分析された八~九世紀頃のアングロ・サクソン人少女の頭蓋骨。 © Garrard Cole, Antiquity Publications Ltd., 2020

    分析された八~九世紀頃のアングロ・サクソン人少女の頭蓋骨。
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    yaneshin 2021/01/31
    アーサー王伝説は奥が深いですね。
  • アーサー王の宮廷キャメロット――語源、伝承、想定の候補地まとめ | Call of History ー歴史の呼び声ー

    このようなローマ時代への憧憬からクレティアン・ド・トロワがカムルス神あるいはカムロドゥヌムをもじってキャメロットと名付けたといわれる。ただし、コルチェスターとカムロドゥヌムとが結びつけて理解されるようになるのは十八世紀のことで(注1)、キャメロットの名が登場する十二~十三世紀にカムルス神/カムロドゥヌムがどれだけ知名度があったかは大いに疑問があり、カムルス/カムロドゥヌム語源説はあくまで説の一つに留まる。 また、キャメロットの名の初出である「ランスロまたは荷車の騎士」の著者クレティアン・ド・トロワがアーサー王最後の戦いである「カムランの戦い」の地名を改作して名付けたとする説の他、ウェールズ語の「カンボランダ(cambolanda:円形の囲い地の意)」や「カンボグランナ(camboglanna:湾曲した岸、または囲い地)」などに関連付ける説や、「カムランの戦い」の舞台となったとみられるコーン

    アーサー王の宮廷キャメロット――語源、伝承、想定の候補地まとめ | Call of History ー歴史の呼び声ー
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    yaneshin 2021/01/26
  • 「モスル・ダム沿岸壁画が発見された部屋の調査写真」

    「モスル・ダム沿岸壁画が発見された部屋の調査写真」 テュービンゲン大学プレスリリースより/© University of Tübingen

    「モスル・ダム沿岸壁画が発見された部屋の調査写真」
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    yaneshin 2021/01/16
  • ルイ9世の下顎

    「Call of History - 歴史の呼び声 -」主宰者。世界史全般、主に中世英仏関係史や近世の欧州・日の社会史に興味があります。

    ルイ9世の下顎
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    yaneshin 2021/01/07
  • 「マーロウ・ウォーロード」と呼ばれるアングロ・サクソン人有力者の墓が発見

    イングランド南東部バークシャーにあるテムズ川中流域の町マーロウの丘陵地で六世紀頃のアングロ・サクソン人有力者の墓が発見された。調査にあたったレディング大学がプレスリリースで発表し、The Gurdian他各紙で報じられている。 発見された墓には装飾された鞘と鉄製の剣、および青銅製のボウルやガラス製の容器、衣類の金具、槍の穂先など多くの副葬品とともに身長6フィート(約1.8メートル)の男性の遺骨が埋まっていた。Live Scienceによると、当時のイングランドの男性の平均的な身長が5.7フィート(約1.7メートル)であったといい、平均的な身長よりかなり高い。研究者はこの遺骨の人物を発見された地名にちなんで「マーロウ・ウォーロード(Marlow Warlord,注1)」と呼んでいる。

    「マーロウ・ウォーロード」と呼ばれるアングロ・サクソン人有力者の墓が発見
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    yaneshin 2020/12/28
  • クロ・リュセ城――レオナルド・ダ・ヴィンチの終の棲家 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    クロ・リュセ城が建つ一帯は十三世紀以降アンボワーズ家の領地となり、家臣らに与えられたのち、アンボワーズから五キロメートルほど離れたロワール川の上流の町リムレイ(Limeray)を拠点とするシトー派のモンス修道院(Abbaye de Moncé)の管理下となり、修道女たちの居館が建てられた。 1471年、モンス修道院からフランス王ルイ11世の側近を務めたアンボワーズ家の重臣エティエンヌ・ル・ルー(Étienne le Loup)に売却され、ル・ルーによって新たに城が築かれ、「クルー館(Manoir du Cloux)」と呼ばれた。1490年、フランス王シャルル8世(在位1483-98)は王家の夏の王宮とするためエティエンヌ・ル・ルーから城を買い取って増改築を行い現在の姿となる。 シャルル8世は新王妃ブルターニュ女公アンヌ(Anne de Bretagne)が王宮であるブロワ城へ行くまでの間こ

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    yaneshin 2020/12/25
  • カーナーヴォン城(Caernarfon Castle)の特徴と歴史 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    カーナーヴォン城はアングルシー島を対岸に臨むメナイ海峡に面したサイオント川河口に建てられているが、この地に最初に城が建てられたのは西暦77年または78年、北ウェールズを征服したローマの将軍グナエウス・ユリウス・アグリコラによって築かれたセゴンティウム(Segontium)要塞にさかのぼる。セゴンティウム要塞を経由してカーリオンとチェスターを繋ぐ街道(ウェールズでは「ヘレンの道」と呼ばれた、注2)も整備され、交通の要衝として発展する。 後にウェールズ語でカエル・サイオント(Cair Seiont)と呼ばれ、ラテン語” Cair Segeint”の名で830年頃成立の「ブリトン人の歴史(Historia Brittonum)」にブリタニアの主要都市の一つとして挙げられている(注3)。 1066年、イングランドを征服したウィリアム1世は北ウェールズにも進出し、ウィリアム1世死後ウィリアム2世時代

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    yaneshin 2020/12/17
  • エディンバラ城――スコットランド王家歴代の居城の歴史 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    エディンバラ城(Edinburgh Castle)はスコットランドの首都エディンバラ市にある中世の城。スコットランド王歴代の居城であり天然の要害に立つ堅固な要塞である。「翼の生えた岩の城」「乙女の城」(注1)とも呼ばれ、「英国史上最も包囲を受けた城」と評される(注2)。ユネスコ世界文化遺産「エディンバラの旧市街と新市街(Old and New Towns of Edinburgh)」を構成する建造物の一つ。 城が建つ岩山「キャッスル・ロック」は古くから砦として利用されていたが、エディンバラ城の築城は十一世紀頃とみられている。1130年頃に建てられた城内の「聖マーガレット教会堂」を除くと、現存する城の古い部分は1430年頃から1588年頃にかけて築かれたものが中心である。 エディンバラ城(Edinburgh Castle) © Ronnie Macdonald from Chelmsford

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    yaneshin 2020/12/12
  • キャリクファーガス城――北アイルランドの要衝の攻防の歴史 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    十二世紀のアイルランドは諸王国がアイルランドの支配権をかけて争う戦国時代となっていた。アイルランド北西部(北イー・ネール)を支配するマク・ロフリンが宗主権を持つアイルランド上王(High King)として、アイルランド東部を支配するレンスター王ダーモット・マクマロー(英語”Dermod MacMurrough”, アイルランド語” Diarmaid mac Murchadha”)と同盟して最大勢力となっていたが、1166年、アイルランド西部を支配するコナハト王が新たにアイルランド上王に就くと諸勢力を束ねて仇敵レンスター王国へ侵攻する。1167年、王位を追われたダーモット・マクマローはイングランド王ヘンリ2世(在位1154-1189)に助力を請うた。 時のイングランド王ヘンリ2世は元々フランス中西部の有力諸侯アンジュー伯家出身で、婚姻関係や戦争を通じてノルマンディー、アンジュー、ブルターニュ

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    yaneshin 2020/12/04
  • ニュートン著「プリンシピア」初版本、世界的調査で新たに約200部が発見 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    10年がかりの大規模調査で初版が倍増今回の調査は約10年前、論文の共同執筆者でマンハイム大学(ドイツ経済学部の博士研究員(postdoctoral researcher)であるアンドレイ・スヴォレンチーク( Andrej Svorenčík)博士がカリフォルニア工科大学でフェインゴールド博士の科学史の学生だったときの学期論文(term paper)から始まった。 スロバキア出身のスヴォレンチーク氏は当時の学期論文で、中央ヨーロッパ、特にハプスブルク帝国における『プリンシピア』の分布について書いたが、その主題は初版が自分の出身国まで辿ることができるかどうかということだった。「1950年代の調査では、スロバキア、チェコ共和国、ポーランド、ハンガリーからの出版物は見当たらなかった」が多くの初版を発見することになった。1950年代は冷戦期であり中東欧での調査に限界があったためだ。 そこで指

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    yaneshin 2020/12/04
  • スコットランド南部で川底から中世の戦略的要衝となった橋の遺構が見つかる | Call of History ー歴史の呼び声ー

    スコットランド、テヴィオット川のアンクラム古橋の遺構 © Historic Environment Scotland / Ancrum and District Heritage Society スコットランド南部スコティッシュ・ボーダーズを流れるツイード川(River Tweed)の支流テヴィオット川(River Teviot)で、歴史上戦略的・経済的要衝として知られた中世の橋「アンクラム古橋(Ancrum Old Bridge)」の遺構が初めて発見された。 スコットランド政府公共部門「スコットランド歴史環境協会(Historic Environment Scotland, HES)」からの資金提供を受けた「アンクラムおよび地区遺産協会(Ancrum and District Heritage Society, ADHS)」が、年輪年代調査コンサルティング会社「デンドロクロニクル社(De

    スコットランド南部で川底から中世の戦略的要衝となった橋の遺構が見つかる | Call of History ー歴史の呼び声ー
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    yaneshin 2020/11/13