一つの仮説に至った。 そこまでの経過を記載するのは、まるで自分の恥を公開するようだが、何だか書き記して公言しておいたほうがよい気がするのでそうする。 結論から言えば、「忘れられない悲しみは忘れずに、辛い時は辛いこととして、その感情に身を委ねる」ということだ。似たような言葉を聞いたとき、気休めのような感覚で受け取っていた。しかし、よく考えればこの言葉には自分にとって、深い意味があることに気づいた。「あきらめ」と似ているが、少し異なる。それは、「自分の感情を承認する。認める。受け入れる。共に過ごす」ということだと思う。そして、その負の感情に、自己に、「執着」しないということが重要なのだ。 自分にとって「生きる」ということは、いつの頃からか、「苦しみを我慢すること」だった。 そしてきっと今でもそうだ。なので、常に「救い」を求めていた。きっと何らかの「救われる方法」があるはずだと信じていたし、過去