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ブックマーク / docseri.hatenablog.jp (11)

  • 科学的な批判と「欠如モデル」の話 - 妄想科學倶樂部

    先のエントリは、「市民の科学知識」に関する限り典型的な「欠如モデル」を採用している、と言える。 欠如モデルとは、まあ要するに「お前に知識が欠如しているのだ」という前提に立つ論、である。 コミュニケーションの観点からすると、あまり歓迎されない方式だ。誰だって「お前は知識が少ない」なんて言われて嬉しくはないだろう。大体に於いて、こういう物言いは反発を招くもので、対話の方法論としてはあまり宜しくないとされる。 しかし、問題が純然たる科学知識の上にあるものである時(たとえば放射線や予防接種のリスクなどがその典型例だ)、そのことをきちんと認識するには知識が必要不可欠であり、相手の理解がその不足によって歪められている時、その指摘なしに話を進めることはできない。するとどうやっても「欠如モデル」にならざるを得ない。 内容が内容だけに、欠如モデルという物言いは主に批判的に用いられている。「そういう言い方をす

    科学的な批判と「欠如モデル」の話 - 妄想科學倶樂部
    T-3don
    T-3don 2011/11/03
    ”理解を拒絶すれば「対等な話」ではなくなる。しかもその中に揶揄や侮蔑を含むとなれば、それはもう純然たる「差別」だ。”
  • 「エア御用」問題に見る認識のズレ - 妄想科學倶樂部

    エア御用、という言葉がある。なかなかややこしい定義で、まず「お上に雇われ、学識をねじ曲げる学者」を意味する「御用学者」が先にあり、次いで「雇われてはいないのにお上に与する見識を述べる者」として「エア御用」がある、という構成だ。 はっきり言えば極めて恣意的な定義である。「正しい見識」がどのようなもので、それに対して「どのように間違っている」のか、ということを見定めるのは、少なくともその道の専門家でもない限りはほとんど不可能なことだが、実際に「エア御用」と呼ぶ側は何ら専門知識を持たぬ市民である。実質的にこれは「自分の信じることを否定するものをエア御用と呼ぶ」に等しい。 あらゆる問題について適用可能なレッテルではあるが、現状これは原発事故に絡む諸問題について「自分たちが信じる危険性よりも安全な認識を示す者」に対して用いられている。 この恣意的な呼称に対する、「市民」の側からの正当性主張は概ね次の

    「エア御用」問題に見る認識のズレ - 妄想科學倶樂部
    T-3don
    T-3don 2011/10/31
    穏当な分析と提言。
  • 「河をきれいにする」ということ - 妄想科學倶樂部

    各地で、「EMで河をきれいに」といった市民運動が行なわれていて、それに対して科学者から反対の声が挙がっている。 EM──「有用微生物群」というのは、要するに様々な細菌が集まったものだ。それが河川を浄化するというのはどういうことか……を考える前に、まずは「河をきれいにするというのはどういうことか」から考えてみたい。 「きれいな水」の目的と定義 そもそも、きれいな水とは何だろうか。いや、その前にきれいな河にする目的は何だろうか。今現在の「きたない河」にはどんな問題があるのか。最初にそれをはっきりさせよう。 「きたない河」のどんな状態が問題なのか? 水が濁っていること? 悪臭を放っていること? それとも魚がいないということ? 例えば臭いが問題だということであれば、「河を埋め立ててしまう」という抜的な対策だって可能だ。河がなくなってしまえば臭いの原因もなくなる。 濁りが問題だということであれば、

    「河をきれいにする」ということ - 妄想科學倶樂部
    T-3don
    T-3don 2011/06/10
    河をキレイに、の意味。キレイでふわふわしたスローガンのデメリット例。
  • 差別を退けるということ、違いを認めるということ - 妄想科學倶樂部

    私は差別という行為の存在を許容しない。これは別段、博愛精神だの善性だのといった信念から生じたものではなく、あくまで合理主義に基づく判断である。 差別という行為を簡潔に定義すると「自分と異なるものの排除」ということになる。排除は場合によって同化という形で表出することもあるが、「自分と異なるもの」をなくしてしまうという点では違いがない。 「異なる」とは言うが、無論人間は一人ひとり異なっているわけで、要するに差別というのは万人がその対象たり得るのだ。 「なぜ人を殺してはいけないか」との問いに野坂昭如は「殺しなさい、ただ君も殺される」と答えたというが、とまれ権利というのは常に双方向的なものであり、自身に差別の自由を認めるならば他人にも自分を差別する自由を認めざるを得ない。つまりは互いが互いを排除あるいは同化する皆殺し世界の成立である。 「差別を認めない」ということは、言い換えれば「違いが違いとして

    差別を退けるということ、違いを認めるということ - 妄想科學倶樂部
    T-3don
    T-3don 2010/04/02
    差別の反対は違いを認めること。なるほど。
  • オタマジャクシが空から降る現象について - 妄想科學倶樂部

    http://n-kishou.com/corp/news/news090623.html ラジオゾンデによる気象観測を行なっている日気象(株)が「風船などで人為的に降らせた」可能性を検証、までは良いのだが。 落下地点への気流を逆算して「風船で飛ばしたと仮定した場合の」3日前までのルートを推定、結果風船はアジア大陸から放された可能性があることがわかりました。 あ? 馬鹿じゃないのか。 プロットを見ても風船の軌道はてんでバラバラだ。18例中2例は日近海からの吹き戻り、2例は樺太方向から、1例は南西から。残り13例中9例はまあ大連あたりを通っているように見えなくもないが、残り4例は大雑把に黄海付近を通過してはいるものの、その距離には優に500kmほどの開きがある。 これがユーラシア大陸からの風船による「爆撃」だとすれば、「犯人」は気流を読んで中国中を駆け回ったとでもいうのだろうか。 まあそ

    オタマジャクシが空から降る現象について - 妄想科學倶樂部
    T-3don
    T-3don 2009/07/07
    うわ、反応早ーい。/引用元、見ましたがもう何を検証してるのか全然わかってなかったですね。もうそう言う会社だと判断しました。
  • 負けを認めるまでが議論です - 妄想科學倶樂部

    「負け」っていう表現はちょっとアレだが。 「主張」でなく「議論」であるなら、参加者の目的は「何らかの合意を得ること」になる筈だ。全面的な合意でなくとも構わない──というか、「断言できない」というような曖昧な状態を認めることも含めて合意ではある──のだが、少なくともある点に於いて参加者全員の意見が一致することこそが議論の終着点であり、それまで議論は(中断されることはあっても)終わることはない。 合意のない状態から合意に至るということは、少なくとも意見のいずれかが当初の主張から変更されること、言い換えれば「最初の主張は間違っていた」と認めることに他ならない。これを「負け」と表現するのは好ましくないが、まあとにかく、曖昧に済ませるのではなく意見の変更をはっきり表明することが重要だ。そうすることで人の自覚を促し、周辺ROM者にも状況をはっきり示すことができる。議論はここに至って漸く「終結」するの

    負けを認めるまでが議論です - 妄想科學倶樂部
    T-3don
    T-3don 2009/06/25
    の目的。
  • 外因性であれかし、という願望 - 妄想科學倶樂部

    「自閉症の原因は予防接種」という"仮説"がある。実際には可能性を示唆するデータすら存在しないまったくの事実無根なのだが、妙に根強く流布し、英国ではこれが原因で92%だった麻疹の予防接種率が80%を割り込んで大問題になるなど、社会的には大きな害を与えている。実際には自閉症は先天性のものであり、「後天性自閉症」という説はまったくの妄想である*1。 予防接種拒否派の意見を聞いてみると、かなりの割合で「自然罹患で死亡または重篤化するのは運命だが予防接種で死亡または重篤化したら親の責任(だから接種させたくない)」という声がある。無論これはあらゆる意味で間違いであって、一般に自然罹患による発症確率は予防接種による発症確率より遥かに高いし、また発症した時の死亡または重篤化可能性も、弱毒性のワクチンに較べ自然株への感染では遥かに高くなる(病種により数字は異なるが、少なく見積っても100倍は違う計算になる)

    外因性であれかし、という願望 - 妄想科學倶樂部
    T-3don
    T-3don 2009/06/08
    予防接種忌避を受容する背景の考察。
  • 懐疑論に於ける笑いの効用と副作用 - 妄想科學倶樂部

    懐疑論とは「信じる前にまず検証する」ことを重要視するという思想である。名前から想像されるように、あらゆるものを疑ってかかるという意味ではない。既に確固たる事実と確認されたことまで疑うのではないが、新たな主張については受け入れに慎重であるべき、事実と認めるに足るだけの検証が為されるべきというのが、懐疑論者の主張である。 要するに懐疑論それ自体は方法論であってイデオロギーではないということだ。従って「懐疑論者」なるグループは実のところ手段のみを同一にする様々な主張の持ち主の集合体ということになる。 とは言え懐疑論者は構造的に科学と親和性が高く、結果的にイデオロギーたる様々な非科学との対立姿勢によって「反・非科学」というイデオロギーを持たざるを得ない面がある。 純粋な懐疑に於いては淡々と検証の不足、論理矛盾を指摘すれば事足りるが、反・非科学という方針にとってはそれではあまりに非力である。数々のセ

    懐疑論に於ける笑いの効用と副作用 - 妄想科學倶樂部
    T-3don
    T-3don 2009/06/03
    懐疑論と「笑い」について。/もう一つ、笑いそのものが人を引きつける、と言う効用も。それと表裏で、笑い自体を不謹慎と受け取る人も。
  • TRPG論考:冒険者の報酬 - 妄想科學倶樂部

    ファンタジーRPGではPCの基的立場は大抵、「雇われて危険な仕事をこなす」冒険者だ。傭兵に近いが戦争を生業とせず、(ファンタジーならではの)人間に仇なす危険生物を狩ったり古代遺跡の盗掘を行なったりと、まあそれなりにヤクザな商売である。 こうした「冒険」の相場というのはどうもかなり適当に決められている節があって、冷静に考えるとかなり変なバランスになっているような気がする。例えば国産ファンタジーRPGの代表格であったソード・ワールドでは基的な報酬相場が大体1人あたり1000ガメル〜となっていた。ガメルは基通貨である銀貨を表すが、中世のそれと違いごく小さなもののようで(当初20g/枚だったが、後に通貨以外の使い道を塞ぐ目的で2g/枚に改鋳)、従ってその価値も相応に小さく、事や宿賃などの価格設定から判断する限り1ガメルあたり精々100円程度の流通価値に思われる*1。ということは、冒険者は1

    TRPG論考:冒険者の報酬 - 妄想科學倶樂部
    T-3don
    T-3don 2009/04/10
    以前、SWで離島を舞台に設定したら「こんな島に貨幣経済が浸透しているはず無い」とPCに注文付けられ、仕方なく報酬を知識(武器・防具の作り方、呪文)に設定したら、喜んでは貰えたもののホブゴブに勝てなかった。
  • 「代替医療」ではなく「ニセ医療」と呼ぼうキャンペーン - 妄想科學倶樂部

    「代替医療」とは英語のalternative medicineの訳語で、来は「効果は認められているが作用機序不明な伝統医療」や「効果の程も怪しい民間療法」「最先端の仮説に基く治療法だが真偽がはっきりしていないもの」などを広く含む用語である。 つまり、「治療効果は物だけど科学理論で解明できてない」から「科学的だけど治療効果は疑わしい」「単なる健康法」、果ては「まったくのニセモノ」までが全部一括で「代替医療」と呼ばれているわけだ。 これはマズい。 なにが拙いって、"医療"の2文字が入っているために一見して正しく治療効果のある医療行為であるかのような印象を与えてしまうことが、だ。 東洋医学のように経験的に効果は認められている(が理論化されていない)ものを呼ぶ呼称としては悪くないのだが、ホメオパシーのように原理的にも実証的にも効果のなさがはっきりしているものや心霊治療のようなオカルトまでもが含

    「代替医療」ではなく「ニセ医療」と呼ぼうキャンペーン - 妄想科學倶樂部
    T-3don
    T-3don 2009/03/25
    「ニセ医療」と呼ぼうキャンペーンおよびリスト/代替医療からまともな部分を分離する試み、と受け取りました。そう言う意味では賛成。
  • 「食育」と呼ぶのを止めよう - 妄想科學倶樂部

    ただ今はてなで絶賛物議中の「育」の話。 ごくごく基的な話として、「子供にちゃんとした事を与えよう」というのに否やはない。ただ、この「ちゃんとした」というのがあまりに漠然としているためにどうにでも解釈可能で、その結果なんだか変なものまで引き寄せてしまっているように思われるのだ。 育の重要さがよくわかる「ジェイミーのスクールディナー」 - 花見川の日記なんかを読むと、育というものがどういう状況で出てきているのか、つまりどれほどが疎かにされてきたのかがよく判る。逆に言えば、日ではこれほど酷い状態になっていないからどうも実感がないということでもあるのだが。 そんな状態で「育」という言葉を打ち出したのは早計に過ぎたのかも知れない。結果として日に於ける「育」には来と違った意味が色々付加されてしまった。 育の基は「色々な美味しさを知れ」だと思う。人間、味覚に関しては意外なほど保

    「食育」と呼ぶのを止めよう - 妄想科學倶樂部
    T-3don
    T-3don 2009/03/23
    食に限らず、色々と文化を教える時間があっても良い、けど、文化教育言うと何故か伝統やら地域やら家庭やらが顔を出してくる。横に広く、が多様性じゃなかんべか。
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