名前の「指示」と同一性について、クリプキの講義を書籍化したもの。 もとが講義であるために、厳密な論証が続くというわけではなく、口語体での説明が書かれている。それ故の読みやすさと読みにくさがある。 フレーゲ−ラッセルから続く「記述説」に対する反論がなされていくわけだが、それに先だって、まず「アプリオリ」「アポステリオリ」と「必然的」「偶然的」といった概念の整理がなされる。 クリプキは、ともすると同義語と使われがちな「アプリオリ」と「必然的」という言葉は区別されなければならないという。「アプリオリ」とは認識に関わり、「必然的」とは一種の形而上学に関わる語である。アプリオリに知られる偶然的な知識もあれば、アポステリオリに知られる必然的な知識もある。後者の代表的なものは数学についての知識である。数学の定理の証明などは、アプリオリに知られることはない。計算などを通じて、アポステリオリに知られる。例え
様相論理(ようそうろんり、英: modal logic)は、いわゆる古典論理の対象でない、様相(modal)と呼ばれる「〜は必然的に真」や「〜は可能である」といった必然性や可能性などを扱う論理である(様相論理は、部分の真理値からは全体の真理値が決定されない内包論理の一種と見ることができる)。 その歴史は古くアリストテレスまで遡ることができる[1]:138が、形式的な扱いは数理論理学以降、非古典論理としてである。 様相論理では一般に、標準的な論理体系に「~は必然的である」ことを意味する必然性演算子と、「~は可能である」ことを意味する可能性演算子のふたつの演算子が追加される。 真理論的様相と認識論的様相[編集] 様相論理は真理論的(形而上学的、論理的)様相の文脈で語られることが最も多い。この様相においては「~は必然的である」、「~は可能である」といった言明が扱われるが、これは認識論的様相と混同
ウィトゲンシュタインのパラドックス (クリプキによる解釈) 懐疑論的問題(Sceptical problem) ウィトゲンシュタインは(§185)においてある奇妙な数列の問題を提示する。ある教師が2,4,6,8…という数列を教えていた。しかしある生徒が100を超えてから、98,100,104,108…という法則と異なった数列を言い出した。この例が示すことは、この生徒に彼の誤りを言葉で説明できないということである。生徒にとっては上記の数列が「自然」であり「規則的」なのである。我々が98,100,102,104…という数列を自然であると感じるのと同じように生徒も98,100,104,108…という数列が「自然」なのであり、その状態を自然に感じ何の疑問も抱いていない。また、教師は自分に対して生徒が間違っていること を説明できない。我々は100+2=102であるという確信をもつが、その確
We should think in this treatise over Husserl's theory of the ‘definite multiplicity’. The‘Definiteness’is interpreted generally in three different meanings. ―――――― D1: inextensibility. D2: decidability. D3: semantic completeness. It should be insisted that D3 is not necessary. Husserl reduces the concept in mathematics‘true’to the ‘proved-through-axioms’, and the concept ‘false’ to the ‘re
ゾンビは論理的可能性ですらないか? ------チャルマーズに対するpros and cons------ 柴田正良(金沢大学) チャルマーズの性質二元論は、物理主義に対立するテーゼとして提出されている。通常、科学者(とくに物理学者?)は、よほど問いつめられた場合以外には物理主義者とはならないだろうと思われる。確信犯的な(?)実体二元論者を除くと、彼らがおしなべて存在論に無頓着であるのは、想像のかなたの可能世界で何が起きようとも自分の目下の研究に差し迫った影響はない、という理由からであろうか。しかし、われわれ哲学者でも、物理主義のギリギリのラインがどこに引かれるべきかに関しては完全な一致に達しているわけではない。その意味でチャルマーズの物理主義反駁は、どこまでが物理主義の主張なのかということの自覚をわれわれに
前3者は、カントが『純粋理性批判』の第三章「純粋理性の理想」において中世以来の神の存在証明に対する反論のために独自にまとめたものである。 目的論的証明[編集] 目的論的証明とは、例えば、「世界と自然の仕組みの精巧さや精妙さは、人間の思考力や技術を超えている」という考えを前提とし、「世界にこのような精巧な仕組みや因果が存在するのは、『人知を超越した者』の設計が前提になければ説明がつかない、つまり、神は存在する」という主張による証明である。 これはカントにおいては自然神学的証明とも呼ばれる。 本体論的証明[編集] アンセルムスやデカルトが、このような形の神の存在証明を試みたので有名である。この証明はいくつかのヴァリエーションを持つが、「存在する」という事態を属性として捉え、例えば次のような論理を展開する。 まず、「可能な存在者の中で最大の存在者」を思惟することができる。ここで、「任意の属性Pを
大阪大学共通教育、副主題「社会とひと」 科目「存在と認識」 第一回講義 (1998。10。07) 授業のねらい: 自然の場合と異なり、社会については、その存在とそれの認識が密接に不可分に関係している。そのメカニズムの解明をとおして、社会についての理解を深めることを目標とする。 授業の概要: 1、翻訳文化の問題 2、予言の自己実現 3、社会システムと相互予期 4、コミュニケーションにおける相互知識 成績評価の方法: 2、3回の小レポートを課す。最後にレポートを課す。 テキスト、参考文献等: 教科書は無し。参考文献は、授業中にその都度指示する。 シラバスには上のように書きました。授業のねらいについては、変更はありませんが、 講義の予定は、シラバスとはすこし違ったものになるとおもいます。 §1 懐疑主義について 1 古代懐疑主義の再発見 [参考文献]
<訳者より> 本テキストは英国のウエールズ大学のダニエル・チャンドラー博士による記号論への入門書のオンライン版であり、インターネット上で公開されているものです。このオンライン・テキストは評判が良く、1995年公開以来のアクセス回数は56万回(2004年2月時点)にもなっています。 訳者は2002年4月まで35年間、企業の研究所に勤務していたシステム分析が専門の技術者ですが、記号論の本の中に、「システム」という言葉がたびたび出てくることから記号論に興味を覚え、インターネット上で調べていたところ本テキストと出会いました。記号論の主要トピックスをソシュールの記号学および構造主義をベースに、丁寧に説明しており具体的な例も多く観念的でないことから、記号論を勉強してみたいと思っている人、記号論の勉強を始めたがよく分からず挫折した人にとって良い参考書になるのではないかと感じました(残念ながら、日本では、
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