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artifactsに関するconsigliereのブックマーク (289)

  • 長福寺に鎌倉期の木札 長さ4・34メートル、土地の所有権主張か 奈良

    鎌倉時代の建立とされる生駒市俵口町、真言律宗・長福寺の堂(重要文化財)に掲げられたとみられる同時代の木札「料田目録」が見つかり、奈良文化財研究所で開かれた木簡学会の集会で報告された。縦28・7センチ、横4・34メートルあり、奈文研によると中世の土地所有を示すこうした長大な木札の目録が確認されるのは珍しいという。 県文化財保存事務所が平成24〜28年に行った堂の解体修理などの際、2枚に切断されて庫裏(くり)で保管されていたことが分かった。永仁6(1298)年3月の日付があり、近辺の「生馬上御庄」を中心に小さな田畑が記された仏供・法会の財源に関する記録といい、吊り金具の間隔から堂内南側中央に掛けられていたと考えられるという。 永仁6年は西大寺(真言律宗総山)の田園目録と同じ年で、鎌倉・極楽寺(真言律宗)の忍性が唐招提寺(律宗総山)に「東征伝絵巻」を奉納した年でもある。当時は西大寺流の

    長福寺に鎌倉期の木札 長さ4・34メートル、土地の所有権主張か 奈良
  • 社会ニュース:どうしん電子版(北海道新聞)

    内戦下のシリアで拘束され、3年4カ月ぶりに解放されたジャーナリスト安田純平さん(44)に、警視庁公安部が聴取を要請したことが16日、捜査関係者への取材で分かった。聴取内容を踏まえ...続きを読む

    社会ニュース:どうしん電子版(北海道新聞)
  • 魏の時代の墓を発見、文化財400点が出土―中国(2016年11月12日)|BIGLOBEニュース

  • 寺跡の石、継体天皇?の棺材…市民の通報で発見 : ニュース : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)

    高槻・今城塚古墳近く 継体天皇の墓とされる大阪府高槻市の今城塚古墳(6世紀前半)近くの寺院跡に立っていた石材が、同古墳に納められた石棺の一部とみられることがわかり、同市立今城塚古代歴史館が10日発表した。長年にわたって集落の石橋として使われていたが、市民からの連絡で史料の「発見」につながった。 石材は長さ1・1メートル、幅66センチ、厚さ25センチで、重さ250キロ・グラム。周辺で既に出土した数百点の破片から、古墳には熊県宇土市産の「阿蘇ピンク石」を使った約7トンの石棺があったと推定され、石材は材質からその一部とみられる。天皇やその近親者が埋葬されていた可能性が高いという。 地元の伝承によると、1596年の伏見地震後、崩れた墳丘から地元住民が石棺材を搬出し、集落の共同井戸を渡す石橋として使用。滑ってけがをする人が増えたため、たたりを恐れた住民が1960年頃から、古墳から約1キロ離れた「観

    寺跡の石、継体天皇?の棺材…市民の通報で発見 : ニュース : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)
    consigliere
    consigliere 2016/11/11
    すごいな。「「高槻市文化財スタッフの会」のメンバーがガイドとして古墳の関係先を巡った際、寺院跡の石材が石棺の材質に似ていることに気づき」
  • 封印を解かれた「キリストの墓」の新事実 | ナショナルジオグラフィック日本版サイト

    イスラエルのエルサレム旧市街にある聖墳墓教会で、イエス・キリストの遺体が埋葬されていると伝えられる墓の調査が行われた。墓を覆い包むように建っているこの教会は、何世紀にもわたって破壊や修復が繰り返されてきたが、これまでに判明した調査結果からは、来の墓の一部が今も残っているらしいことがわかってきた。(参考記事:「『キリストの墓』数世紀ぶりに開けられる」) この墓はキリスト教世界で最も神聖な場所で、石灰岩の洞窟の壁を削って作られたもので、「石墓」と呼ばれている。石墓の上には、遅くとも西暦1555年、あるいはそれよりも数世紀前から、大理石の板がかぶせられていた。この覆いが設置されたのは、熱狂的な巡礼者が墓から石の欠片を記念品として持ち去るのを防ぐためだと言われている。 大理石の覆いが外された10月26日の夜、ギリシャのアテネ国立技術大学の保存担当チームが行った最初の調査では、覆いの下に敷かれてい

    封印を解かれた「キリストの墓」の新事実 | ナショナルジオグラフィック日本版サイト
  • 「キリストの墓」数世紀ぶりに開けられる

    エルサレムの聖墳墓教会内で、イエス・キリストの遺体が安置されたという石墓を囲んで建てられた聖堂「エディクラ」の修復作業が行われている。(PHOTOGRAPH BY ODED BALILTY, AP FOR NATIONAL GEOGRAPHIC) イスラエルのエルサレムで、キリストの墓と伝えられる石墓の覆いが数世紀ぶりに取り外された。この墓はエルサレム旧市街の聖墳墓教会内にあり、遅くとも西暦1555年から、おそらくそれよりも何世紀も前からずっと、大理石の板で覆われていた。(参考記事:漆喰の下に12世紀のモザイク画を発見、聖誕教会) 修復プロジェクトの協力者で、米ナショナル ジオグラフィック協会付き考古学者のフレデリック・ヒーバート氏は、「石墓を覆う大理石の板を取り除くと、下に充填材が詰めてあって、その量の多さに驚きました」と言う。「科学的分析にはかなりの時間がかかるでしょうが、ついに、キリ

    「キリストの墓」数世紀ぶりに開けられる
  • 馬にかぶせる鉄製馬冑を復元…福岡の船原古墳 : カルチャー : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)

    福岡県古賀市教育委員会などは、同市谷山の 船原 ( ふなばる ) 古墳わきに掘られた 土坑 ( どこう ) で見つかった馬にかぶせる鉄製 馬冑 ( ばちゅう ) (全長48・5センチ、幅28センチ)を復元し、28日、報道陣に公開した。 馬冑をかたどる鉄板はばらばらの状態で見つかったが、精巧に組み立て、当時の風貌をよみがえらせた。11月から市立歴史資料館で始まる「船原古墳展」で一般公開される。 船原古墳は、6世紀後半~7世紀初頭の前方後円墳。これまでの発掘調査で、土坑群から多数の金銅製馬具などが見つかっている。 市教委によると、馬冑は2013年、他の装飾馬具と一緒に発掘。ばらばらの鉄板を県九州歴史資料館が洗浄するなどして調べた結果、鼻から額までの 面覆部 ( めんふくぶ ) 、 頬当部 ( ほおあてぶ ) 、 庇部 ( ひさしぶ ) の計6枚の鉄板が鉄製の 鋲 ( びょう ) でつなぎ合わせ

    馬にかぶせる鉄製馬冑を復元…福岡の船原古墳 : カルチャー : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)
  • 淡路・松帆銅鐸:出雲と同じ兄弟銅鐸 共通の工人集団判明 | 毎日新聞

    昨年4月に兵庫県南あわじ市(淡路島)で見つかった弥生時代前期末~中期初め(紀元前3~前2世紀)の松帆銅鐸(どうたく)(7個)のうち5号銅鐸が、島根県出雲市の荒神谷(こうじんだに)遺跡(6個、国宝)の6号と同じ鋳型(同笵=どうはん)で作られた兄弟銅鐸だったことが分かった。南あわじ市教委と奈良文化財研究所が26日発表した。松帆3号と、同県雲南市の加茂岩倉遺跡(39個、国宝)の27号との兄弟関係も既に判明しており、淡路と出雲が共通の工人集団や銅鐸の流通で広域につながっていたことも明確になった。 一部破損して発見された松帆5号(高さ23.5センチ)と、荒神谷6号(同23.7センチ)は「外縁付き鈕(ちゅう)1式」に分類される古い銅鐸。奈文研の難波洋三・客員研究員が目視で分析し、つり手と胴体の文様構成や鋳造時に付く複数の笵傷の一致を確認した。松帆5号の方が傷が少なく、先に作られた初期の鋳造の可能性が高

    淡路・松帆銅鐸:出雲と同じ兄弟銅鐸 共通の工人集団判明 | 毎日新聞
  • 山口)吉田遺跡の木簡、読み付きの千字文 山口大調査:朝日新聞デジタル

    山口大学(山口市吉田)は25日、同大構内にある吉田遺跡で昨春見つかった奈良時代のものとみられる木簡に、古代中国の文字習得の教科書「千字文」の読みが記してあったと発表した。読みを付した千字文の木簡としては国内初の発見になるという。 千字文は千種類の漢字が四字ずつの韻文でつづられたもので、作者は5~6世紀ごろの中国の人物、周興嗣(しゅうこうし)とされる。7世紀以降、中国の子どもたちが「論語」とともに文字を学ぶ際に教科書として使い、日にも広まった。千字文を読みなしで書き写した「習字木簡」はこれまで30弱の発見例がある。 一方、今回見つかった木簡は漢字の下に万葉仮名で読みを書いた「音義木簡」。国内の発見は5例目で、昨年4月に見つかり、8月に同大が発表した。 その後の調査で、木簡にある文…

    山口)吉田遺跡の木簡、読み付きの千字文 山口大調査:朝日新聞デジタル
    consigliere
    consigliere 2016/10/27
    「「雨」を「不路(フル)」、「露」を「ツ由(ツユ)」、「霜」を「之母(シモ)」などと読みをふっていた」
  • 高い鼻に坊主頭…ペルシャ人役人?描いた木簡 : カルチャー : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)

    ペルシャ人の役人の名前を記した8世紀の木簡が出土した奈良市の平城宮跡近くで、外国人とみられる顔を描いた同時代の木簡が見つかっていたことが、奈良文化財研究所の調査でわかった。 ペルシャ人役人を連想させ、同研究所平城宮跡資料館(奈良市佐紀町)で15日に始まる「地下の正倉院展」で木簡の写真を展示する。 顔の絵の木簡は、ペルシャ人を意味する「 破斯 ( はし ) 」と書かれた木簡が発見された場所から約70メートル北東で見つかった。一緒に出土した土器などから同年代のものとみられる。顔は木簡の表に二つ、裏に一つ描かれ、いずれも高い鼻と、坊主頭が特徴。古代の仮面劇「 伎楽 ( ぎがく ) 」で使われたペルシャ人の面に似ている。 木簡には字の練習をした跡もあり、顔の絵も役人の落書きとみられる。

    高い鼻に坊主頭…ペルシャ人役人?描いた木簡 : カルチャー : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)
    consigliere
    consigliere 2016/10/13
    前もつぶいた通り、別にペルシャ人がいてもおかしくはないんだけれども、ちょっと、ね
  • 【茨城新聞】つくば・下河原崎高山古墳群 石棺から人骨や副葬品

    教育財団は5日、発掘調査を行ってきたつくば市下河原崎の「下河原崎高山古墳群」で、前方後円墳内が盗掘を受けていない状態で見つかり、中の石棺から人骨と銅鋺(どうわん)、鉄刀などの副葬品が多数発見されたと発表した。出土品から古墳の築造年代が古墳時代終末期の7世紀初頭ごろのものと推定した。同財団によると、盗掘を受けずに約1400年前の埋葬施設がそのまま残っていることは非常に珍しく、貴重な調査例だという。8日に一般向けの現地説明会を行う。 同遺跡は同市南西部、西谷田川左岸の標高20〜25メートルの台地にあり、前方後円墳や方墳、円墳など十数基で構成されている。同財団は今回、古墳時代の前方後円墳(第5号墳)1基、方墳(第18号墳)1基の調査を行った。人骨などが発見された前方後円墳は墳長38メートル、墳丘の高さ1・5〜2メートルで、築造当時の形をよくとどめているという。埋葬施設は箱式石棺で、計13枚の雲

    【茨城新聞】つくば・下河原崎高山古墳群 石棺から人骨や副葬品
  • 福岡「伊都国」:2例目の硯 「弥生後期に文字」強まる | 毎日新聞

    新たに確認された硯の破片(左)。1例目の破片(右)より裏面がでこぼこしている=福岡県糸島市の糸島市役所で2016年9月28日午後4時15分、尾垣和幸撮影 福岡県糸島市教委は28日、弥生時代後期(1〜2世紀)とみられる硯(すずり)の破片が出土した同市の三雲・井原遺跡で、新たに別の硯の破片が発見されたと発表した。同遺跡は「魏志倭人伝」に登場する「伊都国」の中枢遺跡で、外交文書のやり取りをしていたとする記述がある。1例目の硯が発見されるまで国内での文字使用は3世紀ごろからとされていた。硯が複数発見されたことで、市教委は「伊都国で文書が作成されていた可能性がより強まった」とした。 破片は板石状で5.4センチ×3.9センチ、厚さ5ミリ。昨年12月に発見された硯と材質は同じだが、1ミリほど薄く、裏面の加工の仕方が違うことなどから、市教委は別の硯と判断した。ただし同時代の物とみられる。同じ遺跡から弥生時

    福岡「伊都国」:2例目の硯 「弥生後期に文字」強まる | 毎日新聞
  • だめブログ 居延漢簡の年代

  • めちゃくちゃ珍しい2000年前の「暴君ネロの金貨」が出土

    Rare Ancient Roman Coin, Gold, Sestertius, Nero c 64 AD (Photo by Hoberman Collection/UIG via Getty Images)

    めちゃくちゃ珍しい2000年前の「暴君ネロの金貨」が出土
  • 韓国扶余陵山里古墳群発掘 2基は百済王陵級

    扶余陵山里(プヨ・ヌンサンリ)古墳群で百済王陵級と推定される古墳が確認された。韓国文化財庁〔庁長・羅善華(ナ・ソンファ)〕は6月から忠清南道(チュンチョンナムド)扶余陵山里古墳群の西側地区で発掘調査を進め、これまで知られていなかった3基の墓を新たに発見し、記録だけで存在していた4基の墓の正確な位置を特定したと20日、明らかにした。また、すでに発見されている4基の古墳のうち2基は王陵級の古墳である事実も新たに確認した。 扶余陵山里古墳群は日帝強占期に3回(1915年、1917年、1937年)調査が実施されて計15基の古墳が確認された。その後、1960年代に封墳(地上の盛り土がされている部分)を整備するなかで古墳2基が新たに確認され、現在まで計17基の古墳があることが分かっている。ところが今回の調査で古墳3基の存在が新たに確認され、ここに発掘調査された古墳2基が王陵級である事実まで確認されたこ

    韓国扶余陵山里古墳群発掘 2基は百済王陵級
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    consigliere 2016/09/21
    おお、武寧王の木棺と同じく高野槇(金松)か!
  • 多賀城跡から檜扇出土…「誦」「衢」などの文字 : 地域 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)

    県多賀城跡調査研究所は、国の特別史跡・多賀城跡(多賀城市)から、多くの文字が書かれた木製の扇( 檜扇 ( ひおうぎ ) )が出土したと発表した。文字が記された檜扇が確認されたのは県内では初めて。同研究所は「奈良や京都では文字が書かれた檜扇が見つかっているが、地方の役所跡からの出土は非常に珍しい」と話している。17日には、一般向けに現地説明会が開かれる。 同研究所は今年5月以降、多賀城跡中心部の南西約250メートルにある坂下地区を調査したところ、奈良時代後半~平安時代前半に使用されたとみられる檜扇の板11枚が見つかった。 板は幅2~3・5センチ、厚さ1~2ミリ。「誦」や「衢」などの漢字が繰り返し記されているのが読み取れたという。当時、檜扇はあおぐ際などに使用されていたが、同研究所は「役所の跡地から出土しており、役人が文字の練習をしていたのではないか」と分析する。 17日の現地説明会は午前10

    多賀城跡から檜扇出土…「誦」「衢」などの文字 : 地域 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)
  • 室町後期の刀、質より量? 県工業技術研究所調査:岐阜:中日新聞(CHUNICHI Web)

    室町時代に関で作られた日刀三振りを県工業技術研究所(関市)が切断して調べたところ、戦国時代に近いほど刀の質が悪くなると分かった。研究所によると、調査数は少ないが、大量の武器が必要とされ、粗悪品が作られたと推測できるという。研究所が二日、発表した。 調べたのは、室町時代の前期、中期、後期に作られたとされる日刀それぞれ一振り。市が所有し、関の刀工の名前が彫ってある刀のうち、さびやヒビなどで美術的な価値が低い刀を選んだ。いずれも手元と刃先の二カ所を切断して、材質や硬さを調べた。

    室町後期の刀、質より量? 県工業技術研究所調査:岐阜:中日新聞(CHUNICHI Web)
    consigliere
    consigliere 2016/09/03
    そりゃあ『鹿苑日録』に「今の刀の出来ははなはだ悪く、その数はめっちゃ多い」って書かれているからねぇ http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1921037/73
  • 菅原道真晩年の屋敷跡か 太宰府市、祭祀用遺物も出土 [福岡県] - 西日本新聞

    「南館」で菅原道真が晩年を過ごした時期と重なる掘っ立て柱建物跡が見つかった発掘現場=25日午後、福岡県太宰府市の榎社境内 写真を見る かめ(土師器)の中に重ねるように入れられていた坏。祭祀に用いられた可能性があるという 写真を見る 写真を見る 福岡県太宰府市教育委員会は25日、10世紀初めに都から左遷された菅原道真が過ごした「南館」があったとされる榎社(同市朱雀)境内の発掘調査で、9世紀後半~10世紀前半の掘っ立て柱建物跡や溝跡が見つかったと発表した。溝から、かめに坏(つき)を重ねて入れた祭祀(さいし)用とみられる遺物も出土。市教委は「菅公(道真)がこの地で最晩年を過ごした時期(901~03年)と重なる注目すべき遺構」としている。  市教委は6月から調査を進め、平安時代の掘っ立て柱建物跡3棟などを確認。うち1棟は出土土器から9世紀後半~10世紀初頭と判明した。これまでにも南館跡の一部とみら

    菅原道真晩年の屋敷跡か 太宰府市、祭祀用遺物も出土 [福岡県] - 西日本新聞
    consigliere
    consigliere 2016/08/26
    「「草堂」とも表記し瓦ぶきでなかったことをうかがわせる」
  • 新発見の木簡 - 1089ブログ

    この度、トーハクの資料から法隆寺献納宝物の一部と考えられる木簡(もっかん)が発見され、大きな話題となりました。しかし、「博物館から発見ってどういうこと?」と思われる方も多いのではないでしょうか。 明治時代以来、膨大なコレクションを形成してきたトーハクですが、中には分類・整理のできていない作品や、修理の出来ていない作品も多くあります。こうした作品については研究員が長年かけて地道に研究し、どういう作品か確定した上で「列品(れっぴん)」とよばれる正規のコレクションに加えられます。 この木簡もそうした例の一つで、今回晴れてお披露目となりました。現在、法隆寺宝物館6室では「染織-広東綾大幡(かんとんあやだいばん)と初公開の木簡-」(8月23日(火) ~9月19日(月・祝))と題して、法隆寺伝来の幡とともに、木簡が展示されています。 展示されている木簡 さて、この木簡ですが160点以上にのぼる木の板と

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  • 蛇行剣とはなにか - 北の考古学─日々の着想

    南九州に中心をもちながら、茨城・新潟以西で出土している古墳時代の蛇行剣については以前ものべたが(2016.4.9記事)、これが蛇を模した剣である可能性は、その形状から容易に推察できる。「蛇行」の名がついたのも、そのような素朴な認識にもとづくものであろう。そこで、小池寛2003「神話と蛇行剣」『考古学ジャーナル』498を読む(こんなことしてる場合じゃないんだが、とりあえず宿題を二つ終えたので、息抜きくらいしてもよいであろう)。 同論文では、この蛇行剣について、「中国における蛇龍の概念が、5世紀の東アジアの胎動のなかで倭国に伝播し、首長が所有するに相応しい武器として生成」したものであり、「古墳時代中期に出現する大陸起源の概念を有する威儀具」であったとする。俯瞰的な視点は重要であるが、分布からすれば南九州ローカルの刀が全国展開したようにしかみえないのであるから、この結論は説得力を欠く。 小池は、