フランス人作家ヴィクトル・ユーゴーは「レ・ミゼラブル」の中でワーテルローの戦いについて「季節外れの雲に覆われた空が、世界の崩壊をもたらした」と記している。遠く離れたインドネシアの島で起きた、火山の噴火が戦いの行方を左右したのかもしれない。 1815年2月、皇帝の座を退位させられたナポレオン1世はエルバ島を脱出して兵士を集め、フランスを攻撃しようとしていたイギリス、オーストリア、プロイセン、ロシアの連合軍に立ち向かった。 戦いの場はベルギーのワーテルロー近郊。6月15日、50万人以上の兵力を誇る連合軍を打ち砕くべく、兵力13万人弱のフランス軍がベルギーに入った。まずはイギリス軍指揮下の小規模なプロイセン軍と激突。プロイセン軍は要塞化した農場に立てこもりフランス軍の夜明けの攻撃に備えたが、攻撃はなかった。 夜間に降った大雨によって足場が悪くなり、大砲を設置できなかったのだ。ナポレオンは地面が乾
欧米の多文化主義政策は、なぜ行き詰まってしまったのか。そして、「多文化共生社会2.0」時代に突入しようとしている日本は多文化先進国から何を学ぶべきなのか。第1回の記事では欧米の多文化共生政策の失敗を概観したが、今回はいち早く多文化主義政策を導入し、そして頓挫してしまった「自由の国」オランダの例を見てみよう。 ちなみに、多文化主義とは何を意味するのか。日本では「ゴミ出し」や近所付き合い、言語や教育などのイシューが個別に議論されても、政策としての一貫した定義はなされていない。海外の研究者の間でも定義はまちまちだが、私は「社会の文化・宗教の多様性を尊重し、マイノリティに自由と平等を保障しつつ、かれらの社会・経済統合を促す政策」とする。 移民問題が深刻化している欧州の代表例として、ドイツやフランスといった国がよく報じられるが、どこよりも寛容な多文化主義政策をとったにもかかわらず、大きく挫折している
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