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ブックマーク / kajipon.sakura.ne.jp (2)

  • 昭和天皇かく語りき

    戦前や戦時中の昭和天皇の発言をひも解いて驚愕するのは、もし同じ発言を一般国民がすれば“政治犯として投獄される”レベルの言葉をずっと言い続けていたこと。仮に僕があの時代に生きて同様の言葉を言えば、憲兵が飛んできて治安維持法違反でしょっぴかれ、右派からは「国賊」「売国奴」のレッテルを貼られ、家族まで猛攻撃されるだろうということ。 右翼は皇室を大切にしており、特に昭和天皇を心底から崇拝している。だが僕は問いたい。ちゃんと昭和天皇の発言を知っているのかと。昭和天皇は満州における軍の暴走に怒り、中国侵略に激しく抗議し、とりわけ日米開戦には徹底的に反対する立場をとっていた。 アジア太平洋戦争(大東亜戦争)の時期、常にといっていいほど、軍部は天皇の心に反することをやってきた。それが言葉の端々から垣間見え、天皇の心労に胸が痛くなるほど。 これまで多くの左翼は昭和天皇を戦争推進派の象徴として見てきたけれど、

  • 伊藤若冲の生涯

    別号、斗米庵(とべいあん、絵を米一斗と交換したから)。八百屋や魚屋が軒を連ねる京の胃袋、錦小路の青物問屋の長男として生まれる。海の幸や山の幸に囲まれて過ごしたことは、若冲の原体験として後の作品に反映されている。22歳で父が没し家業を継ぐ。 若冲と親しかった京都相国寺の禅僧によると、若冲は「人の楽しむところ一つも求むる所なく」と評されている。彼には絵を描くことが人生の喜びの全てで、芸事にも酒にも女遊びにも興味がなく、こうした世間の雑事のみならず、商売にもあまり関心がなかったらしい。とにかく、頭の中は絵筆を握りたいという思いしかなかった。 何がきっかけで絵に目覚めたのか不明だが、家業のかたわら、30歳を過ぎてから絵を格的に学び始めた。最初は他の画家と同じ様に、当時の画壇の主流だった狩野派の門を叩いたが、「狩野派から学ぶ限り狩野派と異なる自分の画法を築けない」と考え、画塾を辞めると独学で腕を磨

    zaki1010
    zaki1010 2012/02/08
    近世日本の画家の一人。江戸時代中期の京にて活躍した絵師。名は汝鈞(じょきん)、字は景和(けいわ)。初めは春教(しゅんきょう)と号したという記事があるが、その使用例は見出されていない。斗米庵(とべいあん
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