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宗教に関するMasao_hateのブックマーク (5)

  • 日本にキリスト教徒が少ない理由について考えてみた。

    masaki tomita @stayfoolish_me 半分当たってて、半分外れていると思います。「一神教は限界だ」とはぼくも思います。でも、日人は決して寛容ではありません。 http://htn.to/5Exr5v 小沢氏「一神教の欧州文明は限界」 #ozawa 2011-02-15 14:19:01 masaki tomita @stayfoolish_me 日に定着した外来宗教は、日人をよく知り、順応したから根付いたのであって、決して日人が宗教的に寛容だからではないと思います。キリスト教が日への伝道を失敗しているのは、日人を「研究」し、「順応」しようとしたのではなく、「改宗」を迫ったからです。 2011-02-15 14:20:43

    日本にキリスト教徒が少ない理由について考えてみた。
  • uumin3の日記 - ポリティカル・コレクトネスが考慮されない

    【写真】「加害者も犠牲者も極楽往生」 韓国、中央日報の日語版の(写真)記事です。 米バージニア工科大銃乱射事件の犠牲者のための33の灯りがソウル曹渓寺(チョゲサ)の大雄殿前にかけられた。灯りは死者の極楽往生を祈るもの。犠牲者らの名前と犯人チョ・スンヒ容疑者の名前も見える。 33個の石 関連記事(中央日報) 「私たちが先にスンヒに手を差し伸べていれば」 −−チョ・スンヒに手紙を書いた理由は。 2日前にもここへ来たが、特にスンヒの追慕石だけさびしそうだった。「スンヒも加害者と同時に犠牲者」という気がした。彼にも私たちのような魂がある。母にも相談したが同意してくれた。それで昨日、手紙を書いてここに置いた。今日来てみたら手紙や花がたくさん置かれていてうれしかった」 −−犯人の銃で死んだ人々と犯人をまったく同じように追慕することはいきすぎだという批判はないか。 「泥沼にはまって『助けてくれ』と叫ん

    uumin3の日記 - ポリティカル・コレクトネスが考慮されない
  • 極東ブログ: 仏教の考え方の難しいところ

    「仏教と大量殺人」というタイトルにしようかと思ったが、不用意に刺激的なのでいい加減なタイトルに変えた。たぶん普通の日人は仏教は不殺生の宗教なので、大量殺人を教義的に許容することなどありえないと考えるのではないか。実際夏安居などはジャイナ教かと思えるほどだ。あるいは多少日史を知っている人なら僧兵や願寺戦なども連想するかもしれないが、それでも仏教の教理において殺生を是とする考えがあるとは思わないだろう。しかし、子細に仏教を検討していくとそうとばかりもいえない。 歴史的に興味深いのは北魏における大乗の乱だろう。なぜかウィキペディアに項目がある(参照)。 大乗の乱(だいじょうのらん)とは、中国北魏の宗教反乱であるが、人を殺せば殺す程、教団内での位が上がるという教説に従った殺人集団であり、その背景には弥勒下生信仰があるとされる。 515年(延昌4年)6月、沙門の法慶が冀州(山東省)で反乱を起こ

    Masao_hate
    Masao_hate 2007/04/26
    ”悪徳を消すには暴力に訴えるしかないと悟った場合は、その悪徳をもっている人間の命を奪ってもよいのですが、その人間にたいして慈悲心をもって、その任務を受けることが条件になります。”
  • 書評 - 仏教は心の科学 : 404 Blog Not Found

    2007年04月23日16:45 カテゴリ書評/画評/品評Love 書評 - 仏教は心の科学 宝島社の柳氏に、この場を借りて献御礼。 仏教は心の科学 アルボムッレ・スマナサーラ それにしても何というタイミングだろう。 極東ブログ: 仏教の考え方の難しいところ 日の仏教者はダライ・ラマの教説を否定するだろうか。そしてその否定のしかたは、「それは仏教ではない」という否定になるのだろうか。もしそうなら、では、ダライ・ラマの仏教を否定する日人の仏教とは何に依拠しているのだろうか。 書はこういう疑問を抱く人のために書かれたのだから。 書「仏教は心の科学」は、スマナサーラ長老の法話集。と書くと、最近とみに増えてきた「Yet Another 仏教」という印象を受けるかも知れないが、「元祖仏教」、いやブッダの言葉は実に 404 Blog Not Found:ブッダ―大人になる道 実に単純で明快

    書評 - 仏教は心の科学 : 404 Blog Not Found
    Masao_hate
    Masao_hate 2007/04/26
    仏教、面白そうよね。
  • [R30]: 言葉の磁場

    以前のエントリにも書いたことがあるが、93年にタイで出家していたことがある。その理由は、1つには高校時代のホームステイ先のホストマザーを喜ばせたいということだったが、もう1つはこちらのサイトで彼が書いているようなこととそっくりな理由だった。彼が91年、そして僕が93年だから、京都と東京という違いはあれど、あれはちょうどあの時代の共通な空気だったのかも知れない、と思う。僕はたまたまタイで出家ができた。彼はそれを日でやりたいと考えた。違いはそれだけだったのだろう。 僧侶だった間、僕はずっと自分と世界とのかかわりの法則について考えていた。当時の僕の頭の中は、マルクスとかデカルトとかカントとかヘーゲルとかヴィトゲンシュタインとか、そういうものでいっぱいだった。そして、タイで先輩僧侶に向かって「マルクスはこう言っている」とか「ヴィトゲンシュタインはこういう説を述べている」とか、つたないタイ語で必死

    [R30]: 言葉の磁場
    Masao_hate
    Masao_hate 2006/03/14
    ”無理矢理自分たちの宗教を「社会化」させて生きようとするのはどうかと思うこともある””本当に信仰者に求められるべき「社会」へのまなざしが根本的に欠けてしまっていることの証左でもあるのではないかと思う”
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