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思想に関するchanmのブックマーク (14)

  • [書評]破綻した神キリスト(バート・D・アーマン): 極東ブログ

    もう少ししてから読もうかと思ったが、「破綻した神キリスト(バート・D・アーマン)」(参照)つい読み始めて、そして熱中して読んだ。書は昨日「極東ブログ: [書評]捏造された聖書(バート・D・アーマン)」(参照)でもふれた聖書学者バート・D・アーマン(参照)が、この世界の苦悩について聖書がどのように見ているか、その多様な見解を正確にまとめたものだ。「人はなぜ苦しむのか」という問いに聖書はどように、多様に、答えているかが、その多様さと整理の点で、きちんとまとめられている。哲学・神学的にはこの分野は神義論と呼ばれる。 書が類書の神義論とかなり異なるのは、それを聖書学者として客体的に描くだけではなく、著者アーマンがそれを自分の信仰との関わりのなかで真摯に問い、聖書の各種回答には納得できない、だから聖書の神を信じることはできない、と明言していることだ。このは彼の棄教のでもある。 邦題はそうした

    chanm
    chanm 2008/06/30
    ”本書の真価は、その聖書学的な深い知見を別にすれば、人の苦しみというものを忍耐強く見つめている点にある。”
  • ま、ちょっとだけ、ポランニ - finalventの日記

    ⇒ポランニー-暗黙知-人はなぜ特定のウェブを再訪するのか? - シリアルイノベーション [ITmedia オルタナティブ・ブログ] ちょいと批判に聞こえるかもだが、ちょいと。 World Wide Webはティム・バーナーズ=リーが考案した当初から、「知るためのメカニズム」であったと理解しています。あるキーワードやフレーズにリンクが埋め込まれており、そのリンクをたどってリンク先に行く。すると理解が深まる。これを使うことで知ることができる。その質は、Web2.0の今になっても、そしてさらにバージョンが上がってどれほど洗練されようとも、変わらないのではないかと考えています。 これはいろんな意味でちょいちょいと違う。簡単に補助線だけ言うと。 ⇒テッド・ネルソン - Wikipedia ⇒Tim Berners-Lee 我々はリンクされた普遍的な情報システムを研究するべきだ。そのシステムでは、普

    ま、ちょっとだけ、ポランニ - finalventの日記
    chanm
    chanm 2008/05/26
    ”ポランニ”
  • finalventの日記 コメント欄 - はあはあ。つまり山形なんぞは高所から見下ろすだけのえらそうで居丈高な

    どうでもいいことなんだが。 戦後を見つめてきた老政治家が逝った。 なんとなく日語的にひっかかるのは、「逝った」に「老政治家」だからだろうか。つまり、「老」がひっかかるのか私の語感では。 オワタという感じでしょうか。これで楽天はどうなるか。いろいろ出てくるのか。アレとか出てきたら世間的にはドンビキだろうがさて出すのか、わかんね。 産経の社説ではリクルートへの言及がない。なくてもいいといえばそうだが。 ⇒TBS、リクルートと資提携 : NIKKEI NET:企業 ニュース 社説としてはこれはよくまとまっているな。あっと言う間に忘れ去れる人かもしれないので、こういうウィキペディアみたいな記述はまさにウィキペディアにでも残しておけばいいのに。 今、安倍首相は「戦後レジームからの脱却」を掲げている。戦後レジームを体現した政治家とも言える宮沢氏は、生涯の終わりに、この時代の政治の姿に、どんな思いを

    finalventの日記 コメント欄 - はあはあ。つまり山形なんぞは高所から見下ろすだけのえらそうで居丈高な
    chanm
    chanm 2007/07/01
    "あと、本当の問題って実は大衆性の側にある。""自分の人生に引きつければすげー重たいわけで、そういう重さを大切できるようになる。"今まで2.0とか騒いでおきながら思想は天道説を疑ってなかった私に気づいたorz...
  • 私が言うと誤解されるんだろうけど(リライト版) - finalventの日記

    最初の版では、私ことfinalventの立ち位置(アルファーブロガーと言われることがある)から読まれると誤解されるだろうと懸念したことと、具体的な著作家やブロガーを指示したこともあり、私としてはそういう含意も内意はなかったのだが、ご不快に思われたかたもあったようだった。ブログは書き方を注意しないといけないものだなと反省する機会にもなった。以下、具体的な著作家やブロガーを指示しない形で、内容点だけ構成しなおしてリライトしてみた。 ----------------- ブログユーザーが現状どの程度広がっているかについては統計的には知らないが、はてなダイアリーが始まり、アルファーブロガー企画などがあった4年前から比べれば、大きな変化を遂げた。そこで原型的ともいえる4年前のブログの世界だが、さらにその先駆型となるMTなどの技術への関心の話題やfj的な技術系を引いた話題のブログがあり、それに傍系として

    私が言うと誤解されるんだろうけど(リライト版) - finalventの日記
    chanm
    chanm 2007/06/29
    "思想とは現実の「私」の生きがたさからしか発しないし、それを発して受け取る人の運動(「私」を具体的に越えていくこと)のなかでしか生き生きと現れえない。"
  • 国語教育について - 内田樹の研究室

    大学院のゼミでは国語教育について論じる。 国語力の低下が子どもたちの学力の基盤そのものを損なっていることについては、すでに何度か言及した。 何が原因なのかについては諸説があるが、「言語のとらえかた」そのものに致命的な誤りがあったのではないかというラディカルな吟味も必要だろうと私は思う。 「いいたいこと」がまずあって、それが「媒介」としての「言葉」に載せられる、という言語観が学校教育の場では共有されている。 だが、この基礎的知見そのものは果たして妥当なのか。 構造主義言語学以後(つまり100年前から)、理論的には言語とはそのようなものではないことが知られている。 先行するのは「言葉」であり、「いいたいこと」というのは「言葉」が発されたことの事後的効果として生じる幻想である。 とりあえずそれがアカデミックには「常識」なのだが、教育の現場ではまだぜんぜん「常識」とはされていない。 私が何かを書く

    chanm
    chanm 2007/06/07
    実存主義vs構造主義on国語教育
  • 斎藤環と茂木健一郎の往復書簡「脳は心を記述できるのか」 第1信 「価値のクオリア」は存在するか?(斎藤環)

    斎藤環から茂木健一郎への手紙 はじめまして。 はじめておたよりします。斎藤環と申します。 茂木さんの著書は何冊か読ませていただきましたが、その精力的な活動のすべては、とうていフォローし切れていない点をまずお詫びいたします。 そのかわりといってはなんですが、妙なエピソードからはじめさせていただきます。 じつは私は、茂木さんとこれまでに何度かニアミスしているんですよ。たとえば、私は2006年の夏休みにフライブルクに行ったんですが……(といえばピンと来るかも知れませんね)、ルフトハンザ機内で私たち家族の斜めうしろに茂木さんが座っておられました。驚いたのは、往路だけならまだしも、復路の機内でもほぼ同じ位置関係で、なんというか、この「偶有性」には驚かされました。思えばあの時点で、この企画は萌芽的かつ徴候的に成立しつつあったのかもしれませんね(笑)。 私の茂木さんへの親近感はこれに留まりません。私たち

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    chanm 2007/06/04
    ねちっこい&トピック盛り込みすぎで面白い
  • 私的昭和人論 - 内田樹の研究室

    授業と会議のあいまに、ジブリに「貧乏で何か問題でも?」を書き、共同通信に「ネットカフェ難民」を書き、文藝春秋の「私的昭和人論」を書く。 ほとんど「ライティング・マシン」である。 「私的昭和人論」は字数がたっぷりいただけたので、「昭和人のエートス」について書く。 よい機会だったので、「昭和人」とはどういう人のことか、考えてみた。 「明治人」という人物類型がある。 でも、「大正人」という言い方はなされない。私は聞いたことがない。 「昭和人」という言い方はどうであろう。 たぶん成立するであろう。成立しなければ、「昭和人のエートス」というタイトルで原稿依頼があるはずがない。 どうして、明治と昭和だけに特殊な人物類型が出現したのか。 おそらくこの二つの時代が「断絶」を含んでいるからである。 私はそう思う。 「明治人」「明治生まれの人間」を意味しない。そうではなくて、「明治的」な人間のことである。 「

  • 構造主義からもポスト構造主義から抜け落ちるもの - finalventの日記

    あなた。 多分、Googleはポスト・ポスト構造主義 力(技術)が世界を変革可能だと確信しているし、実際、世界を変革している。 ポスト構造主義的な「力(ちから)」が「技術(ゲシュテル)」と結託して出現することが特徴。 ただし。 当に変えているのか? ポスト構造主義的な力をただ自滅的に加速しているだけなんじゃないか。 で、前者がGoogle主義。後者がポスト構造主義など。 構造主義でもポスト構造主義でも、「私」が不在なのに、Google主義では、べたに私が復権してくる。 オレってこれやりたいんだもの、ちょーちょーいいかんじぃ、みたいのをべたに技術力が実現する。(しかもそれがWeb2.0だかで人の総合知や欲望を引きつけるし、カネを引きつける)。 ただなぁ……つうあたりがなんだかバーカバーカみたいなんだけどね。 でも、力がある人は、そちらにどんどんシフトしていくわけで、世界を考えているよりコー

    構造主義からもポスト構造主義から抜け落ちるもの - finalventの日記
    chanm
    chanm 2007/04/30
    そうか、思想のないものは思想のないままにしておかれずにポストって地位を与えられるのか。構造主義にメタが作られるのって、構造主義的に本意なんだろうか。・・あ、どうでもいいのか。
  • 間違った生き方があるのか、本当の生き方があるのか、わからない - finalventの日記

    ただ、関係のなかで人は「罪」足りえる。 だけど、「罪」は許されうるかもしれないのに、その「罪」を逃れることで「愛」の可能性を失うこともあるのかもしれない。 そこが生きることの難所のようにも思うし、そうした難所にある人をあまり他人事には思えない。 でも、それは、語れば、欺瞞。人は、「罪」と「愛」の括弧を外して生きなくてはならないのだから。 私はこうしたことを考えるときティリヒを思い出す。 ティリヒはなぜこんな恐ろしいことを言うのだろう。 批判者になったり、反逆者になったりすることは、それほどむずかしすぎるなどということはありません。しかし、何かに対して妥協しない、自分に対してすら妥協しないで、しかも偶像礼拝に対する神の審きを告げることはたいへん困難です。その勇気ある行為が、苦難や殉教を招くかもしれないからというのではありません。失敗の危険を含むからです。私どもの意識のなかにある何かが、つまり

    chanm
    chanm 2007/03/01
    原罪の設定がある宗教は楽でいいなぁと思ったし悪人正機説もどうなんかなぁと思ってたけど。わりとマッチポンプって重要なのか。
  • 悲観主義とオプティミズム - My Life Between Silicon Valley and Japan

    一週間東京に行って帰国したところ。これからしばらく寝たり起きたりで、消耗しきった身体に体力が戻るのを待とう。今年二回目の東京だったが、こちらに戻ってくるとすべてのモードが全く変わって、ブログを書く力もようやく沸いてくる。 ある日、東京で気のおけない親しい友人たちとオプティミズムの話になった。「ウェブ進化論」のオプティミズムを誤解する人が多いね、という話がよく出るが、その日もそんな話になった。オプティミズムとは、生来人間は素晴らしいものなんだから「世の中、ほっておいても何とかなるさ」みたいな呑気でいい加減な考え方とは全く違うものだ。オプティミズムの質を全く理解せぬまま、オプティミズムはけしからんと言う人が多いね、というのは僕もよく思う。 ところで別の友人との集まりで、話がなぜかそちらのほうに流れ、アランの「定義集」の話になった。僕が敬愛してやまない森有正(ぼろぼろになるまで読んだ四冊の)

    悲観主義とオプティミズム - My Life Between Silicon Valley and Japan
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    chanm 2007/03/01
    こうやって実践してる人が言うと伝わるのだな。悲観でも楽観でも行動しないとなあ。
  • finalventの日記 - おカネと時間

    説教じみた話を書いているとほんと年寄り臭くなるし、年寄り臭いというだけで嫌悪感を誘うものだし、嫌悪感があれば誤解が誘導されるものなので、ちょいとだけ、仕事を辞める云々の補足みたいなこと。 仕事というのは、世の中の少なからずの人が、自己実現とか報酬と思っている。違っているとは言わないが、こっそり言うと違っているというか大間違いだと思う。ではなにか、時間の拘束である。自分の人生の時間が自分の思い通りにならないという拘束こそが仕事質なのである。そりゃないっしょとか言われるか。 仕事は命ぜられてやるものではない主体的にやるものだ、よって、拘束じゃない、自らが求めたものだ、とか、言う? いや、そこがこの問題の要なのだ。 そして、この根幹の問題に、マルクスはとっても明快なことを言っている、だから、マルクスは根源的な思想家なのである。 労働とは時間なのだ、と。 当はそうじゃない、が、時間として抽象

    finalventの日記 - おカネと時間
    chanm
    chanm 2006/10/25
    あくまでも資本主義的時間=人間観の中で勝ち位置をさがすか、いっそのことそれ自体からの解放を目指すhttp://www.google.com/search?q=%E6%99%82%E9%96%93%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6%E3%81%AE%E5%8D%81%E4%BA%8C%E7%AB%A0&hl=ja か。。。
  • 二〇二五年までの半世紀を代表する思想・哲学はどこに - My Life Between Silicon Valley and Japan

    フォーサイト誌7月号「シリコンバレーからの手紙」(118)に書いた「二〇二五年までの半世紀を代表する思想・哲学はどこに」 http://www.shinchosha.co.jp/foresight/web_kikaku/u118.html が、ネット上にアップされました。 最近確信を深めていることについて、思い切って書きました。 ・・・・・・・ 素人ながら思想・哲学の歴史をひもとけば、次世代に大きな影響を及ぼした偉大な思想・哲学の多くが、激しく変化する同時代の最先端で、同時代の意味を、また同時代をいかに生きるべきかを必死に考える営みから生まれてきた。その営みの途中経過は、同時代にはそれほど理解されず、その意義は歴史の判断に委ねられるため、評価の定着はかなりあとになる。 「一九七五年から二〇二五年までの半世紀」も、既に最初の三十年が過ぎている。半導体の発明に端を発するパソコンの誕生、チープ革

    二〇二五年までの半世紀を代表する思想・哲学はどこに - My Life Between Silicon Valley and Japan
    chanm
    chanm 2006/08/04
    プログラマが実現してくれる前も、昔からこういう願いはあったけれど、理想と現実が違いすぎて、学者になるか、青いと言われてばかにされるかだった。2.0の新しい経済が、現実で青さを押し通せる強さをくれた。
  • 「で、みちアキはどうするの?」- 「世界を閉じる物語」を編む

    はてなブックマーク > GIGAZINE - とろけるように柔らかい「豚の角煮」を手抜きで作る 誰も彼も豚の角煮には勝てませぬというお話。これ書いてる現在で378ブクマなので、500とかは超えちゃうんだろうなぁ。これをブクマしてるひとのブックマークって、こういう「いつかきっと」系ばっかりなんじゃないか、という予想。そしてはてブ人気エントリーの中でも、ひときわ多くの、数百のブクマ数を稼いでる記事って、結局こういうハウツー系・お役立ち系ばっかりなんですよね。「いつか、いつか役に立つかもしんない」ってせっせと溜め込んでるんだろうなぁ。捨てる技術の話はもう忘れちゃった? はてなダイアリーで1日に何回か更新したときに「ブログのタイトルしか表示されないもの(例)」と「小見出しではなく大見出しがタイトルに表示され、一日のログすべてが表示されるもの(例)」と「記事ごとに独立したエントリになり小見出しがタイ

    「で、みちアキはどうするの?」- 「世界を閉じる物語」を編む
    chanm
    chanm 2006/06/30
    物語依存の旧人類がそんなことで非生産的にもがいているうちに、そもそも生存に物語を必要としない(今&ここという要素だけで直感的に上手く生きられる)ストレスフリーな新人類が誕生するよきっと。
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