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Wikipediaと言語に関するHumisawaのブックマーク (10)

  • チェコ語アルファベット - Wikipedia

    母音[編集] ÚとŮは同音で、原則として位置によって書き分けられ、ú は語頭に、ů は語中・語末に出現する[1]。ů は元々は二重母音 uo だったものが長母音に変化したもので、ú よりも出現頻度が高い。 IとYは同音だが、i が t, d, n に後続する場合、口蓋化して ť, ď, ň と同様に発音される。これは長母音の í でも同様である[2]。それ以外の場合にiとyのどちらを使うかは正書法上の決め事となる。 Ěは、i と同様に t, d, n を口蓋化し、tě, dě, ně はそれぞれ ťe, ďe, ňe のように発音される。また mě は mňe のように発音される。それ以外の場合、ě は je と同様に発音される(常に短い)[1]。 子音[編集] Q、W、Xの3字は外来語にのみ用いられる。 Hは有声声門摩擦音([ɦ])である。 Chは、無声軟口蓋摩擦音([x])である。アル

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    Humisawa 2015/11/08
    “Řは、巻き舌のrを発音しながら指で両顎を押さえつけるような発音([r]と[dʒ]の調音)。日本人には難しい。世界一難しい発音との評判もある。”
  • チェコ語 - Wikipedia

    チェコ語(チェコご、čeština, český jazyk)は、スロバキア語やポーランド語、カシューブ語(ポメラニア語)、ソルブ語(ソラビア語、ヴェンド語とも)などと共に、西スラヴ語の一つである。チェコ共和国の人口(約1030万人、2007年3月現在)の9割以上を占めるチェコ人と、周辺国やアメリカ合衆国、カナダ等にコミュニティを作るチェコ系住民に話されている言語である。チェコ共和国の国内外合わせて約1200万人の話者が存在する。 スロバキア語とは非常に近い(方言ほどの違いしかないが、チェコスロバキア時代から別の言語として扱われていた)関係にあり、大抵の場合互いに会話が可能である。しかしスロバキア人が子供の頃からチェコのテレビ番組や書籍を通してチェコ語に慣れ親しむのに対し、チェコの子供たちがスロバキア語に触れる機会はそう多くない。そのためスロバキア人のチェコ語の理解度とチェコ人のスロバキア

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    Humisawa 2015/11/08
    “zmrzl, ztvrdl, scvrnkl, čtvrthrstのように母音を持たないように見える語もある。しかし、子音である l や r が自鳴音として機能し、母音の役割を担っているのである。”
  • スロバキア語の歴史 - Wikipedia

    スロバキア語の歴史は、スロバキア語の歴史を一覧形式で示したものである。スロバキアの歴史も参照のこと。 初期の歴史[編集] 500年頃[編集] スロバキアの地域にスラヴ人が来る。 6世紀 - 7世紀[編集] スラブ系言語(スラヴ祖語)の中に音韻の差異が生じ始めた。スロヴァキアの領域においても同様である。この変化の結果については、次の9世紀の節参照。 9世紀[編集] ニトラ公国(833年まで)がスロバキアおよびモラヴィア王国に成立。スラヴ祖語派のort-や-olt-がrat-やlat-(これらは現在の標準スロバキア語にある)に変化した方言が中央スロバキアに存在した。例えば、モラヴィア王ラスチスラフ(チェコ語でロスティスラフ)などである。さらに、スラヴ祖語のdi-、-ti-はdz-、-c-に変化している(この変化は9世紀以前に起こった)。 863年以前:ラテン語がおそらくこの地域で行政および典礼

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    Humisawa 2015/09/19
    転載なのか英文がたくさん並んでて編集雑すぎ笑う
  • ロシア語 - Wikipedia

    18世紀には、すでに「北槎聞略」という書物があり、「大黒屋光太夫」の口述による、キリル文字、一部のロシア語の単語、文などの記載も見られる[4]。格的なロシア語研究が始まるのは、1804年から1811年にロシア使節からもたらされた公文書の翻訳が必要となった江戸幕府の命により、蘭語通詞の馬場貞由(左十郎)らがゴローニン事件によって松前藩に幽閉されていたゴローニンから学んだのが最初[5]。 1868年に成立した明治政府は文明開化政策の規範を欧米諸国に取り、イギリス・ドイツ・フランス・アメリカなどから多くの技術や思想を導入した。西欧よりも産業発展が遅れていたロシアはその対象から外れたため、通常の学校教育での採用では英語ドイツ語・フランス語に次ぐものとして扱われた。その中で東京外国語学校では1873年の第一次創設から魯(露)語学科が設置され[注 1]、東京商業学校への統合を経て1899年に再設置

    ロシア語 - Wikipedia
    Humisawa
    Humisawa 2015/05/24
    マジか “コピュラ動詞(…である)быть の現在形は基本的には明示されない(例:Я чайка.「私はかもめ」)”
  • 大野晋 - Wikipedia

    古代日語の音韻、表記、語彙、文法、日語の起源、日人の思考様式など幅広い業績を残した。特に『岩波古語辞典』の編纂や、日語の起源を古代タミル語にあるとしたクレオールタミル語説で知られる。ほかに上代特殊仮名遣の強調、係り結びの倒置説、品詞の割合とジャンルとの関連性を指摘した大野の法則なども知られる。また、『日語の起源』『日語の文法を考える』『日語の形成』『日語練習帳』など、一般読者への啓蒙書を数多く出版した[4]。 大野はもともとアルタイ語研究者であった江実(ごうみのる)と共にウサルファ語[5]などのパプアニューギニアの言語に着目して日語との系統関係を探ろうと試みていた[6]。しかし、やがて江は日語やパプアニューギニアの言語の原点は「インド(等)のアジア」に行きつくという仮説を立て[7]、大野はドラヴィダ語と日語とを結びつけるようになった。大野はオックスフォード『ドラヴィダ

    Humisawa
    Humisawa 2015/03/25
    “後に大野は批判をうけ、系統論を放棄し、日本語はクレオールタミル語であるとする説を唱えた。”
  • チュニジア - Wikipedia

    正式名称は、الجمهورية التونسية(ラテン文字転写 : al-Jumhūrīya at-Tūnisīya、片仮名転写 : アル・ジュムフーリーヤ・ッ・トゥーニスィーヤ)。通称は、تونس(Tūnis)。 日語の表記は、チュニジア共和国。通称、チュニジア。テュニジアと表記されることもある。漢字表記は、突尼斯。 アラビア語名のتونس(Tūnis、トゥーニス) は、首都チュニスのアラビア語名と同じで、正式名称は「チュニスを都とする共和国」といったような意味合いである。トゥーニスやチュニスの語源は紀元前4世紀にチュニスの地に存在した古代都市トゥネス(Thunes)で、英語名など欧米諸言語や日語の国名チュニジアは、トゥネスが転訛した Tunus に地名語尾の -ia を付してつくられ、オスマン帝国による呼称に倣ったものである。

    チュニジア - Wikipedia
    Humisawa
    Humisawa 2015/03/23
    “チュニジアの児童は家庭でアラビア語チュニジア方言を学んだ後、学校で6歳から正則アラビア語の読み書きを、8歳からフランス語の読み書きを、12歳から英語を教わる”
  • ウィキペディアの「誤謬」(ごびゅう)の解説がすばらしい - モジログ

    経済学の「合成の誤謬」などで知られる「誤謬」(ごびゅう)。 日常生活や話し言葉ではほとんど使わないこの「誤謬」(ごびゅう)だが、ウィキペディアの解説が実にすばらしい。 ウィキペディア - 誤謬 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%A4%E8%AC%AC <誤謬(ごびゅう、英: Fallacy)とは、論証の過程に論理的または形式的な明らかな瑕疵があり、その論証が全体として妥当でないこと。論証において、誤謬には「形式的」なものと「非形式的」なものがある>。 面白いのは、このページの「非形式的誤謬」のところにある例だ。「非形式的誤謬」とは、大雑把にいえば自然言語(日語や英語などの、いわゆる言語)による誤謬のこと。ここには、そのいろいろなパターンが集められている。以下、いくつか抜粋。 ・例外の撲滅 - 例外を無視した一般化を元に論旨を展開すること。「ナイフで人

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    Humisawa 2014/12/19
    クソリプ対策のガイドラインわろた
  • 長母音 - Wikipedia

    母音はその継続長によって分類できる。持続時間が長いものを長母音という。対照的に持続時間が短いものは短母音(たんぼいん)と呼ばれる。 長短の違いで意味の弁別を行う言語があり、日語はその代表的な例である。中にはエストニア語のように短・長・超長の三段階で意味を区別する言語もあるが、非常に珍しい。 現代英語では、アクセントがある緊張母音は音声学でいう長母音で発音されることも多いが[2][3]、アクセントに伴う現象であって、長短の意識は持たない。

    Humisawa
    Humisawa 2014/11/13
    “中にはエストニア語のように短・長・超長の三段階で意味を区別する言語もあるが、非常に珍しい”
  • 文芸評論 - ポスト構造主義 - Wikipedia

    ポスト構造主義(ポストこうぞうしゅぎ、英語: Post-structuralism)は1960年後半から1970年後半頃までにフランスで誕生した思想運動の総称である。アメリカの学会で付けられた名称であり当時のフランスではあまり用いられなかった[1]。 「反」構造主義ではなく文字通り「post(〜の後に)構造主義」と解釈すべきであるが、明確な定義や体系を示した論文は未だ存在していない。ただしポスト構造主義者たちのアプローチは隠喩、主題、合理性といった古典的な概念に対する批判において一致しており、全体主義、父権主義、差別主義、自民族中心主義、啓蒙思想などを否定している。構造主義、ポストモダンとそれぞれ関係があり、現象学の影響を受けている。このため批評家のコリン・デイヴィスは「ポスト構造主義者でなく厳密にはポスト現象学者と言うべきである」と主張している。 代表的な思想家はミシェル・フーコー、ジャ

  • シニフィアンとシニフィエ - Wikipedia

    この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "シニフィアンとシニフィエ" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL (2022年9月) シニフィアン(仏: signifiant)とシニフィエ(仏: signifié)は、フェルディナン・ド・ソシュールによってはじめて定義された言語学の用語。また、それらの対のことを、シーニュ(仏: signe)と呼ぶ。 シニフィアンは、フランス語で動詞 signifier の現在分詞形で、「指すもの」「意味するもの」「表すもの」という意味を持つ。 それに対して、シニフィエは、同じ動詞の過去分詞形で、「指されるもの」「意味されているもの」「表されて

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