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ブックマーク / hokusyu.hatenablog.com (10)

  • 1月24日における新宿中央公園での事件について - 過ぎ去ろうとしない過去

    ■緊急声明 http://livingtogether.blog91.fc2.com/blog-entry-26.html 1月24日(日曜日)、私たちは、「レイシストを通すな!1.24緊急行動」として在特会のデモへの抗議行動を呼びかけました。すでに報告したように、私たちが呼びかけた新宿南口での抗議行動はひとりの逮捕者を出すことなく終了しました。しかしその後、在特会のデモ解散地点となった新宿中央公園にて、デモ参加者と衝突した人物が逮捕されたという情報を知る事となりました。 この件について、すでに多方面から様々な憶測が流されています。私たちのブログにも、予断と偏見に満ちた無責任なコメントが数多く寄せられています。デモ解散時の現場を直接に目撃していない私たちは、逮捕に関する詳細を把握していません。しかし次のことを言わなければならないと考えています。 それはこの間、ヘイトクライム、ヘイトスピーチ

    1月24日における新宿中央公園での事件について - 過ぎ去ろうとしない過去
    z0rac
    z0rac 2010/01/26
    少年の暴力は暴力として在特会のそれも等しく暴力なだけ。/暴力の線引きの恣意性が問題であって、観客と少年達が必ずしも対立する訳ではない。
  • つねちゃんが英雄になってしまうという懸念はただのマッチポンプだよ - 過ぎ去ろうとしない過去

    つねちゃんは、――少なくとも、ぼくのけして長いとはいえない付き合いから言えば――人並みには臆病だ。 警察という保障がありながらも沿道の右翼の罵声には立ちすくんでしまうぐらいには*1臆病だ。 そのつねちゃんが、自らすすんで在特会の暴力に晒されるためにプラカード(という名のただの紙切れ)をかかげたなんてありえない。 つねちゃんがプラカードを掲げるのは、排外主義に対する明確な拒否以外の何者でもない*2。そのような、ある種の信念を貫くと呼べるような行為そのものが、好きでたまらない人がいるのは知っている。でも、そういう人は結局のところ、たとえば城内みのるでさえ賞賛してしまうのだろう。 また、このような暴力が発生することは予期できたはずだから、(排外主義反対をかかげるのは)賢明ではなかったという人もいる。しかし、まさに排外主義が行われているその現場で排外主義に反対してはならないのであれば、われわれは一

    つねちゃんが英雄になってしまうという懸念はただのマッチポンプだよ - 過ぎ去ろうとしない過去
    z0rac
    z0rac 2009/09/30
    うーん。関係ないけど「主体的に参加せよ」ってメッセージは自己矛盾だよなぁ。
  • 警察に守られる左翼と「暴力」について-過ぎ去ろうとしない過去

    15日、他のはてサの人たちといっしょにデモに行って来ました。詳細は以下のリンクからどうぞ。 http://www.labornetjp.org/news/2009/0815shasin デモについて考えたことを書いてみたのですが、この文章、長いうえに基的にサヨクの人しか読者を想定してないので、読む際にはそれに留意してください。 さて、このデモ、自分としてはいろいろな意味で考えさせられるデモでした。警察がさまざまな方法でデモを管理し、ある面では妨害しようとしていたのは事実です。じっさい、デモの前半はいかに警察を出し抜くかにおいて行動していた面がありました。id:Romanceさんが華麗に踊りながら警察の監視をすり抜けていたのにならって*1、ぼくも消極的に隊列を横に伸ばしたり、遅らせたりしようと、ふらふら動き回っていました。しかし、デモの後半になると事情は一変します。水道橋から九段下の駅付近

    警察に守られる左翼と「暴力」について-過ぎ去ろうとしない過去
    z0rac
    z0rac 2009/08/19
    議会外の暴力について。/「暴力」に対する価値判断が含まれているのが微妙に気になる。
  • お答えします - hokusyu’s blog

    http://anond.hatelabo.jp/20090107103438 http://d.hatena.ne.jp/toled/20090110/p1 ↑もう結論でてるね。 でも一応答えます。 いくつか理由が考えられると思います。 自分も「弱者」になるかもしれない。情けは人のためならず→プラグマティズム 「弱者」をほっとくと治安が悪くなる→ネオリベ 「弱者」救済は魂に良い→救貧法 サヨクはどれも違います。サヨクは「強者」だとか「弱者」だとか、努力してるとかしてないとか、そういうことに関心はありません。 共産主義の有名なスローガンは、「能力に応じて働き、必要に応じて得る」です。 己のメシの量がその人の能力で決まるのは理不尽です。だって、ある人が別の人の100倍生産性があったとしても、胃袋の大きさは、人間だもの、それほどはかわりません。人間にはメシが必要なのに、満たされてない人がいる。

    お答えします - hokusyu’s blog
    z0rac
    z0rac 2009/01/09
    うはw/その答えで理解できるのなら初めから質問していないと思う。/知ろうとする「努力w」と伝達可能性の問題。
  • 「歴史=物語」の倫理学―《痕跡》と《出来事=他者》のあいだにある「主体」について― - 過ぎ去ろうとしない過去

    歴史」をとりあえず「記述された歴史」という狭義の意味で定義してみよう。次に、この「記述された歴史」が、実際に起きた出来事としての歴史と等しいものかどうか検討してみよう。たとえば史料において、われわれは戦国時代の日には織田信長という人がいたことを知る。しかし、もちろん同時代には彼以外にも何千万ものの無名の人々がいたのであって、しかし彼らについては、われわれはおそらく永遠に知ることができない。また、「言語論的転回」*1を経た今日では実際に起きた桶狭間の合戦と史料に記述された桶狭間の合戦の間には、どんなに信頼できる史料だろうとなお、埋めることのできない差異があることは常識である。 以上のことから、「歴史」は「物語」*2であるという言説が産まれる。それはある種の人々、たとえば「新しい教科書をつくる会」のような人々にとっては都合の良いナショナル・ヒストリーを構成するための言い訳であり、このような

    「歴史=物語」の倫理学―《痕跡》と《出来事=他者》のあいだにある「主体」について― - 過ぎ去ろうとしない過去
    z0rac
    z0rac 2009/01/06
    うーん。接続が強引な気がする。ちょっと考える。
  • 「野蛮」に対する敵対 - 過ぎ去ろうとしない過去

    冷静に「合法的に」論理的に事を進めようとする「文明国」日と、感情的で「不法で」非論理的な「野蛮な」敵対者という構図が大好きな人がいます。 たとえば竹島教科書記載問題をみてください。彼らの韓国の抗議者にたいする視線は、まさに「文明国の」植民地主義者が「野蛮な」現地人を見る視線です。つまり、上から目線の侮蔑です。あるいは捕鯨問題でもいいでしょう。感情的な反捕鯨国とデータに基づいている論理的な日という図式でこの対立を見ようとする人はエントリのブクマなどを見ればそこかしこにいますね。あるいは死刑問題です。死刑存置のほうがどちらかといえば「野蛮」とみなされるようなこの事例でさえ、彼らはキリスト教という宗教的理由で廃止した「狂信」国と「無宗教の」合理的精神に満ち溢れた日という対立に転化させてしまうのです。当は自身の溜飲を下げたいがためだけだとしてもです。 このような二分法は今にはじまったことで

    「野蛮」に対する敵対 - 過ぎ去ろうとしない過去
    z0rac
    z0rac 2008/07/18
    二分法と云うより権威主義的な自己正当化かと。でもその権威の源泉は気にしないので何処からでも都合よく権威の調達が可能。
  • 「殺すな!」と「殺せ!」 - 過ぎ去ろうとしない過去

    光市母子殺害事件とチベット問題に関するはてな村*1の反応は、サヨク批判はまあ一緒だが、他に関しては一見異なるように見える。だが、実はコインの裏表の関係にすぎないと思う。 ネットを巡回したところ、チベット問題に対して共通して掲げるべき唯一のスローガンは「殺すな!」であるらしい。確かに、複雑な歴史政治の問題が絡み合ったチベット暴動に対して、「殺すな!」だけがあらゆる正義を体現しているかに見えた。それ以上は「蛇足」として扱われた。「殺すな!」に同意してさえ、それ以上の問題について深く言及することは非難の対象になる。自明の正義たる「殺すな!」の貫徹が、最優先事項であったのだ。 しかし、果たして「殺すな!」は自明では無かった。いまやはてな村では「殺せ!」のスローガンで溢れ返っている。ここにおいても持ち出されているのは「社会正義」つまり「正義」の概念であった。「社会正義」のためには、人間を二人も殺し

    「殺すな!」と「殺せ!」 - 過ぎ去ろうとしない過去
    z0rac
    z0rac 2008/04/24
    えっ?「殺せ!」の理由は「社会正義」なの?違うと思うけどなぁ。
  • 決断主義とチベット - 過ぎ去ろうとしない過去

    中国政府は逮捕した市民や僧侶を即刻解放するべきだし、チベットに対する政治文化・宗教的弾圧は行われてはいけない。もちろんぼくも同意見だし、その素朴な感情において主張を行い、デモに参加し、署名を書き、あるいは他の支援活動に参加することは、正当なばかりでなく事態を少しでも良い方向に近づけていくうえで、必要なことであると信ずる。弾圧にノーを突きつけることに対案は必要ないし、ある問題に声をあげていなかったからといって、別の問題に声をあげる正当性が失われるわけではない*1。 だがしかし、である。自分もチベット問題について何かを言わんと思考してみると、それは多大な困難を伴うものになってしまう。 つまり、われわれが、少なくとも、多少なりとも民族問題とチベットの歴史に関する知識がある者が、チベットの弾圧をやめよというとき、それは単に人身に対しての直接的な弾圧のみならず、数々の法や政策に基づく、政治文化

    決断主義とチベット - 過ぎ去ろうとしない過去
    z0rac
    z0rac 2008/03/26
    どう転んでも「内政干渉」なのだから、「弾圧」を止めさせる圧力を掛けるだけでは?/抜本的な解決策は当事者が考えるしかない。米中戦争でもやらない限りは。
  • アレゴリー化する悲惨体験 - 過ぎ去ろうとしない過去

    http://d.hatena.ne.jp/sync_sync/20080226 http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51009734.html sync_sync氏は、自己責任を痛感すべきだ。もちろん、小飼弾なんかに教えてコールしたことをだが。 ぼくが診断するに、この人は末期の自己責任病患者である。 まずは、「責任」という言葉を一端忘れて、「権利」を行使しているのだと考えてみてはどうか。「私はこの会社で働く責任がある」のではなく、「私はこの会社で働く権利を行使している」のだと。それだけで、世の中の見え方がだいぶ変わってくるはず。自己責任ではなく自己権利。「やむなく」でなく「あえて」、「余儀なくされる」のではなくて「踏み切る」。 いやまさにそれこそ、(人質事件以降)一般的に理解されている意味での自己責任ですから!この考え方が身体に染み付いてし

    アレゴリー化する悲惨体験 - 過ぎ去ろうとしない過去
    z0rac
    z0rac 2008/02/28
    御意。選択の幅が無いことと選択することを混同。/「一つしかない選択肢」は選択肢とは云わない。
  • 「野蛮な」文化について - 過ぎ去ろうとしない過去

    http://d.hatena.ne.jp/Dr-Seton/20080110/1199954666 http://d.hatena.ne.jp/Dr-Seton/20080111/1200043013 http://d.hatena.ne.jp/Dr-Seton/20080115/1200386784 http://d.hatena.ne.jp/Dr-Seton/20080117/1200559138 http://d.hatena.ne.jp/Dr-Seton/20080118/1200645505 http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20080120/p1 文化という面から商業捕鯨を再開するべきだとする人に、「ある文化をよそから批判し、禁止することは是か非か」と問うたならば、そのほとんどが「否」と答えるでしょう。それは、「捕鯨は文化なのであって、よそからどうこう

    「野蛮な」文化について - 過ぎ去ろうとしない過去
    z0rac
    z0rac 2008/01/21
    うーん。フルーティアンに「落ちた果物以外食うな」と云われたときに有効な反論は?
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