英国労働者階級家族の変遷とこの映画との関係については詳しく別論したので、お読みいただきたい。 そこで述べた通り、『家族を想うとき』は希望としての、個人を守るコミュニティとしての家族の物語ではない。むしろ、現在の経済によってコミュニティが分断され、家族も個人を守ってくれるものではなくなっている。それをこの映画は克明に描くのだ。 希望としての怒り では、希望はないのか。この映画はとてもハッピーエンドとは言えない結末を迎える。労働者階級の連帯は巧妙なギグ・エコノミーによる個人への分断によって決定的に消え去り、家族でさえも個人を守ってくれない。 ちなみに、先に触れた『アマゾンの倉庫で絶望し、ウーバーの車で発狂した』は、単にセンセーショナルに現状を暴露しているだけではなく、かつてはイギリスに存在した労働者階級のプライドや連帯心のありようを印象的に、哀悼をこめて描いている。それも、新自由主義の時代が深
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