タグ

思想と物語に関するImamuのブックマーク (23)

  • 藤圭子… | ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

    藤圭子自殺の報にはやはりこころ痛む。宇多田ヒカル-宇多田父の作歌コンビネーションからはじかれた彼女が買い物依存におちいっているなどのニュースも以前にあって、精神的に疲弊か病弊も生じていたのだろう。デビュー当時の凛としたルックスと声の凄味の落差から、五木寛之あたりがつくりあげた「物語」の重圧が、いまだに彼女の背骨を軋ませていたのではないかという気もする。 平岡正明は当時の演歌歌手をジャズとのアナロジーで語った。西田佐知子からいしだあゆみにいたるラインが、マイルス型のミュートトランペット。それにたいし、テナーサックス系の歌唱があって、藤圭子はこの系譜に属していた。ただし、歌じたいのストックは痩せている。森進一がいて、とりわけ青江三奈がいたからだ。とくに「あとはおぼろ」という虚無的なリフレインをもつ青江の「恍惚のブルース」の戦慄は絶品で、恨み節に傾斜せず生の流浪へととけてゆくあの「崩壊力」(ヘン

    Imamu
    Imamu 2013/08/22
    「五木寛之あたりがつくりあげた「物語」の重圧が、いまだに彼女の背骨を軋ませていたのでは」「箔づけにつかわれた「物語」に邪魔されて、藤圭子の虚無はのびず」
  • ヒーローはいつも間に合わない | WIRED VISION

    ヒーローはいつも間に合わない 2011年3月22日 社会カルチャーメディア コメント: トラックバック (0) フィード社会カルチャーメディア (これまでの 小田切博の「キャラクターのランドスケープ」はこちら) チェルノブイリ原子力発電所の事故は、東日大震災の渦中にあるいまから25年前、1986年4月26日に起きた。 それから1年が過ぎた1987年、アメリカの大手コミックス出版社、DCコミックスの人気タイトル『Justice League』誌で、バットマンをはじめとするスーパーヒーローたちがロシアの原子力発電所の危機を救おうとするストーリーが展開されている。 この物語は87年春にリニューアル創刊された同誌の2号から3号にかけて掲載されたもので、現在は『Justice League International』Vol.1に収録されており、比較的簡単に読むことができる(英語でだが)。 当時の

    Imamu
    Imamu 2011/03/23
    『現実の不幸に対して物語のヒーローたちは常に「間に合わない」ものだからだ』「解釈や論評((先取りされた物語))の多くは宙に浮いたまま忘れ去られ」
  • The Red Diptych

    ようこそゲストさん ブログトップ 記事一覧 ログイン無料ブログ開設 The Red Diptych

    Imamu
    Imamu 2011/01/17
    『物語を語ることは、検索性同一性障害を癒す』QF「語りの構造は、明確に否定神学システム((単数の、不可能なもの))」「柄谷・蓮實~村上春樹の作品には批評的な価値は全くない~二人の意見がぴたりと一致して、抑圧」
  • 44. 「わかる」とは、因果関係をでっち上げることである。(前):日経ビジネスオンライン

    日直のボウシータです。昨日、出張から日に帰ってきました。 前回、「わかる」ためには「思いこみ」=「書いていないことまで読んでしまう癖」が必須である、ということを書いた。と同時に、「思いこみ」=「書いていないことまで読んでしまう癖」のおかげで、バックボーンの違う人の発言が「わからなく」なる危険もある、という話も書いた。そしてそのマクラとして、ちょっとしたなぞなぞ(問1)を紹介したわけである。 今回は予告どおり、もうひとつのなぞなぞを出してみよう。これもまた、「わかる」のもうひとつの側面を照らし出すものだ。

    44. 「わかる」とは、因果関係をでっち上げることである。(前):日経ビジネスオンライン
    Imamu
    Imamu 2009/09/02
    『できごとを時間の流れのなかで認識する枠組を、私たちは持っている。それが「物語」と呼ばれるものである』
  • 演劇的モデルの可能性 - 仮想算術の世界

    このあいだから何回かに分けて、物語の変異について論じてきた。しかし、ゲームやアニメにことさら接近するこの態度は、場合によってはひどく安直で迎合的なものに映るかもしれない。むろん僕としては、そう受け取られるのはまったく意ではない。そこで、今回は抽象度を上げ、もう少し大きな文脈に接合してみよう。 * いまが手元にないので多少うろ覚えだが、浅田彰氏は以前『文學界』(*以前『新潮』と表記していたが、誤りのため訂正。07/9/6)のロラン・バルトを取り上げた座談会で、日小説というのがあまりにも映画のモデルに偏りすぎ、演劇を軽視してきたという趣旨の発言をしている。これは重要な指摘だと思う。なぜなら、文芸に限らず、日文化というのは総じて映画との関係においてつくられることが多いからだ。それは、映画の文法を直に真似た作品としてあらわれることもあれば、映画にできないことをあえて積極的に実現しよ

    Imamu
    Imamu 2009/07/24
    ロマン派「虚構を非-知と結びつけそこに「成熟」に到る経路を見出しがち」/ギリシャ的演劇「内的((組み立てに畳み込む))~表象の交換=コミュニケーションの精密な配列によってその総和を超えた何かを現出させる」
  • 「歴史=物語」の倫理学―《痕跡》と《出来事=他者》のあいだにある「主体」について― - 過ぎ去ろうとしない過去

    歴史」をとりあえず「記述された歴史」という狭義の意味で定義してみよう。次に、この「記述された歴史」が、実際に起きた出来事としての歴史と等しいものかどうか検討してみよう。たとえば史料において、われわれは戦国時代の日には織田信長という人がいたことを知る。しかし、もちろん同時代には彼以外にも何千万ものの無名の人々がいたのであって、しかし彼らについては、われわれはおそらく永遠に知ることができない。また、「言語論的転回」*1を経た今日では実際に起きた桶狭間の合戦と史料に記述された桶狭間の合戦の間には、どんなに信頼できる史料だろうとなお、埋めることのできない差異があることは常識である。 以上のことから、「歴史」は「物語」*2であるという言説が産まれる。それはある種の人々、たとえば「新しい教科書をつくる会」のような人々にとっては都合の良いナショナル・ヒストリーを構成するための言い訳であり、このような

    「歴史=物語」の倫理学―《痕跡》と《出来事=他者》のあいだにある「主体」について― - 過ぎ去ろうとしない過去
    Imamu
    Imamu 2008/12/19
    『「《出来事=他者》そのものにたどり着くことはできない」と結論づけることこそ、「生政治」的な罠』『個々の「物語」の差異は単なる差異ではなく、その「主体」との距離に他ならない』
  • Hang Reviewers High / 新現実 Vol.1

    先日、SFマガジン6月号で連載が終了した宇野常寛「ゼロ年代の想像力」の連載分をすべて一気読みした。彼の展開する議論には、僕にとって賛同できるいくつかの部分と、そうでないいくつかの部分がある。それについて、まず一点を僕が思う状況を整理しながら考えてみたい。 彼の主張は、まず「90年代の『引きこもり』」があり、2000年代前半に「エヴァ」的感性の延長線上、あるいは残滓であるセカイ系があり、そしてゼロ年代においては 社会の既存のルールが壊れていることは「当たり前のこと」として受け入れ、それを自分の力で再構築しようといこうとする という、「DEATH NOTE」の夜神月に象徴される「決断主義」が来るという一連のフィクションの流れがあったという。 僕は現在、彼の言う「決断主義」のようなものがゼロ年代のフィクションとして大きく特徴付けられるという主張に異論がない(なお参考までに記しておくと、彼の主張は

    Imamu
    Imamu 2008/06/05
    (ゼロ年代)(ファウスト)(セカイ系)『「ほしのこえ」に代表されるようなセカイ系の物語とは相反するはずの「木更津キャッツアイ」は、物語論のレベルで同列に並べることができている』
  • 内なるダークサイドフォースとの戦い - 物語三昧~できればより深く物語を楽しむために

    物語を「批評」するときの姿勢について http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20080502/p7 続きです。 引用ありがとうございます。ちょっと思いついた書き足しをw 「物語を楽しむ」世界においても何がファクトか?というのは非常に重要で……というか「楽しむ」という行為はそのほとんどが「主観」によって占められるが故に、現実とのリンク、他者とのコミュニケーション、それによる自らの(主観の)世界の拡がりを促すための「アンカー」のような役割を果たすものなんですよね。 しかし、ビジネスの世界は、何がファクトか否応なく問われ、現実の結果を突きつけられ、それでもまだ檻の中に自らを置くものは容赦なく切られるワケですが(ナルシズムの檻とは理解が違うかもしれませんが…僕は引用文では迷宮という言い方をしていますね)「物語を楽しむ」という世界はそれとは違って、(主観が主体で

    内なるダークサイドフォースとの戦い - 物語三昧~できればより深く物語を楽しむために
    Imamu
    Imamu 2008/05/05
    「カレーをショートケーキとして評価する~対象へのアプローチの独善性」/『「他者に伝えて普遍性を獲得しなければならない!」という思い込み』
  • 集団分極化に抗うための愛の偶有性、あるいは郵便的愛 - 日記プレミアム

    ゼロ年代の想像力第六回を読んだ。(メタ)決断主義者が決断主義者たちを動員するっていう構図はサイバーカスケードだよね、元ネタはサンスティーンの『インターネットは民主主義の敵か』だよね、という話をしようかと思ったのだが、あまり意味はないかもしれない。集団分極化もポストモダンの二層構造といいかえられているように、isedなんかによって『インターネットは民主主義の敵か』の内容はある程度前提の知識として共有されている。それでも意味のある指摘ができるかなと思うのは、集団分極化を解決する方法として、サンスティーンは「対立する意見のサイトと相互リンクしよう」といっている*1のだけど、「ゼロ年代の想像力」や第二次惑星開発委員会が論争を喚起させるためにわざと対立を煽った書き方をしているというのは、この辺の文脈をふまえてのことだと思う。あるいは、http://d.hatena.ne.jp/n-enmachi/と

    Imamu
    Imamu 2007/11/03
    面白ひ。(ゼロ年代)(ゲーム的リアリズム)「ある対象を愛しているけれど、別の対象にも想像力を働かせることができる人たち」「愛の偶有性」
  • はてなブログ | 無料ブログを作成しよう

    粗大ゴミに車輪を付けて捨てに行く マンションで暮らしていると自宅から粗大ゴミ置き場まで若干の距離があったりします。手で持てるサイズ・重量の粗大ゴミなら手で運べばよいし、それよりも一回り大きいくらいのものならマンション共用設備から台車を借りられる場合があります。 今回、キッチンで 10 年…

    はてなブログ | 無料ブログを作成しよう
    Imamu
    Imamu 2007/08/08
    アポロン的、イデア的//デュオニュソス的/両者のバランス/『統合された真善美の秩序を前提とする「物語」が、人間の本来の動的な姿を抑圧している』
  • リアリティーの構造 - Nash Bridgesの始末書

    http://www.geocities.jp/shinonomenod/ketai_mori.html…現実にも「伏線」はいっぱいあると思うんだけど? http://blog.mf-davinci.com/mori_log/archives/2006/02/post_243.php…「伝統的ルールに従わないものが新しく感じられるようではどうかと思う。」=翻訳蒟蒻=>「ケータイなんて、ゾラに始まり『蒲団』で吹っ飛んで<私小説>に矮小化したのと同じ構造だろ、ヴォケ!?」 http://moura.jp/frames/interview/070423/03.html…大脳皮質は何をしている!太古に大脳辺縁系に刻まれたトラウマを我々は克服できないのか!?死ぬのはイヤ〜〜〜。誰とでも共感できる夢の子〜〜〜www 2007-07-15…特殊の先にある普遍みたいなぁ 2007-07-15…「共感」は「

    リアリティーの構造 - Nash Bridgesの始末書
    Imamu
    Imamu 2007/07/22
    『≪なぜ≫を理解したがる者と≪なに≫を感じたがる者』//「形而下への繋がりを捨てた形而上でのリアリズム」「形而上への繋がりを捨てた形而下でのリアリズム」
  • http://www.bmp69.net/mt/archives/2007/05/age_1.html

    Imamu
    Imamu 2007/06/06
    『物語/小説あるいはロマン主義/リアリズムの対立という古式ゆかしいというかおなじみの対立構造のエロゲ版』/『TypeMoonやKeyが~ロマン主義・物語寄り//ageは明らかにリアリズム・小説寄りという見立て』
  • 現実を至高のものとする価値判断は正しいのか? | 旧館:物語三昧~できればより深く物語を楽しむために

    西洋近代の自己同一性問題と物語を生きる人間について~ロマンティシズム宣言 http://ameblo.jp/petronius/theme-10002674514.html >人間は、物語を生きる存在であり、 物語と現実というのは質的な部分で区別がつかないものなんです 前回、こう書いた。これは僕の信念であり、現実という過酷な海を渡る僕の羅針盤となっている考え方で、抽象的な概念ではなく、僕の生き方の指標なんで、これを学問的抽象的に批判されることがあっても揺らがない。ことの正しさはどうでもいい次元の話だからだ(笑)。 ■体内で信念と化したものと、ただの記号の違い 「知」は、 ①その信念を胸に抱き体内に飲み込んでい生きるモノ と ②ただ単にロゴスの世界に浮かんでいる抽象的なモノ と二つがあるように僕はいつも感じられる。 ②の世界は、相対主義の世界。真っ白な秩序も構造も順序もない世界に、記号が浮

    現実を至高のものとする価値判断は正しいのか? | 旧館:物語三昧~できればより深く物語を楽しむために
    Imamu
    Imamu 2007/05/25
    面白ひ。重要。(現象学的社会学-シュッツ)『至高の現実(paramount reality)」論//多元的現実(multiple realities)』→『現実と虚構に差がないと考えるならば現実を選択しなければならない理由はどこにあるのか?』
  • 西洋近代の自己同一性問題と物語を生きる人間について~ロマンティシズム宣言 | 旧館:物語三昧~できればより深く物語を楽しむために

    西洋近代の自己同一性問題と物語を生きる人間について~ロマンティシズム宣言 | 旧館:物語三昧~できればより深く物語を楽しむために 「魂」の話・瞬間物質移動機① 「魂」の話・物体瞬間移動機② 「魂」の話・物質瞬間移動機③ 『映画と、ときどき仕事』のまぎぃさんより http://blog.livedoor.jp/magimagi7/ 凄い。素晴らしい。人間、同じ理路を通って、同じ世界観にたどり着くという人はいるんですね。いやなんか感動してしましました。いやーさすがほぼ同世代同年齢ということはあるなーと感心。どうもブログを読んでいて過去の体験や思考形式が、似ている似ているとは思っていたが、「ここ」までくると、なんか感動です。 僕は、常々、 人間は、物語を生きる存在であり、 物語と現実というのは質的な部分で区別がつかないものなんです と幾度もこのブログで主張してきました。 僕は、人間の絆は、

    西洋近代の自己同一性問題と物語を生きる人間について~ロマンティシズム宣言 | 旧館:物語三昧~できればより深く物語を楽しむために
    Imamu
    Imamu 2007/05/06
    キタコレ。面白ひ。『人生とは、自分という自己同一性の物語(=フィクション・価値)を生きる存在なのです』そして、不思議ちゃん系のアイドルはそのフィクション性に自覚的な人々を指すのであります。
  • はてなブログ | 無料ブログを作成しよう

    粗大ゴミに車輪を付けて捨てに行く マンションで暮らしていると自宅から粗大ゴミ置き場まで若干の距離があったりします。手で持てるサイズ・重量の粗大ゴミなら手で運べばよいし、それよりも一回り大きいくらいのものならマンション共用設備から台車を借りられる場合があります。 今回、キッチンで 10 年…

    はてなブログ | 無料ブログを作成しよう
    Imamu
    Imamu 2007/04/21
    重要。フィクション/ノンフィクション。『多くのマスコミはフィクションを倫理の名で規制し、ノンフィクションをマスコミがフリーハンドで野放しにできることを望む。でも、私は、これは逆だと思う。』
  • キップル。オタクと作家性と似非科学としょこたん - モノーキー

    Imamu
    Imamu 2007/04/08
    自分のが言及されとった。『既存の引用の集積でありながらも引用元のルールに捕らわれないから面白いわけ』
  • 『ゲーム的リアリズムの誕生――動物化するポストモダン2』 - logical cypher scape2

    この記事の目次 外観 装丁や文体(?)に関して 全体要約 書の全体について 「メタリアルフィクションの誕生」との比較 書のもとになった連載記事との比較。特に、削除されてしまった柄谷行人に関する議論について 大塚英志 書と大塚英志の関係 コミュニケーション 書と宮台真司の関係 自然主義的読解と環境分析的読解あるいはポップ文学とメタリアルフィクション 書と仲俣暁生の関係、並びに阿部和重を環境分析的読解する試み メタ物語的な詐術とセカイ系と青春小説オタク」の生を肯定するか否か、あるいはポストモダンの実存文学としてのメタリアル青春小説?? 自分の考えとの接合 個人的なメモに近いが、自分の理論と書の関係 「限界小説書評」「小説の環境」 書に関係する、若手の評論の紹介 外観 書の内容について入る前に、いくつか。 講談社現代新書はリニューアルに伴って明らかに装丁が悪くなったが、書の

  • 善悪二元論の果てに内面の解体を目指したことの行き詰まり | 旧館:物語三昧~できればより深く物語を楽しむために

    ■ラスボス問題~出発点 http://blog.livedoor.jp/magimagi7/archives/52583233.html ■ヒーローは悩まない http://blog.livedoor.jp/magimagi7/archives/53026181.html ■非人類との殲滅戦 http://blog.livedoor.jp/magimagi7/archives/53028806.html映画と、時々仕事』さんより http://blog.livedoor.jp/magimagi7/ この人、当にクリエイターなんだろうか?(笑)。偏見かもしれないですが、クリエイターと批評家の思考形態は、真逆なので両立することは非常に稀なんですが・・・凄い論理的で唸ります(笑)。僕ごときが論評するのも失礼な言い草ですが・・・・・。凄い論理的な追及の仕方ですねー。あっ、引用ありがとうご

    善悪二元論の果てに内面の解体を目指したことの行き詰まり | 旧館:物語三昧~できればより深く物語を楽しむために
    Imamu
    Imamu 2007/03/11
    『悪とは何か?、敵とは何か?というドラマツゥルギーの類型を考える時に、人間以外のケースは二つ①自分自身の内面②人間ではない生き物』
  • 「不死身の身体」から遠く離れて - heuristic ways

    先日、書店で大塚英志氏の『サブカルチャー文学論』が文庫化されているのを見かけ、思い立って購入した。文庫版にして700ページ以上ある大部のなので、ぼちぼち拾い読みしているところだが、「キャラクター小説の起源、起源のキャラクター小説」という章を読んでいたら、栗薫の『ぼくらの時代』『ぼくらの気持』や新井素子『あたしの中の…』が取り上げられていたので、不意に懐かしさが込み上げてきた。すっかり忘れていたが、私は中高生の頃(1980年代初め)、栗薫さんや新井素子さんのをかなり熱中して読んでいたのだ。もともと私は中学生の頃、星新一や小松左京、筒井康隆や平井和正のSFが好きだったので、その流れから栗薫さんや新井素子さんといった「美人作家」に飛びついたのだと思う。 大塚氏の論考が面白いのは、栗薫や新井素子といった作家の登場を、田中康夫や村上春樹を始めとする「’80年前後に登場した作家にとって領域

    Imamu
    Imamu 2007/03/06
    「資本主義化された企業戦士」→『「不死身の身体」*4へと自分を変えていくほかないように』~「死に至るイデオロギー」-『新井素子さんが「記号的リアリズム」の方法によって「耐えようとしていた」「現実」も』
  • 感情レヴュー - [レヴュー]すべてがライトになる――芥川賞と星野智幸と佐川光晴

    最近の芥川賞の選評はおよそゆるしがたいものがある(おっと大きく出たぞ!)。その主要な理由は、各人の選評の前提となる部分に、「そもそも私たちの純文学とはどのようなもの(たるべき)か?」という問いがいっさい感じられないからだ。 日で最も注目される文学賞として直木賞は大衆文学を担い、芥川賞は純文学を担うものと、自他ともに認知されているわけだけれど、選考委員の選評をいくつか読んでいると、まるで自分が当の純文学なるものを体現しているのだとでもいうように、評価をくだしている。 彼らは、文学の値打ちは「理屈よりも感性にある」と言ってはばからず、知的操作よりも感情移入を優先する。素材(ネタ、物語内容)的には、社会的規範の相対化(による救いのない暗さ)よりも、癒しなり希望の光を求めるのだ。つまり皆が示し合わせたごとく一様に、価値の相対化と知的操作を否定し、癒しと感性を求めてやまない。最近の文芸誌は、知的操

    感情レヴュー - [レヴュー]すべてがライトになる――芥川賞と星野智幸と佐川光晴
    Imamu
    Imamu 2007/02/26
    面白ひ。純文学(評価基準)のライト化。『「知性」か「感性」か――「価値の相対化」か「物語の復権による癒し」か――といった相対的な価値基準に頼らずに、作品を評価する前提を確保』