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ブックマーク / www.aozora.gr.jp (11)

  • 芥川龍之介 手巾

    東京帝国法科大学教授、長谷川謹造先生は、ヴエランダの籐椅子(とういす)に腰をかけて、ストリントベルクの作劇術(ドラマトウルギイ)を読んでゐた。 先生の専門は、植民政策の研究である。従つて読者には、先生がドラマトウルギイを読んでゐると云ふ事が、聊(いささか)、唐突の感を与へるかも知れない。が、学者としてのみならず、教育家としても、令名(れいめい)ある先生は、専門の研究に必要でないでも、それが何等かの意味で、現代学生の思想なり、感情なりに、関係のある物は、暇のある限り、必(かならず)一応は、眼を通して置く。現に、昨今は、先生の校長を兼ねてゐる或高等専門学校の生徒が、愛読すると云ふ、唯、それだけの理由から、オスカア・ワイルドのデ・プロフンデイスとか、インテンシヨンズとか云ふ物さへ、一読の労を執つた。さう云ふ先生の事であるから、今読んでゐるが、欧洲近代の戯曲及俳優を論じた物であるにしても、別に

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    zatpek 2023/10/31
  • 芥川龍之介 桃太郎

    むかし、むかし、大むかし、ある深い山の奥に大きい桃(もも)の木が一あった。大きいとだけではいい足りないかも知れない。この桃の枝は雲の上にひろがり、この桃の根は大地(だいち)の底の黄泉(よみ)の国にさえ及んでいた。何でも天地開闢(かいびゃく)の頃(ころ)おい、伊弉諾(いざなぎ)の尊(みこと)は黄最津平阪(よもつひらさか)に八(やっ)つの雷(いかずち)を却(しりぞ)けるため、桃の実(み)を礫(つぶて)に打ったという、――その神代(かみよ)の桃の実はこの木の枝になっていたのである。 この木は世界の夜明以来、一万年に一度花を開き、一万年に一度実をつけていた。花は真紅(しんく)の衣蓋(きぬがさ)に黄金(おうごん)の流蘇(ふさ)を垂らしたようである。実は――実もまた大きいのはいうを待たない。が、それよりも不思議なのはその実は核(さね)のあるところに美しい赤児(あかご)を一人ずつ、おのずから孕(はら)

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    zatpek 2023/07/07
    締めのテイストが「蜘蛛の糸」に似ている。なんとなく感じていたが、やはり皮肉だったか。/初出は関東大震災の翌年。雉を「地震学に詳しい」と書く意地悪さ。ああ、朝鮮人虐殺は念頭にあるなコレ。
  • 太宰治 徒党について

    徒党は、政治である。そうして、政治は、力だそうである。そんなら、徒党も、力という目標を以(もっ)て発明せられた機関かも知れない。しかもその力の、頼みの綱とするところは、やはり「多数」というところにあるらしく思われる。 ところが、政治の場合に於いては、二百票よりも、三百票が絶対の、ほとんど神の審判の前に於けるがごとき勝利にもなるだろうが、文学の場合に於いては少しちがうようにも思われる。 孤高。それは、昔から下手(へた)なお世辞の言葉として使い古され、そのお世辞を奉られている人にお目にかかってみると、ただいやな人間で、誰でもその人につき合うのはご免、そのような質(たち)の人が多いようである。そうして、その所謂「孤高」の人は、やたらと口をゆがめて「群」をののしる。なぜ、どうしてののしるのかわけがわからぬ。ただ「群」をののしり、己れの所謂(いわゆる)「孤高」を誇るのが、外国にも、日にも昔はみな偉

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    zatpek 2023/06/12
  • 森鴎外 寒山拾得

    唐(とう)の貞観(じょうがん)のころだというから、西洋は七世紀の初め日は年号というもののやっと出来かかったときである。閭丘胤(りょきゅういん)という官吏がいたそうである。もっともそんな人はいなかったらしいと言う人もある。なぜかと言うと、閭は台州の主簿になっていたと言い伝えられているのに、新旧の唐書に伝が見えない。主簿といえば、刺史(しし)とか太守とかいうと同じ官である。支那全国が道に分れ、道が州または郡に分れ、それが県に分れ、県の下に郷があり郷の下に里がある。州には刺史といい、郡には太守という。一体日で県より小さいものに郡の名をつけているのは不都合だと、吉田東伍さんなんぞは不服を唱えている。閭がはたして台州の主簿であったとすると日の府県知事くらいの官吏である。そうしてみると、唐書の列伝に出ているはずだというのである。しかし閭がいなくては話が成り立たぬから、ともかくもいたことにしておく

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    zatpek 2023/03/19
  • アントン・チェーホフ Anton Chekhov 神西清訳 ワーニャ伯父さん ДЯДЯ ВАНЯ ――田園生活の情景 四幕――

    ワーニャ伯父さん ДЯДЯ ВАНЯ ――田園生活の情景 四幕―― アントン・チェーホフ Anton Chekhov 神西清訳 人物 セレブリャコーフ(アレクサンドル・ヴラジーミロヴィチ) 退職の大学教授 エレーナ(アンドレーヴナ) その、二十七歳 ソーニャ(ソフィヤ・アレクサンドロヴナ) 先の娘 ヴォイニーツカヤ夫人(マリヤ・ワシーリエヴナ) 三等官の未亡人、先の母 ワーニャ伯父さん(イワン・ペトローヴィチ・ヴォイニーツキイ) その息子 アーストロフ(ミハイル・リヴォーヴィチ) 医師 テレーギン(イリヤ・イリイーチ) 落ちぶれた地主 マリーナ 年寄りの乳母 下男 セレブリャコーフの田舎屋敷での出来事 [#改ページ] 庭。ベランダのついた家の一部が見える。並木道のポプラの老樹の下に、テーブルがあって、お茶の支度ができている。ベンチ、椅子(いす)、それぞれ数脚。ベンチの一つに、ギターが

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    zatpek 2022/02/13
  • 坂口安吾 続堕落論

    敗戦後国民の道義頽廃(たいはい)せりというのだが、然らば戦前の「健全」なる道義に復することが望ましきことなりや、賀すべきことなりや、私は最も然らずと思う。 私の生れ育った新潟市は石油の産地であり、したがって石油成金の産地でもあるが、私が小学校のころ、中野貫一という成金の一人が産をなして後も大いに倹約であり、停車場から人力車に乗ると値がなにがしか高いので万代橋(ばんだいばし)という橋の袂(たもと)まで歩いてきてそこで安い車を拾うという話を校長先生の訓辞に於て幾度となくきかされたものであった。ところが先日郷里の人が来ての話に、この話が今日では新津某という新しい石油成金の逸話に変り、現に尚(なお)新潟市民の日常の教訓となり、生活の規範となっていることを知った。 百万長者が五十銭の車代を三十銭にねぎることが美徳なりや。我等の日常お手とすべき生活であるか。この話一つに就(つい)ての問題ではない。問

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    zatpek 2022/02/04
  • 金史良 天馬

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    zatpek 2018/11/23
  • 坂口安吾 反スタイルの記

    (上) 私がヒロポンという薬の名をきいたのは六七年前で、東京新聞のY君がきかせてくれたのである。そのときは二日酔いの薬というY君式の伝授で、社の猛者(もさ)連中が宿酔(ふつかよい)に用いて霊顕あらたか、という効能がついていた。けれども、当時はそろ/\酒も姿をひそめて、めったに宿酔もできない世の中になりかけていたから、ヒロポンのお世話になる必要もなかった。 それから一二年して、仕事にヒロポンを用いているという二人の男にぶつかった。南川潤と荒正人だ。南川がヒロポンというのは話が分るが、荒正人とヒロポンは取り合せが変だ。ヒロポンが顔負けしそうだけれども、彼は女房、女中に至るまでヒロポンをのませて家庭の能率をあげるという奇妙な文化生活をたのしんでいるのだそうである。 ★ 当時は戦争中で、私は仕事もなく、酒もなしという状態でヒロポンのごやっかいになることも少なかったが、時々は、宿酔に用いたこともあっ

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    zatpek 2018/11/01
  • 夢野久作 ビール会社征伐

    毎度、酒のお話で申訳ないが、今思い出しても腹の皮がピクピクして来る左党の傑作として記録して置く必要があると思う。 九州福岡の民政系新聞、九州日報社が政友会万能時代で経営難に陥っていた或る夏の最中の話……玄洋社張りの酒豪や仙骨がズラリと揃っている同社の編集部員一同、月給がキチンキチンと貰えないので酒が飲めない。皆、仕事をする元気もなく机の周囲(まわり)に青褪めた豪傑面を陳列して、アフリアフリと死にかかった川魚みたいな欠伸をリレーしいしい涙ぐんでいる光景は、さながらに飢饉年の村会をそのままである。どうかして存分に美味(うま)い酒を飲む知恵はないかと言うので、出る話はその事バッカリ。そのうちに窮すれば通ずるとでも言うものか、一等呑助の警察廻り君が名案を出した。 今でも福岡に支社を持っている××麦酒(ビール)会社は当時、九州でも一流の庭球の大選手を網羅していた。九州の実業庭球界でも××麦酒の向う処

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    zatpek 2017/11/05
  • 夏目漱石 夢十夜

    こんな夢を見た。 腕組をして枕元に坐(すわ)っていると、仰向(あおむき)に寝た女が、静かな声でもう死にますと云う。女は長い髪を枕に敷いて、輪郭(りんかく)の柔(やわ)らかな瓜実(うりざね)顔(がお)をその中に横たえている。真白な頬の底に温かい血の色がほどよく差して、唇(くちびる)の色は無論赤い。とうてい死にそうには見えない。しかし女は静かな声で、もう死にますと判然(はっきり)云った。自分も確(たしか)にこれは死ぬなと思った。そこで、そうかね、もう死ぬのかね、と上から覗(のぞ)き込むようにして聞いて見た。死にますとも、と云いながら、女はぱっちりと眼を開(あ)けた。大きな潤(うるおい)のある眼で、長い睫(まつげ)に包まれた中は、ただ一面に真黒であった。その真黒な眸(ひとみ)の奥に、自分の姿が鮮(あざやか)に浮かんでいる。 自分は透(す)き徹(とお)るほど深く見えるこの黒眼の色沢(つや)を眺めて

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    zatpek 2014/06/24
    第七夜を読んでふと気になってタイタニックを調べたら、沈没事故は発表の四年後だった。…うーん。
  • 芥川龍之介 大正十二年九月一日の大震に際して

    一 大震雑記 一 大正十二年八月、僕は一游亭(いちいうてい)と鎌倉へ行(ゆ)き、平野屋(ひらのや)別荘の客となつた。僕等の座敷の軒先(のきさき)はずつと藤棚(ふぢだな)になつてゐる。その又藤棚の葉の間(あひだ)にはちらほら紫の花が見えた。八月の藤の花は年代記ものである。そればかりではない。後架(こうか)の窓から裏庭を見ると、八重(やへ)の山吹(やまぶき)も花をつけてゐる。 山吹を指(さ)すや日向(ひなた)の撞木杖(しゆもくづゑ)    一游亭 (註に曰(いはく)、一游亭は撞木杖をついてゐる。) その上又珍らしいことは小町園(こまちゑん)の庭の池に菖蒲(しやうぶ)も蓮(はす)と咲き競(きそ)つてゐる。 葉を枯れて蓮(はちす)と咲ける花あやめ  一游亭 藤、山吹、菖蒲(しやうぶ)と数へてくると、どうもこれは唯事(ただごと)ではない。「自然」に発狂の気味のあるのは疑ひ難い事実である。僕は爾来(じ

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    zatpek 2009/12/24
    「善良なる市民」/そういや「そこまでいって委員会」で元新聞編集長の爺様が連発してたな。
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