文/村上龍 このエッセイのために、久しぶりに各短編を読んでみた。だが、今読み返すと、何かが違う気がした。何なのか、最初わからなかった。南紀州の無頼の男と流れ者の女の性行為が執拗に描かれる、という風に評されている。 だが「南紀州」ではなく「近畿・紀伊半島南部地方」と記すと印象が違ってくる。「無頼の男」だと、どことなくかっこいいが、「低学歴の肉体労働者」「貧困層」などと表現すると、インパクトがなくなる。 「流れ者の女」だと、訳ありの艶っぽい女が目に浮かぶが、「無職・住所不定でセックス依存症の女」と記すと、精神が不安定で貧相な女を想起してしまう。さらに「性行為」ではなく、今風に「エッチ」だと、『水の女』の衝撃は完全に違うものに変質する。 違和感の正体は、中上健次が描き出した世界はもう存在しないということだった。ただし、だから作品として価値が薄れるということではもちろんないし、また、消滅した世界だ