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ブックマーク / blog.tatsuru.com (49)

  • モラルハザードの構造 - 内田樹の研究室

    興味深い記事を見た。 NHK 記者ら三人がインサイダー情報による株取引容疑で取り調べを受けているという話である。 この三人は報道局のテレビニュース制作部記者、岐阜放送局の記者、水戸放送局のディレクター。三人の間に連絡を取り合った形跡はない。 それはつまりこのインサイダー取引が「自然発生的・同時多発的」に NHK 内で行われたということである。 ということは、「このようなこと」が当該組織内ではごく日常的に行われていた蓋然性が高い。 不正利用されたのはある牛丼チェーンが回転ずしチェーンを合併するというもの。 3人はニュースの放送前にこれを知り、うち2人は「放送までの22分の間に専用端末で原稿を読み」回転ずしチェーンの株を購入。株価は一日で1720円から1774円に上がり、3人は翌日売り抜けて10-40万円の利益を得ていた。 この金額の「少なさ」が私にはこの不祥事の「日常性」をむしろ雄弁に物語っ

    chanm
    chanm 2008/02/03
    ”世の中が「自分のような人間」ばかりであったらたいへん住みにくくなるというタイプの人間は自分自身に呪いをかけているのである。”そう思うけど、「彼自身の消滅を求める呪い」から逃げ切れそうに見えちゃったり
  • 美食の国へ - 内田樹の研究室

    「メディアと知」の最終回のゲストスピーカーに卒業生でエディターをしている「だからどうだっていうのよヒロコ」が来てくれて、彼女が作っているさまざまな「美味」について話してくれる。 話を聞いているうちに、「美味」というようなジャンルのがこれほど大量に供与されているのは世界で日だけではないかということにふと思い至った。 むろんヨーロッパにもアジアにも「好事家のための美文化」は豊かに存在する。 けれども、それはあくまで料理人がいたり、地下にワインセラーを持っていたりする選ばれた少数のためのものである。 邦の美のマーケットはそうではない。 これらの雑誌の読者たちはビジネス街のランチや「こなもん」の美情報を求めるヴォリューム・ゾーンな人々である。 そのような日常的物(カツサンドとかオムライスとかおでんとかについての)美情報が国民的規模で熱い関心をもって探求され、かつこれほどに情報

    chanm
    chanm 2008/02/03
    ”「生まれついての文化資本」を有している人間は自分が身体化しているものの何がそれを「学校で学ぼうとする」人々の欲望を励起しているかを知らない。この欲望の非対称性が階層格差を決定づけるのである。”
  • オフなので今日も仕事だ - 内田樹の研究室

    オフなのだが締め切りが二たまっているので、早起きして原稿書き。 まず日締め切りの「エピス」の原稿。 今回は『シルク』。 たいへんよい映画なのであるが、致命的な瑕疵がある。 それについて書く。 私がこの映画評のコラムで批判的なことを書くのはたぶんはじめてである。 どんな映画でも「よいところ」は探せばあるので、それ「だけ」書いてきたのであるが、『シルク』は「それ以外」にほとんど欠点のない例外的にすぐれた映画なので、あえて今回に限り欠点について論じたのである。 それはそれだけこの映画の完成度が高いということであり、それと同時にこの映画の瑕疵がこの映画だけの固有の問題ではなく、現代文明のかかえる病根に通じていると思ったから、論じるに値すると思ったのである。 その原稿の一部を転載する。 (…) でも、人間の声の魅力を最大限に引き出した映画だからこそ僕はある違和感を報告しないわけにはゆきません。

    chanm
    chanm 2007/12/06
    "ロールモデルが複数になり、そのそれぞれが「違うこと」を言い始めるときにはじめて人間は成長のプロセスに入る。"
  • 卒論中間発表です - 内田樹の研究室

    卒論の中間発表がある。 うちのゼミ生は15人なので、正午から始めて終わったのが午後6時過ぎ。 ふう、疲れた。 でも、面白かった。 女子学生たちの選ぶ論題は「身近なもの」が多い。 「の崩れ」「家庭崩壊」「学力低下」「ニート」「おひとりさま」などなど・・・ 中には「映画の構造分析」や「存在するとは別の仕方」というようなちょっと抽象的な主題を扱う学生もいる。 いろいろ。 別に何だっていいんだよ。 メディアで流布している「説明」に対して「ちょっと、それは違うんじゃないのかな・・・」という違和感があるときに、自分を納得させることのできる、身体的な実感のあることばを自力で書いてみること。 それがたいせつだ。 誰かの語る「正しい説明」を丸暗記して、腹話術の人形のように繰り返しても、あまりいいことはない。 「正しい説明を丸暗記して、そのまま繰り返すのは間違っている」のではない(だって「正しい」んだから間

    chanm
    chanm 2007/10/10
    ”同じように、あらゆる悪事を警察がただちに発見して処罰する社会システムでは、目の前でどのような凶行がなされていようとも、私たちは安心してそれを拱手傍観することが許される”人任せにしがちなことはあるな
  • 三連休のはずだが・・・ - 内田樹の研究室

    明けて土曜日は学士会館で取材が二つ。 一つは旧友阿部安治くんの会社、教育開発出版株式会社の仕事で、教育問題について。 阿部くんはアゲイン店主石川 “針切りボーイ” 茂樹くんの青学仏文時代の友人の過激派文学青年で、私も二十歳頃からの長いおつきあいである。 夭逝したのみさぶーが「名前からして『治安』をひっくり返すんだから」と長嘆していたとおり、出版会社に入ってからも組合の委員長をやって経営者たちの心胆を寒からしめていたが、いつのまにかその会社の社長になっていた。 平川くんの跡を継いで、サンケイに「ビジネスアイ」というコラムを書いているので、名前をご存じのかたも多いであろう。 どうして子どもたちはこんなに学力が低下してしまったのでしょう? というインタビュアーの質問から始まって、1時間半ほど「学ばない子どもたち、働かない若者たち」の「モチベーションの崩壊」がどのようなダイナミックな構造をもって

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    chanm 2007/10/08
    それを真に受けて俺もいつかはあちら側と富裕層の税制優遇に賛成するアメリカの低所得者層みたいな感じでみんな黙っててもそれはそれでこの国じゃ報われないんじゃないの
  • 「愛己心」な人々 (内田樹の研究室)

    引越の片付けは止めて、一日原稿書き。 『論座』の「愛国心論」6000字。 家が変わり、パソコンの位置も変わり、なんとなくキータッチも変わり(コーヒーのしみを拭き取ったせいかもしれない)、いつものようにすらすら書き始められない。しばらく「助走」を重ねる。 夕方近くにようやく浮力を得てテイクオフする。 物を書くときは、この「テイクオフ」までの助走距離がとれるかどうかが質的な分かれ目となる。 「いますぐ書け」といわれれば、そこそこの字数のものは書けるが、「浮力」が得られないで書いたものは、すでに書いたことの焼き直しにしかならない。 そういうものを書いて送稿してしまうと、深い徒労感に襲われる。 わずかでも浮力を得て書かれたものにはたとえ一行であれ、「生まれて初めて思いついたこと」が書かれている。 その一行を手がかりにして一冊のが生まれることもある。 愛国心についてはこれまでなんどか書いた。 当然

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    chanm 2007/08/16
    ”「私の言うことが真理であることはもとより証明の要もないが、真理であることをぜひ証明したいというのなら、それはあなたの仕事である」まことに合理的な論争術である。”w
  • 格差社会って何だろう - 内田樹の研究室

    「格差社会」という言葉が繰り返し紙面に登場する。 格差がどんどん拡大しているから、これを何とかしなければならないという現実的な(あるいは非現実的な)さまざまの提言がなされている。 どなたも「格差がある」ということについてはご異論がないようである。 だが、私はこういう全員が当然のような顔をして採用している前提については一度疑ってみることを思考上の習慣にしている。 「格差」とは何のことなのか? メディアの論を徴する限りでは、これは「金」のことである。 平たく言えば年収のことである。 年収数億の人もいるし、数十万の人もいる。 とくに年収が低い階層のヴォリュームがこのところ急増している。 パラサイトシングルというのも、フリーター・ニートというのも、ネットカフェ難民というのも、過労死寸前サラリーマンも、要すれば「金がない」せいでそういう生活様態の選択を余儀なくされている。 そういう説明がなされている

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    chanm 2007/07/24
    いや、金を稼ぐ能力以外のところで魅力的なところがある人は今の社会でも結構救われてると思うなあ。問題は内田先生の挙げる総合的な観点を全部ひっくるめて何もありませんが何かって人にとりあえず職と金をっていう
  • 半死半生というより六死四生 - 内田樹の研究室

    ここ数日、日記を更新している暇がない。 ふつうは朝起きて、大学に行く前の時間に走り書きするのであるが、その時間に用事が入ると、書く暇がない。 ほんとうは今日もこんなことをしている暇がないのであるが、あまり長く書かないでいると「病気かしら」と心配する人がいるので、「生きてます」とだけお伝えしておくのである。 備忘のために先週の用事だけ書きとめておく。 土曜日、お稽古のあと岡山へ。ゼミ卒業生の尾川くんの結婚パーティ。どういうわけだかサルサのお稽古をすることになる。オガワ君幸せになるんだよ。 日曜日、バークレーの町山智浩さんが来日中に大阪まで出て来てくれたので、新阪急ホテルで週刊現代のための対談。 ミシマ社の三島くん、毎日新聞の中野さんがオーディエンスで、司会とまとめは大越くんという「身内」のイベントである。 2時間ちょっと話して、さらに河岸を変えてトータル4時間おしゃべりし続け。 町山さんは恐

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    chanm 2007/07/11
    ”町山さんは恐ろしく切れ味のよい知性の持ち主だけれど、「中坊目線」で映画を見始めたときの感動をたいせつにしていて、どのような論件についても、はたしてこれは「ビンボー人目線」「バカ目線」からはどういうふ
  • ご時世ですから (内田樹の研究室)

    ある学会の事務局から問い合わせのメールが来た。 学会誌への会員住所録の掲載は個人情報の開示にあたるので住所録掲載を見合わせたらどうかという申し出が一会員からあったので、会員諸氏のご意見を承りたいという内容である。 「同窓会の名簿等でも個人情報の扱いに神経質になっている時世を実感することが度々です。差し出がましいようですが,ご検討くだされば幸いです。」というご意見である。 事務局からは「住所録そのものを掲載しない...というのは,時代の趨勢だと思いますが...どうでしょうか」と訊いてきた。 まことにおっしゃる通りである。 さらに言えば、「学会員であるという」事実もまた重大な個人情報であるから、会員名簿そのものを作成すべきではないとするのがことの筋目であろう。 加えて、実名で学会誌に寄稿している会員の場合、刊行物を通じて、どのような思想信条文学的嗜癖を持っているのかもひろく人の知るところとなる

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    chanm 2007/06/26
    ”私は「時世」とか「時代の趨勢」とかいう言葉を理由に何かが決定されるのを好まない。その決定から生じた結果について「誰も責任を取る気がない」ということが明らかだからである。”
  • 愛国について語るのはもうやめませんか (内田樹の研究室)

    教育関連三法が今日参院を通過する予定だそうである。 安倍首相は昨日の参院文教科学委員会の総括質疑でこう答えた。 「地域を愛する心、国を愛する心を子どもたちに教えていかなければ、日はいつか滅びてしまうのではないか。今こそ教育の再生が必須だ。」 私は子どもが郷土や国家にたいして愛着を持つことは国民国家にとって死活的に重要であるということについて首相に異存はない。 しかし、「愛国心」というのはできるだけ公的な場面で口にすべきことではない言葉のように思う。 法律文言に記すというようなことはもっともしてはならぬことである。 それは左派の諸氏がいうように、愛国教育が軍国主義の再来を呼び寄せるからではない。 愛国心教育は構造的に人々の愛国心を毀損するからである。 私は愛国者であり、たぶん安倍首相と同じくらいに(あるいはそれ以上に)この国の未来とこの国の人々について憂慮している。 日人はもっと日の国

    chanm
    chanm 2007/06/20
    主義や心持は目指したら終わり。大人たちが朗らかに国を愛してたらそれでいいよな。
  • 奥州三昧ツァー - 内田樹の研究室

    菅原美喜子さんの主宰する多田塾奥州道場で多田先生の講習会があるので、岩手県までゆく。お供はいつものウッキー。 五月は広島の講習会に行き、全日でお会いし、五月祭で説明演武を拝見して(帰りに赤門前のそば屋でおそばもごちそうになり)、奥州でもまる二日間。トータルすると、この一ヶ月のうち6日間多田先生とご一緒したことになる。 多田先生のそばにいると、心身四肢五臓六腑が細胞レベルから活性化してくる。 こういう感じを経験のない人に伝えるのはなかなか困難であるが、熱く細かい波動が先生から送られてくる。 これはその場にいる全員が感知してよいはずであるが、不思議なもので、あれほどはっきりした波動に触れながら、「感じない」人もやはりいる。 どういう人が感じ、どういう人が感じないのか。この区別がだんだんわかるようになってきた。 良導体の人は感じ、そうでない人は感じない。 「良導体」というのは、その波動を次のひ

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    chanm 2007/06/12
    ”私たちが欲するものは、それを他人に与えることによってしか手に入れることができない。人間はそのように構造化されている。”通りは良くしておきたいもんです
  • 国語教育について - 内田樹の研究室

    大学院のゼミでは国語教育について論じる。 国語力の低下が子どもたちの学力の基盤そのものを損なっていることについては、すでに何度か言及した。 何が原因なのかについては諸説があるが、「言語のとらえかた」そのものに致命的な誤りがあったのではないかというラディカルな吟味も必要だろうと私は思う。 「いいたいこと」がまずあって、それが「媒介」としての「言葉」に載せられる、という言語観が学校教育の場では共有されている。 だが、この基礎的知見そのものは果たして妥当なのか。 構造主義言語学以後(つまり100年前から)、理論的には言語とはそのようなものではないことが知られている。 先行するのは「言葉」であり、「いいたいこと」というのは「言葉」が発されたことの事後的効果として生じる幻想である。 とりあえずそれがアカデミックには「常識」なのだが、教育の現場ではまだぜんぜん「常識」とはされていない。 私が何かを書く

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    chanm 2007/06/07
    実存主義vs構造主義on国語教育
  • とっても大変な三日間 - 内田樹の研究室

    金曜日は甲野善紀先生の講習会講演会。 学特別客員教授としての最初のイベントであり、学教職員への「おひろめ」の意味も含めて告知していたのであるが、学生、教職員の参加は少なく、ちょっと残念である。 しかし、甲野先生はそんなことをすこしも気にしないで、講習会から懇親会まで楽しそうに私たちのお相手をしてくれた。 7月29日にはオープンキャンパスで島崎徹先生と私との鼎談が予定されている。これは絶対面白いはずだから、みなさん見に来てくださいね(午後1時より学講堂にて。学外者も参加自由です)。 今回の講習会は卓球元インカレ王者ミキハウスの渡辺裕子さんと、大阪府立高校の先生で合気道家の溝脇元志先生が初登場。 渡辺さんは平野早矢香さんと仙台育英高校で美少女ペアを組んでいた。すぱっと吹っ切れた感じが似ている。 卓球のような運動の場合は、潜在意識で動かないとボールスピードに間に合わない。山田コーチが甲野先

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    chanm 2007/06/04
    "学生、教職員の参加は少なく"ええええーもったいなさすぎるなんて贅沢な
  • 私的昭和人論 - 内田樹の研究室

    授業と会議のあいまに、ジブリに「貧乏で何か問題でも?」を書き、共同通信に「ネットカフェ難民」を書き、文藝春秋の「私的昭和人論」を書く。 ほとんど「ライティング・マシン」である。 「私的昭和人論」は字数がたっぷりいただけたので、「昭和人のエートス」について書く。 よい機会だったので、「昭和人」とはどういう人のことか、考えてみた。 「明治人」という人物類型がある。 でも、「大正人」という言い方はなされない。私は聞いたことがない。 「昭和人」という言い方はどうであろう。 たぶん成立するであろう。成立しなければ、「昭和人のエートス」というタイトルで原稿依頼があるはずがない。 どうして、明治と昭和だけに特殊な人物類型が出現したのか。 おそらくこの二つの時代が「断絶」を含んでいるからである。 私はそう思う。 「明治人」「明治生まれの人間」を意味しない。そうではなくて、「明治的」な人間のことである。 「

  • 日本語壊滅 - 内田樹の研究室

    産経新聞が「大丈夫か日語」というシリーズ記事を掲載している。 たいへん興味深い記事があったのでご紹介したい。 まずは携帯メールによる語彙の変化についての研究報告。 日大学文理学部の田中ゆかり教授(日語学)は「(携帯メールのコミュニケーションで)新たな語彙を獲得するのは難しい」とみる。そこでのやりとりは親密な間柄の「おしゃべり」に限られるからだ。丁寧な言い回しや敬語といった配慮表現が絵文字や記号に取って代わられることも多く、言葉を尽くして伝える訓練にはならない。 「短文化」も加速している。田中研究室に在籍していた立川結花さんが平成17年、大学生の携帯メール約400件を分析したところ、1件平均の文字数は約30字で、5年前の調査結果の3分の1にまで減っていた。 「相手に悪く思われないためには、30秒以内に返信するのが暗黙のルール。送受信の頻度は上がり、極端な場合、1文字だけのメールがやり取

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    chanm 2007/05/09
    学生までは内輪の言語空間だけど、社会に出ると言葉や語彙や文字遣いでヒエラルキー出来るからなあ。どこに属したいかでみんな適性化してくんじゃないかしら。
  • 東京でお仕事 - 内田樹の研究室

    東京出張。仕事は三つ。 福岡伸一先生との対談、クロワッサンの取材、それから諏訪哲二先生との対談である。 福岡先生とお会いするのは二度目である。 前回は新宿のホテルのバーで隣り合わせて座って、Y野屋のG丼の原価の秘密について、さらにはMシシッピ河流域に展開するG肉マフィアの恐るべき真相について、「ここだけの話ですが」をいろいろと伺った。 「こんな話をAメリカでしたら、翌日はHドソン河で簀巻きにされて浮いてます」とF岡先生は遠い目をして語っていたのである。 わお、めちゃテリブルですね、F岡先生(っていまさら伏字にしても仕方がないが)。 当然のことながら、今回もテリブル話で盛り上がったのであるが、残念ながら、私たちの対談を掲載するメディアは「中学校受験向けの学習塾に配布されるフリーペーパー」であったので、そういう話はすべて「カット」されるはずである。 どうしてこのようなメディアで福岡先生が連載対

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    chanm 2007/05/07
    大学教授がいちばん能力主義者だとおもうけどな。こう、”冷や飯”の長さに裏付けられた。
  • 磯江毅さんの展覧会に行く - 内田樹の研究室

    磯江毅さんの展覧会(「存在の美学」)を見になんばの高島屋に行く。 磯江さんは山画伯のスペイン苦学時代の友人で、写実主義の画家である。 絵を拝見するのははじめてである。 順繰りに6人の画家の作品を眺めてから、山画伯と磯江さんにシロートの適当な感想を申し上げる。 写実絵画からは腐臭がする。 どうしてかしらないけれど、写実が端正で緻密であればあるほど、そこに描かれているものから腐臭や屍臭に似たものが漂ってくる。 それがぼくはわりと好きなんですけどね、と申し上げる。 磯江画伯がぐっと膝を乗り出して「そうなんですよ」と言う。 「写実主義の絵画には時間が塗り込められていますから。」 それはどういうことですか、とお訊ねする。 写実画はものすごく時間がかかるのだそうである。 今回出品されていた葡萄の絵の場合、制作に一月かかっている。 葡萄は当然腐る。 腐ってどんどん形態が変わってしまっては写生できない

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    chanm 2007/04/26
    時間って、留める方が大変なのね。
  • 分子生物学的武道論 - 内田樹の研究室

    昨夜読んだ福岡伸一先生のの中に「武道的に」たいへんどきどきする箇所があったので、それを早速合気道の稽古に応用してみることにした。 それはトラバでM17星雲さん(ごぶさたしてます)が言及している箇所と同じところなのだが、「どうして原子はこんなに小さいのか?」というシュレディンガーの問いについて書かれたところである。 どうして原子はこんなに小さいのか? これは修辞的な問いであって、実際の問いは「どうして生物の身体は原子に比べてこんなに大きいのか?」と書き換えねばならない。 原子の直径は1-2オングストローム(100億分の1メートル)。 つまり、仮に1メートル立方の生物がいたら(そんなかたちの生物見たことないけど)は原子の100億の3乗倍の大きさがあることになる でかいね。 どうして、生物はこんなに大きいのか? 理由を福岡先生はこう書く。 「原子の『平均』的なふるまいは、統計学的法則にしたがう

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    chanm 2007/04/22
    空気重要
  • 生物と無生物のあいだ - 内田樹の研究室

    福岡伸一先生の新著『生物と無生物のあいだ』(講談社新書)を読む。 あまりに面白くて、どきどきしながら一気読みしてしまう。 みなさんもぜひ買って読んで下さい(でも、残念ながらまだ店頭にはありません。五月新刊なのであと少しお待ちを。私は帯文を書くために原稿のハードコピーを読ませていただいたのです)。 理系の人の書くものは面白い。 養老孟司、池田清彦、茂木健一郎、池谷裕二、佐々木正人、スティーヴン・ストロガッツ、ジュリアン・ジェインズ、リン・マクタガード・・・どれも「がつん」とくる。 一方、社会学の人や歴史学の人や心理学の人ので読んで「はっ」と胸を押さえるというような刺激的なものにはこのところ出会っていない(私のアンテナにヒットしないだけで、どこかにスケールの大きな社会学者がいるのかも知れないけれど、残念ながら、まだ出会う機会がない)。 理系の人の文章はロジカルでクールで、そのせいで「論理のツ

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    chanm 2007/04/22
    文系脳の極を見た。
  • ひさしぶりの週末なので - 内田樹の研究室

    新学期が始まったので、もう忙しくて忙しくて、どうにもなりません。 ゼミが四つ同時に始まったので、そこでそれぞれのゼミの目的に応じたご挨拶をする。 2年生のゼミと3年生のゼミでは「気合い」がかなり違う。 こう申し上げては失礼だけれど、2年生のゼミ生のうちにはまだ「なんでゼミなんかやるの? ていうか、このおじさん誰?」というぽかんとした表情が散見される。 おじさんはね、諸君を諸君の知らないミステリアスな世界へといざなうメリー・ポピンズみたいな人なのだよ。 残念ながら彼のスーパーガバネスのように、鞄から帽子架けを取りだしていきなり諸君の度肝を抜くような芸当はできぬのだが、瓢箪から駒を出し、嘘から真を取り出すくらいのことは朝飯前である。 汗を拭き拭きオフィスに戻ると、次々とゼミ生や院生が論文のこと、就職のことなどで相談にやってくる。 私のカウンセリング理論は「相手が言ってほしい言葉を言ってあげる」

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    chanm 2007/04/16
    "物書きは本質的には「ニッチ・ビジネス」である。つまり、「私の代弁者がどこにもいない」という不充足感にイラついている読者たちをコアなクライアントに標定する、ということである。"先生達のみのもんたなのね。